19 / 22
番外編
その後6
しおりを挟む
このところどうにも憂鬱で、日中何をするでもなくソファーに寝転がって天井を見上げることが増えた。考えるのはどうすれば良かったのかということばかり。
コニーの授業はきちんと受けている。
今日も文字を書く練習がてら手紙を書いて刺繍を習った。時候の挨拶ならなんの問題も無く書けるようになったし、辞書を引きながらこの国の言葉を書くこともできるようになった。最初は見たままを書いているつもりなのに日本語になってしまうことも多かったのでかなりの進歩だ。刺繍だって、コニーのように裏側も綺麗なんてふうにはいかないがそれなりに見れるようにはなってきた。少なくとも針を指に刺すことはもう無いと自信を持って言える。
ああ、それから組み合わせによっても意味が変わる難解な花言葉だって少しは覚えてきたし、よくコニーとお茶をするからアフタヌーンティーの食べる順番だってばっちりだ。でもこれがいったいなんの役に立つと言うの? そんな苛立ちと焦りが常にあった。そこに不安が加わってしまったものだからまた焦りだけが大きく育っていく。一般常識の範疇なのかもしれないが私は習ったことをいったい何に生かせばいいのだ。それすらも分からないほど私にはこの世界の常識が無いのに。
今だってこうして考えごとをしながら美しい所作で紅茶を飲んでいるだけ。向かいに座るコニーもサーブするナンシーも何も言わない。カップの持ち方上げ方下げ方、そもそもの座る姿勢からダメだしされていたことを思えばかなりの進歩である。
私はいったい何をしているんだろう? 零れそうな溜息を押し殺した。そんな状態では当然私の表情は暗く、悩みがあるのかと聞かれてしまった。正直、言えることの方が少ないけど少しだけ不安を吐露する。
「まあまあ、旦那様は大層お嬢様を愛しておられますよ」
「そうですよ、お嬢様。旦那様はお嬢様に骨抜きなのですから不安になることなんてありませんわ」
ナンシーは微笑ましいものでも見るように言って、コニーは自信満々にそう言ったが、私の不安は払拭されない。
客観的に今の状況を見れば大事にされていることは分かる。けれど不安になるのだ。熱を出したあの日以来、関係を持っていない。せいぜい額やつむじへと送られるキスだけ。これでどうして不安になるなと言えるのだろう。そう思ったけれど、彼女達には言えなかった。
+++++
髪に触れる感触で目が覚めて、自分がいつの間にか寝ていたことに気付いた。もはや私の定位置と化したソファーに寝転がって天井を見る私の視界にその人は映らないが、こんなふうに私の髪に触れるのは一人しか居ない。
「お帰りなさい」
「ただいま」
細められた目に宿る感情はもう分からない。それが自分への情だという自信を失くしてしまったから。それでも疎ましく思う女の髪を梳く男の存在を少なくとも私は見聞きしたことがないから、きっと大丈夫だと手を伸ばしてキスをねだった。
唇が触れたのは額と頬。……もうだめなのかもしれない。それでも一縷の望みに縋って離れようとする顔を捕まえて唇を奪った。そのまま舌を絡めて欲に溺れてしまいたいのに唇を舐めても食んでも口を真一文字に結んだまま応えてくれない。応えてくれないのに拒否もしないのだから、私は余計に分からなくなる。
「ビリー、シよ?」
上手い誘い文句なんて出てこなかった。他の男の人だって知らないし、それに何より手を伸ばせば、唇を寄せれば、この男はいつだって応えたのだから。だから左手を捕まえて胸へと導いた。
視線が絡むことも言葉を交わすこともないあの浴室だったら、間違いなく私の身体をまさぐっていた男がそっと手を引いた。正直、信じられなかった。
「……どうして」
思わず、微かに空気を震わせる声量でそう零していた。疑問を口にする気なんて無かったが零さずにはいられなかった。ともすれば責めているようなこの言葉が目の前の人に届いていませんように、そう願ったけれど悲しげにこちらを見つめる顔を見れば聞こえてしまったのは一目瞭然だった。
「いまさらだと思うかもしれないが俺はミチルを大事にしたいんだ」
「……なにそれ。意味わかんない」
「大人として手を出すことはできない。ミチルがもう少し大人になるまではしない」
「はっ、言うにこと欠いて子供扱い? 私もう二十五よ? 二十五歳が子供だと言うの?」
本気で何を言っているのか理解できなくて鼻で笑ってしまった。
「はっ? ミチル、もう一回年齢を教えてくれ。上手く聞き取れなかったみたいなんだ」
