大江戸シンデレラ

佐倉 蘭

文字の大きさ
上 下
46 / 129
五段目

忍苦の場〈壱〉

しおりを挟む

   舞ひまいつるの「美鶴」としての新しい暮らしが始まった。

   如何いかなる経緯いきさつなのかは未だ知らぬが、連れてこられた先は「島村しまむら」と名乗る御公儀の役人の御家であった。

   五十坪ほどの家屋敷の中で、美鶴にゆるされた部屋は、北西の一番端だ。
   朝はさっぱり陽が差さず、夕刻近くになってようやく西陽が届く、じめじめした場所にある。
   さらに、敷地内にはさほど広くはないが中庭がしつらえてあるため、気晴らしに見てみようと思うにも、この部屋からでは端しか見えない。

   所在なげに部屋から縁側に出た美鶴は、かろうじて見える庭の端を眺め、ほうっと深いため息を吐いた。

   此処ここへは女中のおさと・・・以外の者が来ることはなかった。
   一応、美鶴のことを任されたといえども「御付きの者」というわけではなく、おさとにはほかにも細々こまごまとした仕事があるようだった。

   ゆえに、「話し相手」になるような気配は、いっさいない。

   だれとも話さずに日がな一日を過ごすことが、こないにも寂しくてわびしいことだなんて、知らなかった。

   吉原では、くるわおんなたちのだれかと絶えず話をしていたものだった。かしましかった禿かむろの羽おり・羽おとの口喧嘩すら、妙に懐かしい。

   身一つで参ったがゆえ、なにも持っていない。なにをすればよいのかも、皆目わからない。

——かようなことが、これより先ずっと続くなんしかえ。


   そのとき、おさとが反物を二本抱えて渡り廊下をやってきた。

「御新造さんが、とりあえず男物と女物の浴衣を縫うようにってなさるんで」
   さように云って、木綿地の反物を差し出す。

   『男物と女物』ということは……

——この家のあるじとその妻女の浴衣を縫え、ってことなんしかえ。

   主はよほど御役目が忙しいのか、まだ美鶴の前に顔を見せたことがなかった。
   そして、やはりあの「女」が主の妻女で、名を多喜たきと云った。
   二人の間に子はおらぬようであった。

   美鶴は木綿地を受け取った。

——はて、困ったでありんす。わっちは生まれてこの方、縫い物などしたことがあらでなんし。

   針で指を傷つけるわけにはいかないゆえ、くるわおんなたちは針仕事を禁じられていた。そもそも、見世の者がまとう着物の仕立ては、すべてお針子の仕事だった。

   確かに身形みなりだけはいっぱしの「武家娘」になった美鶴だが、中身の方はなに一つ伴っていなかった。

   途方に暮れる美鶴を尻目に、
「針箱は其処そこいらへんにあるだろっから、探しておくんなせぇ」
と云って、おさとはさっさと出て行った。

   実は、美鶴が寝起きするために与えられた「部屋」は、六畳間に古い箪笥たんすなどが押し込められた「納戸」であった。

   納戸は、畳のない板張りの床だ。ゆえに、その上に煎餅布団を敷いて寝ると、朝起きれば身体からだきしんで腰に痛みが走った。
   苦界と呼ばれるくるわの暮らしの方が、よっぽど心地よく思われた。

——確かに此処ここであらば、針箱と云わずさまざまな物が置いていなんし。

   とりあえず、畳んで寄せておいた布団の隣にある箪笥から抽斗ひきだしを開けていく。

   人の出入りがなく、ずいぶんと長い間放ったままにしていたのであろう。とたんに埃が舞い上がった。袖の先で口元を覆って咳き込みつつも、乱雑に物が入った抽斗から、なんとか針箱を探し出した。

   だが、しかし……

   反物と針箱を目の前にして、美鶴はどうすることもできなかった。


゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


   それから幾日か経った頃、多喜が怒鳴り込む勢いでやってきた。

「そなたは、浴衣一つ縫い上げるのに、如何いかほどのときを費やすつもりかっ」

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。 貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや…… 脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。 齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された—— ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜

佐倉 蘭
歴史・時代
★第9回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 「近頃、吉原にて次々と遊女の美髪を根元より切りたる『髪切り』現れり。狐か……はたまた、物の怪〈もののけ〉或いは、妖〈あやかし〉の仕業か——」 江戸の人々が行き交う天下の往来で、声高らかに触れ回る讀賣(瓦版)を、平生は鳶の火消しでありながら岡っ引きだった亡き祖父に憧れて、奉行所の「手先」の修行もしている与太は、我慢ならぬ顔で見ていた。 「是っ非とも、おいらがそいつの正体暴いてよ——お縄にしてやるぜ」 ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」に関連したお話でネタバレを含みます。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す

矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。 はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき…… メイドと主の織りなす官能の世界です。

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

処理中です...