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星だけが見ていた

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 考えがまとまらず、ぼうっとしたまま日々が過ぎていった。考え事をするたびにあの書斎に籠っては自分のこと、朝日のこと、そして花崎のことを考えながら、いつの間にか眠ってしまっているような生活をしていた。夢なのか現実なのか、朝日の記憶を辿っているのか幻を見ているのか、何もかもが曖昧になってしまっていた。


「先生、これ、読んだよ」
「……花崎」

 そんなある日、しばらく準備室には来なくなっていた花崎がそう言いながらやってきた。手には花崎を家に泊めたときに貸した本を持っていた。

「わざわざ返しに来たのか、ありがとう」
「そりゃ返すでしょ。借りっぱなしってわけにもいかないし」
「それもそうか」
 しばらくぼんやりとしてしまっていたから、あの日のことがすいぶん前に感じる。しかし分厚い長編とはいえ、読むのが早い花崎にしては少し時間がかかったようだった。
「ちょっと時間かかっちゃって、しばらく借りちゃっててごめん。一回読んで、すごい久しぶりに父さんの映画も見直してたんだ。それでもう一回読んでみたりしてて」
「そうだったのか」
 そういう読み方をしていれば時間がかかっていたのも納得だった。好きな作品にそんな風に時間をかけて、じっくりと向き合ってくれたことがじんわりと嬉しい。

「映画だけじゃ知らなかった話とか、理解しきれてなかった気持ちとか、たくさんあってよかった。映画も久しぶりに見たら忘れてたこととかもいっぱいあったしさ」
「うん、うん。そういうものだよね」

 まだ告白の返事さえもきちんとできていないというのに、花崎はこれまでと変わらず読んだ報告と、どう感じたかを僕に話してくれる。律儀で真面目な奴だ。

「先生さ、今日仕事何時まで?」
「え、今日はこれの整理終わったら帰るつもりだったけど」
「なんかその後予定ある?」
「……ないけど?」

 いつもみんなに見せている笑顔とは違う、寂しそうな貼り付けた笑顔のまま尋ねる言葉に、僕はまたノーとは言えなかった。

「じゃあちょっと、俺に付き合ってよ」



 どこに行くのかは告げられなかった。行き先もわからないまま僕と花崎は乗ったことのない方面に向かうバスに乗り、町の海から離れた丘の方へと進んでいった。
 バスから降りて、花崎から「少し歩くよ」と言われた道は、日頃の運動不足が祟った体ではしんどいくらいの坂道だった。

「これ、どこまで行くの?」
「もう少し。まだ歩ける? ちょっと休む?」
「……いいや、歩けるよ」

 音を上げて年寄り扱いされるのはごめんだった。僕とは違って息も切らさず身軽に進んでいけるのは、やっぱり若さなんだろうかと思いつつ、いやこれは自分の足腰の弱さだと自分を叱った。
 夏の暑さが嘘のように去り、この時間になるとすっかり暗くなってしまうし少し肌寒くなる。頬に触れる空気が冷たくて、歩いて汗をかいた体には心地いい。ただ無心で体を動かして汗をかくのは、このぼんやりした頭やなまった体には良い薬だったのかもしれない。