鳩が豆鉄砲でも喰らったような顔でビリーはこちらを見ている。腹は立っているがちょっと気が抜けた。
「二十五歳」
そう言えば呆然としたまま繰り返すのだ。
「……にじゅうごさい?」
「そう」
「俺と四つしか違わないじゃないか! 冗談だろう!?」
「え! 嘘、二十代!?」
いやいや、ちょっと待って? 冗談でしょ? え、冗談じゃない? ……ごめん、ビリー私あなたのこと若くても三十半ばだと思ってました。
二人の間に奇妙な沈黙が流れて、私の怒りも完全に冷めた。
「あー、その、すまない。きちんと聞くべきだった」
「いや、こちらこそすみません」
そうなのだ、東洋人は他の人種から若く見られるって聞いたことは何度もある。ここが異世界だとしてもそりゃあ実年齢より若く見られるだろう。そのことが頭からすっぽりと抜け落ちていたのは私の落ち度だ。
「……話し合うべきだったんだろうな」
ビリーの唐獅子似の迫力満点の顔はこうして眉尻が下がると途端に情けなくなる。けれど私はこの表情が好きだったりする。なぜだか仕方ないなって全部許したくなるのだ。実際もう許したし年上に言うことじゃないかもしれないが甘やかしてやりたくなる。惚れた弱味というやつだろうが、人に説明するなら土産物のシーサーの愛嬌が一番近いだろうか。
「話し合おうよ、ビリー。今からでもさ。……私、ずっと、何を話したらいいのか分からなかった。でもこうして当たり前のように一緒に居られることがただ嬉しくて、いつもまた今度でいいやってそう思ってた。明日もその次の日も、あなたと居られるんだからそのうち、って 」
「目が合うといつも笑うだろう。それだけで幸せだったから充分だと思ってしまったんだ。だがそうじゃなかったんだな……。今後はどんな些細なことでもいいんだ、なんだって俺に聞かせてくれないか」
「あなたもね」
もしかしたら、私達は今初めてお互いと向き合ったのかもしれない。
コニーの授業はきちんと受けている。
今日も文字を書く練習がてら手紙を書いて刺繍を習った。時候の挨拶ならなんの問題も無く書けるようになったし、辞書を引きながらこの国の言葉を書くこともできるようになった。最初は見たままを書いているつもりなのに日本語になってしまうことも多かったのでかなりの進歩だ。刺繍だって、コニーのように裏側も綺麗なんてふうにはいかないがそれなりに見れるようにはなってきた。少なくとも針を指に刺すことはもう無いと自信を持って言える。
ああ、それから組み合わせによっても意味が変わる難解な花言葉だって少しは覚えてきたし、よくコニーとお茶をするからアフタヌーンティーの食べる順番だってばっちりだ。でもこれがいったいなんの役に立つと言うの? そんな苛立ちと焦りが常にあった。そこに不安が加わってしまったものだからまた焦りだけが大きく育っていく。一般常識の範疇なのかもしれないが私は習ったことをいったい何に生かせばいいのだ。それすらも分からないほど私にはこの世界の常識が無いのに。
今だってこうして考えごとをしながら美しい所作で紅茶を飲んでいるだけ。向かいに座るコニーもサーブするナンシーも何も言わない。カップの持ち方上げ方下げ方、そもそもの座る姿勢からダメだしされていたことを思えばかなりの進歩である。
私はいったい何をしているんだろう? 零れそうな溜息を押し殺した。そんな状態では当然私の表情は暗く、悩みがあるのかと聞かれてしまった。正直、言えることの方が少ないけど少しだけ不安を吐露する。
「まあまあ、旦那様は大層お嬢様を愛しておられますよ」
「そうですよ、お嬢様。旦那様はお嬢様に骨抜きなのですから不安になることなんてありませんわ」
ナンシーは微笑ましいものでも見るように言って、コニーは自信満々にそう言ったが、私の不安は払拭されない。
客観的に今の状況を見れば大事にされていることは分かる。けれど不安になるのだ。熱を出したあの日以来、関係を持っていない。せいぜい額やつむじへと送られるキスだけ。これでどうして不安になるなと言えるのだろう。そう思ったけれど、彼女達には言えなかった。
+++++
髪に触れる感触で目が覚めて、自分がいつの間にか寝ていたことに気付いた。もはや私の定位置と化したソファーに寝転がって天井を見る私の視界にその人は映らないが、こんなふうに私の髪に触れるのは一人しか居ない。
「お帰りなさい」
「ただいま」
