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八段目
岳父の場〈壱〉
しおりを挟むこの松波家の家人が使う部屋では間違いなく一番立派な座敷の前に、美鶴は来た。
鶯茶色の小袖の上に羽織った紅鼠色の打掛に乱れがないかしかと確かめたあと、明障子の前で正座する。
「……美鶴にてござりまする」
声が震えぬよう、腹に力を入れて申す。
「入れ」
短くとも威圧感溢れるその凛とした声は、まさに人の上に立つ者の其れであった。
美鶴はややもすると怯みそうになる心を落ち着けるために、一度大きく息を吸った。
背筋を伸ばしてから、明障子をすーっと開ける。
「舅上様、美鶴にてござりまする。昨日は話もできず、誠に申し訳ありませぬ。つきましては、本日改めて御目通り願いまする」
吉原の廓で振袖新造だった時分から、数えきれないほど頭を下げてきた美鶴であったが、此度は今までで最も深く平伏した。
「御無礼仕りまする」
そして、座敷の中へと入った。
「……すかしたあの男がよ、望んでも叶わねぇ『ちちうえ』っ云う言葉をさ、何の因果か、このおれがおめぇさんから聞けるってぇのは、滅法うれしいもんだぁな」
突然、ざっくばらんな町家言葉が聞こえてきた。驚いた美鶴は思わず面を上げる。
すると、さような砕けた物云いとは裏腹に、床の間を背にし武士らしく姿勢を正して座する、壮年の男が目に映った。
本日の御役目を終えて南町の組屋敷に帰ってきた男は、すでに寛いだ着流し姿だった。
されども、その目の鋭さだけは決して緩むことはなく、きっと江戸府中を取り締まる御役目に臨んでいる際と、さほど変わらぬに違いない。
——このお方が……かつて「浮世絵与力」と呼ばれた御仁でござりまするか……
吉原にいた頃、町家の噂でさんざん聞き及んではいたが、当人を前に拝顔したのは初めてだった。
——あぁ、やはり、若さまによう似てなさる。
きりりと精悍な面立ちで頭は粋な本多髷はもちろん、にやりと不敵に笑みを浮かべるさまは、まさにこの父から兵馬へと「生き写し」されたものだ。
美鶴は黙ったまま、呆けたようにぼんやりと眺めてしまった。
「この松波家の主人で、南町奉行所の筆頭与力・松波 多聞だ」
舅から名乗りを上げられ、途端に我に返った美鶴は、
「あ、改めまして……美鶴にてごさりまする」
と告げて、あわててまた平伏する。
「此度のこったぁ、おめぇさんにとっちゃ思いがけねぇことが多すぎて、なにかと大儀であったな」
「か、かたじけのう存じまする」
平伏したまま、礼を述べる。
「だがな、この縁組にはおれらのような町方役人風情にゃあどうすることもできやしねぇ、上っ方の『思し召し』ってもんが絡んでっからよ」
あの祝言の場で、てっきり美鶴が広次郎の父親だと思っていたのは、この多聞であった。
「おめぇさんも思う処があるかもしれねぇが、どうか了見してくれな」
——もしかして、島村の家では祝言の相手が広次郎さまだと聞かされてござったことを云うておられるのか……
だが、たとえそうであれ……
「もったいなき御言葉にて、恐縮至極にてござりまする」
美鶴に云える言葉はこれよりほかはない。
「おいおい、堅っくるしい挨拶は抜きにしてくんな」
歳を経て渋みを重ねたが、それでも決して損なわれることのない端正な顔を、多聞は困ったように歪めて苦笑した。
「おめぇさんには、これからもずいぶん苦労をかけるたぁ思うけどよ。……どうか、うちの不肖の倅・兵馬のことを末永くよろしく頼むぜ」
嫁入って早々、かようなことを舅の口から云われては、恐縮しきりの美鶴の頭がますます下がる。
「わたくしの方こそ、此方の御家の方々がご覧ずれば不作法極まれりと思われまする。つきましては、舅上様や姑上様には何卒、末永く御指導・御鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げまする」
「回りくでぇ口上はいいからよ。ちょいとおめぇさんの面を上げて、よっく見してくれねぇか」
多聞に促され、美鶴はようやく下げていた顔を上げた。
多聞の眼光鋭き目が、すーっと細くなる。
「……おめぇさん、おてふの若ぇ時分に瓜二つだな」
——まさか……わたくしが「おてふ」の娘であることを舅上様はご存知か……
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