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第四部「その日の朝」
最終話
しおりを挟む警笛が鳴って、向こうから電車がやってくる。
すれ違いざまに見えた運転士は、まだ女学生といってもいいくらいの女の子だった。
そういうこちらの方の運転士も同じような女の子で、まるで女学生たちが交わす合図のように警笛を返していた。
戦争が長引くにつれて、街からめっきり若い男性が減った。
廣子自身も、思いがけず国民学校の代用教員をしているくらいだ。出征した若い男の先生の代わりに、六年生の「男組」の担任をしている。
物心ついたときには既に日支事変の真っ只中で、いくら「欲しがりません、勝つまでは」の精神を叩き込まれていようとも、そこは年端も行かぬ男の子たちだ。
やんちゃでいたずら好きの悪ガキどもばかりだった。だれもが「女の先生の言うことなんか、なぁんも聞かんでえぇぞ」という態度だった。
だから、受け持った当初は思うようにならず、かなり苦労した。
ところが、ここの土地柄、将来は海軍士官を養成する海軍兵学校へ入りたいという男の子が多かった。
戦死して靖國神社で軍神として祀られている義彦のような者は、彼らの「あこがれ」だ。
ある日、業を煮やした校長が子どもたちに、実は廣子が「軍神の妻」であることを明かした。
すると、子どもたちの態度が一変し、とたんに廣子の言うことを聞くようになった。
廣子は死んだ夫に、今も護られている。
「一人息子」を喪った自分が、こんなにたくさんの男の子たちを相手にする羽目になるとは皮肉なものだ、と廣子は思う。
だが、いくら今のところ空襲の被害がほとんどないこの街といえども、いつほかの都市のように爆撃され猛火に曝されるかしれない。
担任する学級の子どもたちは、疎開という名のもとに、櫛の歯が欠けるように一人減り二人減りしていた。あんなに手こずらされた熱っぽい活気は、今やもうない。
それに、残った子どもたちはいつもいつもお腹をすかせていた。
そして、教室で勉強することなどはまれで、運動場を潰した畑での農作業や、建物疎開の手伝いをする中学生や女学生のそのまた手伝いをする「勤労奉仕」ばかりに駆り出されていた。
廣電が紙屋町の停留場にさしかかり、徐々に速度を落としていく。
それまで左右にがたがた揺れていた車体が、前方につんのめる揺れに変わった。
廣子は、とうに履き潰したズック靴の足先に力を込めて踏ん張る。
そのとき、頭上でチカッ、チカッとなにかが瞬いた。
なんだろう、と思って、電車の人たちが一斉に車窓の向こうの空を見上げた。
目の前で座席に座っていた人は、背をねじって外を見る。
立っていた廣子も少し身を屈めるようにして、車窓から空を仰ぎ見た。
隔てのない大きな空がそこにあった。雲ひとつなく、突き抜けるほど青い夏の空だ。
通勤や通学の人たちで混む電車の中で、廣子は額にじわっと滲む汗を感じた。すでに、白いブラウスも絣のもんぺも、べたつき始めている。
——今日も暑うなりそうじゃねぇ。
子どもたちには勤労奉仕が待っていた。空きっ腹で働かねばならない子たちの体調を、よう見てやらにゃいけん、と思った。
次の瞬間——
世界中の光が、この廣島の地に集まったかのような閃光が走った。
いきなりの激しい眩しさに、廣子の目がくらむ。
ほんの一瞬だけ、世界が、真空のように澄みきった無音になる。
その直後、耳をつんざく大轟音とともに……
空が、まるごと——落ちてきた。
第四部「いつか」〈 完 〉
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