宿屋マリリン亭の日常

天地海

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繁盛の日:日

第1話

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 少しばかり欠けた月が、駆け抜ける二つの人影を夜道に描いた。
 夜道、といってもそれほど整備はされていない。
 この道は、今ではほとんど使われなくなってしまった。
 かつては南西の隣国レークレイド王国へ繋がる街道だったが、十数年前に突如として現れた迷いの森によって、この道は完全に閉ざされてしまった。
 周囲を林が囲み、かつて街道だったところだけがぽっかりと空が見えるので、その名残を感じられるくらい。
 今では、ほとんど人が通ることはない。
 唯一通るのは、命知らずの冒険家など。
 迷いの森で命を失った冒険者はいないが、自らの意思では出ることは叶わず、気がついたら迷いの森の外に出されている。しかもどうやって外に出たのか覚えてもいない。
 曰くが付くのは当然だった。
 それも一人や二人ではなく、かつて迷いの森に跨る国の軍隊が迷いの森に探索に入り、その全ての部隊が同じようなことにあったのだ。
 ふと、カレンさんの顔が浮かぶ。
 こんな時に、他の人の心配をしていると知ったら、呆れるだろうか。
 やがて、前を行く人影のスピードが落ちてきた。
 サラはこれといって特に足が速いわけではない。
 まあ、人並みだろう。
 そういう意味ではリータ先輩が追いかけた方がすぐに追いついただろう。
 でも、諦めないという意味なら、マリリン亭にいる誰にも負けない自信があった。
 命には必ず終わりがあると達観しているところはある。だからこそ、精一杯生きる。
 それが、家族と集落に生きる仲間たちを失って得た、サラの人生観だった。
 もうほとんど歩いている速度と同じだった。
 肩で息をしていて疲れているのが伝わってくる。
 サラも同じ。
 このまま歩き続けたら、いつか迷いの森に入ってしまう。
 気付いていないのか。それとも気付いていてそこへ向かっているのか。
 どちらでもない。
 ただ、逃げたかっただけだろう。
 ……きっと家出をした時と同じように。
 心配事はそれだけじゃない。
 この辺りの道はもうほとんど人の近づかなくなった道。
 つまり、宿場町とクロードスーズの町を繫ぐ街道よりも、魔物が現れる可能性は高い。
 いざとなったら、抱えてでも逃げないといけない。
 レイナ先輩のように、サラには魔法なんてものは使えないのだから。
 周囲に気を配っていると、目の前が開けた。
 道を囲む林が途切れたのだ。
 この辺りは来たことがなかったから、知らなかった。
 月明かりが小さな原っぱを舞台のように照らし出す。
 その向こう側に、これまでの林とは雰囲気ががらりと違う、深い森が広がっていた。
 あれが、迷いの森なのだ。
 それを見て、遂にアンリエッタは足を止めた。
 ここから先は、危険だと悟ったのかも知れない。
 しかし、それがすぐに違っていたとわかった。
 アンリエッタは膝から折れるようにした仰向けに倒れた。
 もう、歩く力さえなくなってしまったのだ。
 思えば、ここまでずいぶんと来てしまった気がする。
 時間の感覚がわからない。
 ただ、マリリン亭を出た時よりも、月がかなり高くなってしまっていることから、数時間は経ってしまったことは間違いなかった。
 考えたら余計に疲れてきた。
 もうこれ以上どこかへ行くこともない。
 そんな気がしたので、サラも同じように仰向けになって寝ころんだ。
 星の瞬きがまるで世界を覆うように散らばっている。
 涼しげな風が草を揺らし、汗をかいたサラの頬を冷やす。
 とても心地好い。
 何か、聞かなければならないことがあった気がする。
 何か、言わなければならないことがあった気がする。
 その全てが小さく、どうでもいいことのように思えてくる。
 力の全てを出し尽くし、眼前に広がるのは空と月と星だけ。
 なんかもう、それで十分だと思った。
 ふと、横を見るとアンリエッタは体を起こして髪をいじっていた。
 走って寝っ転がったためにボサボサになってしまった、ツインテールの髪をとかす。
 若干ウェーブのかかった髪は、茶色の絹糸のよう。
 月明かりが反射して、輝いていた。
 枝毛を探すかのように、指で弄ぶ。
 髪のチェックが終わったと思ったら、今度は立ち上がって小石を蹴った。
 小石と一緒に原っぱを往復する。
 ……何度も、何度も、何度も……。
 何度目か数えることも忘れてしまった時、力の加減を間違えたのか小石が迷いの森の方へ行ってしまった。
 それを拾いに迷いの森の方へ近づいたが、戻ってきた時には手に木の枝が握られていた。
 今度はそれで原っぱに落書きを始めた。
 特に何かを描いているわけではない。
 線を引いたり、のの字を描いたり。
 まさにただの落書きだった。
 それもしばらく続けていると、木の枝が折れてしまった。
 それらの行動に意味はないと思う。
 ただ、何となく気持ちの整理をつけるのに、何かせずにいられなかっただけだろう。
 それまで、一度も目を合わせようとしなったアンリエッタが、サラのことをじっと見つめた。
 責めているようにも見えるし、助けを求めているようにも見える。
 言いたいことがあるのだとはわかっても、アンリエッタが口を開かなければ、それは伝わらない。
 サラもただ黙って見つめた。
 涙の跡はなかった。
 逃げ出した時の表情があまりに悲壮感たっぷりだから心配したけど、もうアンリエッタは初めて会った時とは違っていた。
「……どうして、何も聞かないんですか……」
 掠れる声で、絞り出すように言った。
 もう足の疲れはなくなっていたので、ピョンと立ち上がってアンリエッタと正面から向かい合った。
「わだすには何もできねーもの」
「………………」
 声にならない声を上げて、口を開いたまま目を白黒させていた。
「わだすは神様じゃねーもの。アンリエッタんことだってマリリン亭でのこと以外、何も知らねーし。それなんに根掘り葉掘り聞くんは、わりーなら?」
「だったら、どうして追いかけたりしたんですかっ! 私のことなんて放っておけばいいじゃない……」
 突き放したように感じたのだろうか。
 むしろ、違うんだけどな。
 言葉が足らなかったのかも。
 アンリエッタは目に涙を溜めていた。
「そりゃできねーべ」
「同情ならやめてくださいっ!」
 まるで威嚇する猫のよう。
 アンリエッタを傷つける気なんてさらさらないのに、近づこうとするだけで怒り出す。
「違うっぺ! おめは勘違いしてっぺ」
「勘違いですって? 私が可哀想だったから優しくしてくれただけでしょう? それが違うんですか!?」
「ああ、ちげーよ。最初っから間違ってっぺ」
「最初から? どういうことかわかりません!」
「あんな、誰だろーと、魔物に襲われっちゃ人がおったら、人として助けてーと思うんは当たり前だべ」
「あ…………で、でもそれなら今の私を追いかける理由にはなりません」
「アンリエッタ、おめは……馬鹿なんか?」
「――!? ば、馬鹿なのはサラさんの方です!」
 話にならない。
 アンリエッタとは短い付き合いだったけど、もっと利口な子だと思っていた。
 怒らせる気はなかったのに、つい思ったことが口をついて出てしまった。
「だども、わだすがアンリエッタを追いかける理由がわからんっちゃ?」
「……そ、それはそうですけど……」
「んなら教えてやる。わだすがアンリエッタを追いかけたんは、おめがわだすだちマリリン亭の立派な仲間だからだべ」
「あ……」
「そんりゃ、アンリエッタは他のみんなに比べて付き合いはみじけーよ。んだども、んなこたかんけーねーべ。わだすにとって、おめは大切な仲間だ。それを放っておくわきゃねーなら」
 その言葉に、アンリエッタは納得したようだった。
 力なくその場に座り込む。
「だったら、どうして何もできないって……。仲間だと思ってくれているなら……助けてください……」
「……やっと、そん言葉を言ってくれただな」
「え?」
 溢れる涙を拭くことさえ忘れてしまうほど、アンリエッタは驚いて顔を上げた。
「話を聞かねば、わだすにはどうすることもできねっちゃ。おめがどうして欲しいんかわからねーんだら。かといって、興味本位で聞くんは失礼だんね。望んで話してーと思うんなら別だけんど」
 涙と鼻水と笑顔がゴッチャになったような顔で、アンリエッタは頷く。
「でんも、わだすがただの人間だっちゅうことに変わりはねーかんね。助けてーと思う気持ちはあっけど、やっぱり何もできねーかもしんねーよ」
 それはさっきと同じような言葉だったけど、今度はその意味がちゃんとアンリエッタには伝わったようだった。
「……それで、構いません。私はたぶん、誰かに話を聞いて欲しかったんです。その誰かに全てを求めようとするほど、愚かではありません」
 肩肘から力が抜けた。
 今まで見てきたアンリエッタの表情、そのどれとも違う。
 素顔のアンリエッタがそこにいた。
「私の父はアーヴィン=クローデル。クライフライト国軍の士官をやっています」
「あんりゃ、ってことはレイナ先輩はそれを当てっちゃ」
「はい、上手く誤魔化してきたつもりだったんですけど、わかる人にはわかってしまうようですね」
 それってつまり、鈍感なサラにはどうがんばっても気づけなかったということか。
 サラの反応を見て、クスクスと笑っているところを見るとそのようだ。
 ……まあ、確かにわからなかったことは間違いない。
