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第三部「いつか」
第十話
しおりを挟む彼は、それから三日とあけず訪ねてくるようになった。それも、いつも昼下がりの、家にはわたししかいない時間帯だった。
「好きな本が自由に選べるから」というのが彼の理由であったが、嫁入り前のわたしは、世間に変な噂が立つのを恐れた。
それを伯母に云うと、隣組には「もうすぐ出征する親戚の子が、気晴らしのための本を借りにやってくる」というようなことを世間話の中に紛らせてくれた。
みんな、これからお国のために兵隊になる人に対しては、寛大にならざるを得なかった。
それに、入営するまでの限られた期間のことだ。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
彼は本棚の前で高い背を屈め、持って帰っていた本を元の場所へ戻した。
それがプラトンの「饗宴」というものだったので、
「いつも難しそうな本ばかりね」
わたしは思わず云った。その前は、ソクラテスだのアリストテレスだのが関連した本だった。
「古代の哲学書だと、だれに見られても咎められないからね。それに、自然科学の祖だしね。……でも、云うほど難しい内容ではないよ」
理科系を勉強している彼は、平然と云った。
「プラトンの『饗宴』には、人間は太古の昔、男男・女女・男女の三種類だったらしいが、その後人間が驕り高ぶったために、神の逆鱗に触れて半分に引き裂かれてしまい、それ以後人間は、失った自分の半身を捜し求めて彷徨うようになった、っていうようなことも書いてある」
「案外、俗なことが書いてあるのね。哲学って、もっと高尚なものだと思っていたわ」
わたしは驚いて云った。
「もちろん、これは一つの挿話に過ぎないけれども、人間とはなにかということを見つめるのが哲学だからね。俗な部分も多いよ。いや、ある意味……俗そのもの、かもしれないね」
そして、次に読む本を、背表紙を眺めて物色し始めた。
「……あっ、これ、読んでみたかったんだ」
彼は「珈琲哲学序説」という本を抜き出した。著書の名は寺田寅彦とあった。
「日本人の哲学者の本なの」
わたしが何気なく尋ねると、
「違う、物理学者さ。漱石の弟子で随筆家でもあるんだ。それに、これは哲学書じゃないよ」
彼は苦笑して肩を竦めた。
「もっとたくさん持ってお帰りになればよろしいのに」
手にした「珈琲哲学序説」だけを持って帰ろうとする彼に、わたしは云った。
彼はいつも、一冊ずつしか持って帰らない。だから、またすぐに来なければならなくなるのだ。
「いいんだよ。持って帰っているときに家に空襲が来て、焼いてしまったら申し訳ないからね」
そう云ってから、あの悪戯っ子の顔をして、わたしを見た。
「それに……きみにもたくさん会えるしね」
——よく云うわ。廣ちゃんのことが好きなくせに。
「きみはもう、谷崎は読まないのかい」
彼がわたしの手元を覗き込んで訊いてきた。
わたしは川端康成の「花のワルツ」を手にしていた。これは、典江姉さんか廣ちゃんの本だろう。
バレリーナが出てくる話みたいで、いかにも「少女の友」に掲載されていそうだ。そういえば、川端はその少女雑誌に関わっていたんだっけ。
「そんな『少女の友』みたいな本、やめときなよ。きみには退屈だよ。川端を読むのなら『浅草紅団』なんかの方がいいんじゃないかな。……でも、谷崎の『痴人の愛』ほどの衝撃はないだろうけど」
そう云うと、先日の慰問袋から「痴人の愛」が出てきた「衝撃」を思い出したのか、彼は肩を震わせて笑い出した。
わたしがものすごい目で睨むと、彼は「いや、失敬」と云って、笑いを収めようとするが、どうにも止まらない。
ひとしきり笑ったあと、彼はぽつりと呟いた。
「……どんな凄まじい戦場だって、このことを思い出すと、きっと笑えると思うな」
「入営はいつなんですの」
わたしは尋ねた。自然と目を伏せていた。
「来週の月曜日」
彼は答えた。正面を見据えていた。
あとは、沈黙になった。
だが、彼が口火を切った。
「……きみ、泉邸へはもう行ったかい」
私は首を振った。どんなところなのかも知らなかった。
「支那の西湖っていうところの風景を真似て、江戸時代に藝州廣島藩主が造らせた庭園でね。すごく綺麗で、優美な景観なんだ。僕の子どもの頃は、ごく一部の人しか見られなかったんだけど、何年か前から一般大衆にも開放されてね」
そして、夢見るように云った。
「入営する前に、もう一度……見ておきたいなぁ」
この地はまだ空襲での被害がほとんどないとは云え、いつまでその景勝が保てるかわからなかった。
「……きみ、行ったことがないのなら、一緒に行かないか」
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