 坂を上って、石の階段を上って、ようやくその段が途切れた頃。疲れて足元ばかり見ていた視線をふと上にあげると、そこには数えきれないほどの星があった。

「ついたよ。これ、先生に見せたくてさ」
「すっご……綺麗……」

 僕は素直に驚いたし、その景色をすごく綺麗だと感じた。文字通り口からこぼれてしまったみたいに、ただただ素直に思ったことが声に出てしまう。

「綺麗だよね。ここまで来るともうほとんど山だし街灯もあんまりないからさ、すごい綺麗に見えるんだ」
「よくこんなところ知ってたな。家だってこっち方向じゃないだろ?」
「うん。俺、特に目的もなくバスとか乗ってふらふらするの好きで。この辺ぶらついてたときに、知らないおじさんに星を見に来たのかいって言われて教えてもらったんだ」
 それもきっと、家に帰らない時間を過ごすための暇つぶしだったんだろう。こんな場所があったことを花崎よりも前にここに住んでいた僕も知らなかった。
「昔はちょっとした有名スポットで、よく星を見に来る人が居たんだって。今はほとんど忘れられてて、人が来るのは珍しいって言ってた」
「……そうだったんだ。もったいないな、こんなに綺麗なのに」
「でしょ? 俺だけ知ってるのももったいなくて、先生に見せたかったんだ。ちょっと来るのは大変なんだけどね」
「それはそう。こんな山登りするなら革靴なんて履いてこなかったよ」
「あはは、ごめんって。でも今日、よく晴れてたからさ」

 ここに来るまではろくに会話もしなかったのに、今この瞬間はいつも通りに笑い合えた。うまく笑い合えなかった時間は息苦しくて、息を切らして、ようやくこうしていることで普通通りに息ができたような気がする。
 ああ、やっぱりこの時間が愛おしいな、と、僕は素直に思った。

「……この前さ、話してくれてありがとう」
「……ああ」
「ずるいなんて言っちゃったけどさ、やっぱり嬉しかったんだよ。先生のことちょっとでも知れたこと。先生が俺に話そうって思ってくれたこと」
「いやほんと、なんで話しちゃったんだろうな」

 花崎と過ごす時間が好きだ。自分が思っていたよりも、それが大切になっている。

「……ねえ、先生。好きだよ。誰よりも大好き」
「……花崎は、しんどかったところにたまたま僕が居たからそう思っちゃっただけだよ。偶然、似たような寂しさを抱えているって知ったから、わかってくれるのは僕だけだって思っちゃってるだけ」

 そうでもなければ、こんな人生諦めているようなおじさんを好きになるはずなんてないんだ。僕は学んだ通り、それらしい、大人らしい理由を作りあげて建前にする。

「それでもいいよ。ていうか、そんなのみんなそうでしょ。たまたま先生が居た。きっとそこに居たのが別の人だったら俺はその人を好きになったのかもしれないけど、でも実際、そこに居たのは先生だったんだよ。別の人のことなんて、俺は知らない」
「…………」
「わかるよ、怖いんでしょ。教師と生徒だし、歳だって離れてるし、先生は朝日さんのこと忘れられないし」
「……そうだよ。すごく怖い。こんなの、間違ってるって思ってる」
「いいよ、それで。怖がってるままでいい。めちゃくちゃ怖がってるくせに、こんなところまでついて来ちゃったんでしょ」

 星を見上げていたはずの花崎の視線は、いつの間にか僕のほうに向いていた。まっすぐで強い、けれど傷ついた瞳に、夜空にちりばめられた星屑が小さな光を与えていた。それが、すごく眩しかった。
 その視線に気付いた僕を、花崎はぎゅっと抱き締めた。さすがに僕も、もう抵抗する気は起きなかった。

「……いい加減認めなよ。せんせ、俺のこと好きじゃん。好きなら、好きって言いなよ」

『お前はさ、欲しいものは欲しいってちゃんと口にしなきゃ駄目だぞ』

 こんなときにだって、朝日の声が聞こえる。もう、わかったって。

「……………………好きだよ」

 正しくないとか間違ってるとか、相応しくないとか似合わないとか、過去とか、もうそういうものはそのままでいい。誤魔化すことも忘れることもしないまま、それでもこのまっすぐな瞳に嘘はつきたくないと思った。
 大切だとか、愛おしいとか、なくしたくないとか、言い方はいろいろあったとしても、これが花崎への好きだという気持ちでないのならじゃあ何なのか、僕にはわからなかった。

「うれしい」

 ぎゅっと抱き締められていた体が少し離れて、こつんとおでこを触れ合わせながら花崎は綻ぶように笑った。夜風に冷たくなった鼻先がかすかに触れて、それからどちらともなくキスをした。
 夜の闇に隠れるような小さなキスを、知らん顔で輝く星たちだけが見ていた。
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