「それがまたどうして家出なんかしちまったんなら?」
「……私には夢があったんです」
 溢れそうになる涙を堪えるためか、月を見上げていた。
「夢が、あった?」
 わざわざ過去形にしたのには、きっと理由がある。
 それが、家出をした理由なのかも。
「はい……今ではもう、それを夢といっていいかはわかりません」
「それは、聞いてもいいこっちゃ?」
「聞きたくないと言われても、サラさんにはもう全て話すつもりです」
 迷いも苦しみも、何もかもが吹っ切れたような表情をさせて、言葉を続けた。
「私は、父のように国軍に入って、父の力になりたかった……」
「そんりゃ、立派な夢でねーの。何で、今はもう夢じゃなくなっちまったんだっぺ」
「父が……私の力ではどんなにがんばっても国軍には入れないと……。それどころか、学園を卒業したら結婚すればいいとまで……言ったんです」
 言葉がどんどん小さくなっていき、最後には消え入りそうになってしまった。
 思い出しただけでも、その時の辛さが蘇ってしまうのだろう。
 それでも話す気になったのは、それほどサラを信頼してくれた証なんだと思った。
「そんれで、家出しちまっただか?」
「……はい。もうどうしたらいいのか、わかりませんでした……」
「なんも言わずに?」
 アンリエッタは小さく頷いた。
「……やっぱり、おめ馬鹿でねーか」
「――!? ど、どうしてそんなことを言うんです?」
 口調は怒っているが、表情はガッカリしているように歪めていた。
「なして、なんも言わねーの?」
「え……。そ、それは……」
「思ってることをはっきり口にすんのが苦手だなや」
「……ど、どうして……」
「おまけに大好きなお父さんに反抗して、嫌われたくなかっただか?」
 それがアンリエッタの図星だったことは、何も言葉を返してこなかったことで証明された。
「前にも言ったべ? そんなに好きなら、向き合わねーと」
「でも……父は私の夢を全否定したんですよ。……もう好かれていないのかも知れないのに……反論なんかしたら……」
 どう考えてもアンリエッタが心配しすぎなだけだ。
 サラには確信に近い自信があった。
 アンリエッタのお父さんは、決してアンリエッタのことが嫌いではないと。
 あるいは、近いと見えにくいものなのかも知れない。
 サラは両親の愛を疑ったことはなかった。
 だからこの不器用すぎる親子のすれ違いは、話を聞いているだけでも歯がゆかった。
「なあ、アンリエッタ。おめはお父さんのこと好きだか?」
「はい」
 迷いのない声。これこそが、この親子にとって唯一の真実。
 なら、話は簡単なのだ。
「したらば、ちゃんと向き合って話すっぺ。その想いも、夢のことも」
「で、でも……」
「だいじょぶ。きっとわがってぐれっから」
 サラにできることはここまでだった。
 後は、アンリエッタが決めること。
 ここまで背中を押して、それでも向き合えないなら、それが……その程度がこの親子の絆の強さだったということ。
 仮にサラが無理矢理仲直りさせても、いつかまた破綻してしまう。
 それでは意味がなかった。
 助けてあげたいけど、自分の人生の大事なことは、自分で決めなければならない。
 誰かに決めてもらったら、もう自分の命を精一杯生きることはできないのだ。
 長い沈黙。
 月が空のてっぺんから傾いてしまうほどの……。
 何度か口を開こうとしていたが、その度にアンリエッタは目を逸らした。
 まるで、言いたいことがあるのに、呪いで言葉がしゃべれなくなってしまったかのように。
 そうして、何度目かに口を開こうとして、大きく息を吐いた。
「……わかりました」
「違う、そんじゃわだすは一緒には行けねーだ」
 消極的なアンリエッタらしい言葉だったけど、それでは協力できない。
 あくまでも、自分の意志で動かないと。
 もうすでに答えは出ているのだから、今さらつまらない嘘で自分の心を守ろうとしないで欲しい。
「……決めました。父と、話をします」
「んじゃ、行くべ」
 夜風に晒され、すっかり冷たくなってしまったお互いの手を握って来た道を戻る。
「――あ!」
 決意新たに歩き出したというのに、急にアンリエッタは立ち止まった。
「なんだべ?」
「……たぶん、国軍が動いてしまったのって、私のせいだと思います。手紙も何も残さずに家出してしまったので……」
「ま、謝りゃ何とかなるっぺ」
「だといいんですけど……」
「だいじょぶ。魔法クリスタルを壊しちまった時、マリリンに謝れたべ? マリリンに謝れたんなら、何が相手でも謝れっぺ」
「プ……アハハハッ……そうですね……」
 それまでとは違った意味での涙を、アンリエッタは拭ったりはしなかった。
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