22 / 129
三段目
玉ノ緒の場〈壱〉
しおりを挟むその日の久喜萬字屋は、振袖新造・玉ノ緒が身請けされる話で持ちきりだった。
此度、玉ノ緒を落籍かせることに決まったのは淡路屋という廻船問屋で、江戸府中で知らぬものはいない大店だ。
先頃、其処の跡取り息子が「世間」を知るため、父親である主人に連れられて吉原にやってきたのだが、どうやら玉ノ緒を見初めたらしい。
以来、親の目を盗んで、しばしば通っていたと云う。
淡路屋の主人にとって晩く生まれた念願の一人息子は、まだ二十歳にも満たないと聞く。若さゆえ、初めての「恋」に頭に血が上ったのであろう。
だが、廓通いは大金が掛かる。大事な店の金を持ち出しての所業であった。
ふつうであらば、さような銅鑼息子、勘当して店から叩き出すところである。
ところが、父親としては我が子かわいさ余ってしのびなく、息子がそないに想いを寄せる妓なら、いっそのこと嫁に迎えるか……と、なったに違いない。
また、大店を預かる当代の身としては、我が目の黒いうちに次代を任せる跡取りにしっかりと身を固めさせておきたい、と云う算段なのかもしれない。
実は、「振新」は町家で商売をやっている商家にとっては、なかなかの「掘り出し物」なのだ。
歌舞音曲はもちろん詩歌や和漢籍の教養を叩き込まれている上に、廓の一癖も二癖もある客で鍛えられているため肝の座り具合も半端なく、客遇いなんて、お手の物だ。
にもかかわらず、まだ一度も客を取らぬ生娘ときている。
花街で培われた色気の滲んだ美しい容姿に、客を最上にもてなしても決して媚びは売らない「吉原遊女」の心意気は、町家の娘が束になってかかっても、敵うものではない。
よって、商家が跡取り息子の嫁に振袖新造を請う話は、決して少なくはない。
とは云え、廓の妓を落籍かせるためにはとんでもなく金が掛かる。
「身請」するには、親元に支払った負い目(借金)の残り全額とそれに掛かる金利だけでなく「身代金」も要り、しかも一括で払わねばならない。
身代金は、妓の格とその見世での稼ぎ具合によって決まるため、見世で重宝されているほど高くなる。
時期によっても異なるが、呼出(花魁)ならうんと低く見積もっても千両、部屋待ちの遊女や振袖新造なら五百両、部屋を持たぬ廻しの女郎であっても百両がおおよその相場であった。
宵越しの銭を持たぬ、というより持てない江戸の民にとっては途方もない額である。
淡路屋は、たった一人の跡取り息子のために、五百両もの大金をぽんと出すのだ。
「……そもそも、淡路屋に後妻に入りなんしたお内儀さんが、若い頃久喜萬字屋にいなんしたそうでありんす」
羽おりが、何処ぞで聞きかじったことを得意げに云った。
「えっ、さようでなんしかえ」
羽おとが、団栗眼をさらに大きく見開く。
「なんでも、今の旦那さんが見初めなんして、さんざん通い詰めなんした挙句に、落籍かれなんしたそうでありんす」
「わぁ、わっちもいずれ、そないな主さんに巡り逢いとうなんし」
羽おりも羽おとも夢心地になって、うっとりとしていた。
遊女や女郎にとって、大枚叩いてこの苦界から請け出してくれる「主」は、神様仏様に見えた。
0
お気に入りに追加
77
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す
矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。
はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき……
メイドと主の織りなす官能の世界です。
父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし
佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。
貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや……
脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。
齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された——
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜
佐倉 蘭
歴史・時代
★第9回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
「近頃、吉原にて次々と遊女の美髪を根元より切りたる『髪切り』現れり。狐か……はたまた、物の怪〈もののけ〉或いは、妖〈あやかし〉の仕業か——」
江戸の人々が行き交う天下の往来で、声高らかに触れ回る讀賣(瓦版)を、平生は鳶の火消しでありながら岡っ引きだった亡き祖父に憧れて、奉行所の「手先」の修行もしている与太は、我慢ならぬ顔で見ていた。
「是っ非とも、おいらがそいつの正体暴いてよ——お縄にしてやるぜ」
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」に関連したお話でネタバレを含みます。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる