遠い昔からの物語

佐倉 蘭

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第三部「いつか」

第八話

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   その週の日曜日、昼下がりに彼はまたやってきた。
   ところが、休みの日はいつも家にいるはずの廣子が、今日に限っていなかった。

   伯父は伯母に云いつけて一升瓶を持って来させた。仕舞い込んであった、取って置きの日本酒だった。

   それを、とくとくとく……と注ぎながら、
「廣子は、神戸から来んさった武藤むとう少佐のおごうさんの薫子ゆきこさんに会いに出かけとるけぇ」
と、すまなそうに云った。

「武藤少佐……あぁ、兄貴の相棒の神谷かみたに大尉じゃのう。確か、一人娘と結婚して相手方の姓になりんさったな」
   彼は合点がいったような顔をした。

「兄貴と一緒のふねで戦死して、同じく一階級特進したけぇ、少佐か。……神谷 みのる少佐の奥さんがんさったんか」

   そして、注がれたお酒をくーっと飲み、
「……美味うまい。今じゃもう手に入らん酒を飲ましてもろうて、戦場でえぇ働きができそうじゃ」
   満足そうな笑みを浮かべた。

「武藤少佐のおごうさんは、三つになる男の子の顔を、廣子に見てもらいたいから云うて、汽車の切符もなかなか取れんし、もんすご込んどるんに、わざわざ連れて来ちゃってねぇ」
   今度は伯母がお酒を注いだ。

「廣子の子も、無事生まれとりゃ、そんくらいになりょったはず……」
   伯母の目に涙が浮かんだ。

寬仁ともひと君のめでたい門出を祝っとるんじゃけぇ、辛気臭い顔すな」
   伯父が渋い顔でたしなめた。

   伯母は目頭を割烹着の端で、さっさっと拭い、
「寬仁さん、持って来んさった千人針はしっかり預かりましたけぇ」
   気を取り直して云った。

   千人の女性が一針ずつ玉結びをこしらえていく「千人針」は、銃弾除けのお守りとして、出征兵士の必需品だ。

   彼の千人針には「四銭死線を超える」ということで五銭硬貨と、「九銭苦戦を超える」ということで十銭硬貨が、既に縫いつけられていた。彼の母親の手によるものであろう。

   もともと、木綿は支那からの輸入で賄っていたから、支那事変が始まってからは早々と品不足になり、今となっては手に入れるのは並大抵のことではない。彼の母親もずいぶん苦労したことだろう。

   彼の千人針は、完成すると虎の図柄となるようだ。
   昔から「千里を行き、千里を帰る」と云われる虎は、戦にとって縁起物の動物である。
   だから、縁起を担いで寅年生まれの女だけは、一針だけではなく、自分の歳の数だけ玉結びを拵えることができた。

安藝子あきこは確か、寅年じゃぁなかったか。刺してやりんさい」
   伯父がわたしにそう云った。酒に強くない伯父は、そろそろほろ酔い気分になっていた。

「伯父さん、わたし、寅年生まれではありませんわ」
   わたしは首をすくめた。
「お役に立てませんので、どなたか寅年の人にお願いされた方が、きっとご利益があってよ」

   庭を潰して耕した小さな畑でった、ひょろっとした胡瓜きゅうりくらいしか肴はなかったが、彼は若者らしく、ぐいぐいお酒を呑んでいった。
   でも、顔色一つ変えず、素面しらふのままに見える。

   彼の半分も呑んでいないはずの伯父の方が、とうとう昼間から酔い潰れてしまった。

「おったん、この非常時にこがぁな姿、隣組に見られたら、なんて云うんか」
   伯母は千鳥足になった伯父を、寝間へ連れて行った。


   わたしと彼は、座敷で二人きりとなった。

「僕は、きみにずいぶんと嫌われたみたいだね」
   彼は口の端を歪めて苦笑した。

   その顔を見て、わたしはお国のために出征する人に対して、薄情な態度をとってしまったことに気づき、ハッとした。

    彼が手を伸ばして、脇に置いてあった千人針を取った。そして、わたしにそれを差し出した。

「僕は、きみに、刺してもらいたい」

   わたしは無言で、彼の手から千人針を受け取った。

   そして、わたしは千人針に取りかかった。と云っても、玉結び一つこしらえるだけだからじきに終わるのだが、彼はその間、わたしの手元をじーっと見つめていた。

   わたしは、刺した千人針を彼に返した。

   彼は満足げに微笑みながら「ありがとう」と受け取った。人懐っこそうな、少年のような笑顔だった。

   突然、どういうわけか、居心地の悪い心持ちになった。

   なので、目を逸らして、
「本当に、わたしなんかより、寅年の女の方にお頼みなった方がよろしいのに」
   つい、厭味いやみっぽく云ってしまった。

   すると、彼は、
「大丈夫、僕が寅年だから」
と、悪戯いたずらっ子の顔になって声を立てて笑った。

   しかし、次の瞬間、急に表情を引き締めてつ呟いた。

「……きっと、かえって来る。僕は、兄貴のようには絶対にならない」

   まるで、自分自身に云い聞かせているみたいだった。


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