遠い昔からの物語

佐倉 蘭

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第三部「いつか」

第十九話

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   わたしには、兄が一人いた。
   母はそれまでに二回流産していたため、無事生まれ、しかも待望の男子である兄は、周囲の期待を一身に受けて育った。

   生まれ育ったのはわたしと同じ東京だが、中学は父の母校である廣島一中に進学したので、親元を離れ寮生活を送っていた。

   ところが、ある冬、流行性感冒りゅうかんをこじらせてしまった。
   入院したとしらせを受けて、母が看病のために東京からこの地にやってきたその日に、兄はあっけなく息を引き取った。

   母がこの地に疎開したがらなかったのは、一人息子を死なせた地であるからだと思う。

   東京には荼毘だびされたあとの遺骨として帰ってきたから、わたしは兄の死に顔を見ていない。
   だから、実を云うと、今でもまだ兄がどこかで生きてるのではないか、というぼんやりした思いがわたしにはあった。


「どうして、兄さんのこと、知ってるの」
   わたしはびっくりして、思わず上擦った声になってしまった。

「きみ、僕のこと、佐伯から聞いてないのかい。一中で同級だったんだぜ」
   兄は長い休みで家に帰ってきたときも、妹なんかに学校のことを話さなかった。

「一中にいたとか、竹内先生のこととか、寅年生まれだとか、いろいろ云ったけど、無駄だったか」
   彼は軽くため息を吐いた。

「僕は一目見て、気づいたのにさ。きみが佐伯の……誠太郎の妹だって」

   そういえば、この口調——この物云いは、紛れもなく兄のものだった。
   彼がすんなり東京の言葉に溶け込めたのは、中学時代から兄の言葉を始終聞いていたからだと、やっと気づいた。

「初めてきみを見たときは、あんまり似ているもんでつらくなってね。直視できなかったよ」
   彼は苦笑いをした。

「兄さん、わたしのこと、あまり良く云ってなかったでしょう。うちにいる頃はしょっちゅう、口喧嘩ばかりしてたから」
   わたしは少し口を尖らせて云った。

「そんなことないさ。もっと、妹に優しくしておけばよかったって、あいつ云ってたぜ」
   彼はしみじみと云った。

「『うちを離れてからっしきゃ、わかんねぇもんだな』って」
   ちょっと悪ぶって遣っていた、東京の下町の言葉だった。

——まるで、兄が目の前にいるかのようだった。

   そう感じた瞬間……

——兄は、やっぱり、死んだのだ。

   初めて、実感を伴って胸に迫ってきた。
   すると、一瞬にして涙が込み上げ、わたしの両目から、ぼろぼろぼろっと、流れ落ちた。

   彼がわたしの肩をぐっと引き寄せた。
   わたしは彼の胸に顔をつけ、子どものように声をあげて泣いた。

——お葬式のときだって、こんなには泣かなかったのに……

「きみが、ちっとも奴の話をしないからさ。これはしちゃいけないんだなって思ったんだが……やっぱりそうだったな」
   彼はわたしの背を撫でながら云った。

「僕のうちにも、何度も遊びに来て泊まっていったからさ。うちの両親に佐伯の妹に会ったって云ったら、きみに会いたがってね」

   そうだったんだ。兄がお世話になっていたというのに、不義理をしてしまった。

「……ご両親に……よろしく…云って……おいて…ね」
   わたしは泣きじゃくりながら云った。

「うちの両親が、きみに会いたがってるのはそれもあるんだけどね。……今頃、うちの親父ときみの伯父さんが、話を詰めてるかな」

——何の話だろう。

「もちろん、東京のきみのご両親のご意向も伺わなければならないが……」

   わたしは彼を見上げた。彼もわたしを見つめた。

「僕が無事還って来たら……きみをもらうことになると思う」

   わたしの目が大きく見開かれた。

「もうちょっと早く出会っていれば、もっとちゃんとした形で出征できたんだけどな」

   彼は残念そうに顔をしかめた。

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