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第一部「初めて」
第四話
しおりを挟むうちは呆然と立ち尽くしていた。
夜は別の部屋を用意してあるというので、父はうちをここへ寄こしたのに……
不機嫌そうに顔を顰めた父の顔が浮かんだ。どんなときでも明るく朗らかに笑う母の顔も。
そして、好きな人と結ばれることになって、一段と綺麗になった姉の顔も……
——今頃、なにしょうるんじゃろ。
うちの目に涙が込み上げてきた。でも、ここで泣くわけにはいかない。
だから、うちは気を紛らわすために、胸に抱えた風呂の道具を片付けにかかった。着替えた着物や肌襦袢を衣紋掛けに吊るし、濡れた手ぬぐいを干し、汚れ物を鞄の中に入れた。できるだけ、バタバタと音を立ててやった。
「そがぁに、はぶてんなや」
間宮中尉が、灰皿に煙草をぎゅっと捻りつけ、立ち上がった。座っているときはあまり感じないが、立ち上がられると、六尺近くある上背に圧倒される。
だけど、うちは五尺とちょっとしかない背丈で、果敢にきっと睨んで云った。
「うちゃぁ、ちぃーっとも、はぶてとらんけん」
間宮中尉は一瞬、目を見開いたが、すぐに満面の笑みになった。
「よいと、われの顔がきしゃっと拝めたのう」
うちは、また俯いた。
間宮中尉は懐手をして近づいてきた。
「裏の溝に蛍がようけおるそうじゃけぇ、見に行かんか」
俯いたうちの顔を覗き込んで中尉は云った。
「……うち、慣れん汽車でくたぶれたけん、お先に休みますけぇね」
うちは蚊帳の入り口を捲り上げて、さっさと中に入った。
部屋は電燈を消されて、一瞬のうちに真っ暗になった。
寝巻きに着替えた間宮中尉が蚊帳の中に入ってくる。わたしは中尉に背を向けて横たわっていた。
生まれて初めて一人きりで長い間汽車に乗って、全然知らないところへ来て、全身はくたくたに疲れているはずなのに、目は異様に冴えている。やけに蒸し蒸しする、暑い夜だった。
間宮中尉が蒲団に身を収めると、息をするのも憚られるくらい、辺りはしーんと静まりかえった。
外からだろうか、猫の鳴き声が聞こえてきた。
——異な気なことじゃねぇ。今の時季に猫は盛らんじゃろうに。
耳を澄ましてみた。
「・・・ぅう・・・ぁあ・・・ぅう・・・」
外からの声じゃない。たぶん、襖の向こうからだ。そして、猫の鳴き声じゃない。
——女の声じゃわ。
それは、女のすすり泣くような声だった。
——一緒にお風呂へ行った薫子さんかもしれん。なにかあったんじゃろか。
うちは寝返りを打って、間宮中尉の方へ向き直った。蚊帳が小さいため、中尉はわたしが思っていたよりもずっとすぐ脇で横になっていた。
暗闇の中で間宮中尉と目が合う。
彼もまだ眠っていなかった。
また、声が聞こえてきた。
「・・・ぁああ・・ぅうん・・・はあぁ・・・」
ようやく、うちは気づいた。
——あがぁな声は……そがぁな声は……
うちは、あわてて間宮中尉から視線を外した。そして、また寝返りを打って彼に背を向けようとした。
すると、中尉は強い力でわたしを引き寄せた。あっという間に、うちは中尉の腕の中にいた。
困惑しきって混乱状態になったうちは、必死にバタバタもがいて、なんとか逃れようとした。でも、大きな体躯の間宮中尉には太刀打ちできず、ただ身につけていた寝巻きの裾が乱れ、襟元が緩んだだけだった。
間宮中尉はうちの上に覆いかぶさった。耳元に彼の息がかかる。
「……大人しゅうしてくれんか。男に恥、かかせんでくれんなや」
甘い、ささやくような声だった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
*よいと ー やっと
*はぶてる ー(機嫌を損ねて)拗ねる
*きしゃっと ー ちゃんと
*ようけ ー たくさん
*いなげな ー 奇妙な・不思議な
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