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第一部「初めて」
第一話
しおりを挟むつい先刻まで乗っていた汽車は、盛大な煙を吐き出し、夕暮れのプラットホームを出て行った。
うちは、父から借りた革の旅行鞄を「よいしょ」と持ち直し、駅の手洗いへ向かった。洗面台の上にかかっている鏡は古びている上に磨かれてもいなかったので、ぼんやりとしか姿を映さなかったが、それでも自分の顔が煤で黒く汚れていることだけはわかった。
——白粉でもはたいたら、この幼な顔も、ちいっとは年頃の娘んように見える思うたけぇ。
朝から姉の典江に手伝ってもらって化粧をしたというのに。うちはため息を吐いた。
でも、仕方がないので、蛇口をひねり水を出して、ピシャッピシャッと顔を洗う。冷たい水が思いの外、心地よい。
車内に煙が充満しないように、トンネルを通過する度に窓を閉め切っていた汽車の中は、蒸し風呂のようだった。
この夏の暑い最中に、着物で来たのが間違いだった。したたり落ちる汗で、襟元はぐずぐずになっていた。手巾で顔と首を拭い、襟元を直したら、手洗いを出て、改札口へと向かった。
改札口の柵から身を乗り出すようにして、ホームの方を見つめる小太りの中年の女がいた。
うちと目が合うと一瞬、訝しげな顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「お嬢さあーん、こっちじゃけえー」
女は手を振り上げて、大声で叫んだ。
周りの者がうちを見る。うちは恥ずかしさで頬を赤らめながら、女に駆け寄った。
「……佐伯 廣子です」
そう名前を告げると、
「やぁやぁ、よう来んさったねぇ。朝から中尉殿、首を長うして待っちょるけぇのう」
と云って、うちの手から旅行鞄をひょいと取りあげて歩き出した。
駅を出ると自動車が待っていたので、それに乗り込んだ。ボンネットの端には海軍の旗がはためいていた。これから、いよいよ婚約者の待つ旅館へ向かうのだ。女はその旅館の仲居で、うちを案内するために婚約者が仕向けた者だった。
うちの婚約者、間宮 義彦は海軍航空隊所属の中尉である。
この町にある、昨年できたばかりの海軍の岩國基地で飛行訓練をしていた。
その間宮中尉から、この度三日間の休暇を賜ることになったからうちを寄こしてほしい、という手紙が突然、父の元に届いた。
嫁入り前の娘がたった一人で汽車に乗り、婚約者とは云え男に会いに行くなんて、世間が聞いたらなんと云うかしれないから、てっきり反対するものと思っていたら、
「顔を見せてくりゃぁえぇわ。中尉殿は、お国のために日夜、命乗すけとるんじゃけぇ」
と云って、父はあっさりと許可を出した。
うちのような立場の女が他にもいて、夜は彼女たちと一緒に休む部屋が用意されていると書き添えてあったため、それなら案ずることはないと判断したようだ。
そもそも、間宮中尉は姉の典江の見合い相手だった。
姉はうちと違って、美人である上に、女学校時代にはずっと級長を務めていたほど頭が良いので評判だったから、海軍兵学校卒の士官である間宮中尉との縁談が来たのだと思う。
だけど、姉は隣に下宿している高等師範学校出の中学の先生のことを密かに慕っていた。そして、先生も姉に思いを寄せていた。
うちはそれを知っていたから、一肌脱いで、二人をくっつけてあげたのだ。彼らは来年、めでたく祝言を挙げる。
これで、間宮中尉と我が家との縁は切れた、と思った。そしたら驚いたことに、先方はうちを、と云い出した。もともと間宮中尉自身は初めから、姉ではなくうちを望んでいた、というではないか。
頼まれて急遽渡した姉の写真は、今年の正月に写したもので、隣にはおまけのようにうちが写っていた。
父も母も、きっと向こうが気を遣ってのことじゃと思い、
「春に女学校を出よったばかりのこがぁな子が軍人さんの奥さんじゃて、任に合うとらんけぇのう」
と云って、やんわりと断ろうとした。
ところが、先方は引き下がらなかった。
海軍には「士官の結婚は大尉に昇進してから」という慣例があるし、海軍大臣の承認も必要なため、今すぐにとは云わない、とりあえず結納だけ済ませておけばそれで良いのだから、と喰い下がった。
父も母も、海軍中尉を姉妹で袖にさせる勇気はなかった。
こうして、うちが間宮中尉に嫁ぐことが決まった。
でも、訓練で忙しく休暇が取れない中尉と会ったのは、見合いの日と結納の日の、たった二度だけだった。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜
自動車が旅館に着いた。
仲居の話によると、ここは海軍がこの町の基地で訓練をしている士官たちのために借り上げた温泉旅館だそうだ。だから、軍関係以外の者は立ち入ることができない。
二階に上がって、ある部屋の前に来た。
「間宮中尉殿、お待ちかねのお嬢さんが来んさったよう」
仲居がそう声をかけてから、すーっと襖を開ける。
部屋の奥の床の間の前に、着流し姿の男が座っているのが見えた。
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*のすける ー 乗せる・渡す
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