細められた目に宿る感情はもう分からない。それが自分への情だという自信を失くしてしまったから。それでも疎ましく思う女の髪を梳く男の存在を少なくとも私は見聞きしたことがないから、きっと大丈夫だと手を伸ばしてキスをねだった。
唇が触れたのは額と頬。……もうだめなのかもしれない。それでも一縷の望みに縋って離れようとする顔を捕まえて唇を奪った。そのまま舌を絡めて欲に溺れてしまいたいのに唇を舐めても食んでも口を真一文字に結んだまま応えてくれない。応えてくれないのに拒否もしないのだから、私は余計に分からなくなる。
「ビリー、シよ?」
上手い誘い文句なんて出てこなかった。他の男の人だって知らないし、それに何より手を伸ばせば、唇を寄せれば、この男はいつだって応えたのだから。だから左手を捕まえて胸へと導いた。
視線が絡むことも言葉を交わすこともないあの浴室だったら、間違いなく私の身体をまさぐっていた男がそっと手を引いた。正直、信じられなかった。
「……どうして」
思わず、微かに空気を震わせる声量でそう零していた。疑問を口にする気なんて無かったが零さずにはいられなかった。ともすれば責めているようなこの言葉が目の前の人に届いていませんように、そう願ったけれど悲しげにこちらを見つめる顔を見れば聞こえてしまったのは一目瞭然だった。
「いまさらだと思うかもしれないが俺はミチルを大事にしたいんだ」
「……なにそれ。意味わかんない」
「大人として手を出すことはできない。ミチルがもう少し大人になるまではしない」
「はっ、言うにこと欠いて子供扱い? 私もう二十五よ? 二十五歳が子供だと言うの?」
本気で何を言っているのか理解できなくて鼻で笑ってしまった。
「はっ? ミチル、もう一回年齢を教えてくれ。上手く聞き取れなかったみたいなんだ」
鳩が豆鉄砲でも喰らったような顔でビリーはこちらを見ている。腹は立っているがちょっと気が抜けた。
「二十五歳」
そう言えば呆然としたまま繰り返すのだ。
「……にじゅうごさい?」
「そう」
「俺と四つしか違わないじゃないか! 冗談だろう!?」
「え! 嘘、二十代!?」
いやいや、ちょっと待って? 冗談でしょ? え、冗談じゃない? ……ごめん、ビリー私あなたのこと若くても三十半ばだと思ってました。
二人の間に奇妙な沈黙が流れて、私の怒りも完全に冷めた。
「あー、その、すまない。きちんと聞くべきだった」
「いや、こちらこそすみません」
そうなのだ、東洋人は他の人種から若く見られるって聞いたことは何度もある。ここが異世界だとしてもそりゃあ実年齢より若く見られるだろう。そのことが頭からすっぽりと抜け落ちていたのは私の落ち度だ。
「……話し合うべきだったんだろうな」
ビリーの唐獅子似の迫力満点の顔はこうして眉尻が下がると途端に情けなくなる。けれど私はこの表情が好きだったりする。なぜだか仕方ないなって全部許したくなるのだ。実際もう許したし年上に言うことじゃないかもしれないが甘やかしてやりたくなる。惚れた弱味というやつだろうが、人に説明するなら土産物のシーサーの愛嬌が一番近いだろうか。
「話し合おうよ、ビリー。今からでもさ。……私、ずっと、何を話したらいいのか分からなかった。でもこうして当たり前のように一緒に居られることがただ嬉しくて、いつもまた今度でいいやってそう思ってた。明日もその次の日も、あなたと居られるんだからそのうち、って 」
「目が合うといつも笑うだろう。それだけで幸せだったから充分だと思ってしまったんだ。だがそうじゃなかったんだな……。今後はどんな些細なことでもいいんだ、なんだって俺に聞かせてくれないか」
「あなたもね」
もしかしたら、私達は今初めてお互いと向き合ったのかもしれない。
48
お気に入りに追加
38
あなたにおすすめの小説
壁の花令嬢の最高の結婚
晴 菜葉
恋愛
壁の花とは、舞踏会で誰にも声を掛けてもらえず壁に立っている適齢期の女性を示す。
社交デビューして五年、一向に声を掛けられないヴィンセント伯爵の実妹であるアメリアは、兄ハリー・レノワーズの悪友であるブランシェット子爵エデュアルト・パウエルの心ない言葉に傷ついていた。
ある日、アメリアに縁談話がくる。相手は三十歳上の財産家で、妻に暴力を働いてこれまでに三回離縁を繰り返していると噂の男だった。
アメリアは自棄になって家出を決行する。
行く当てもなく彷徨いていると、たまたま賭博場に行く途中のエデュアルトに出会した。
そんなとき、彼が暴漢に襲われてしまう。
助けたアメリアは、背中に消えない傷を負ってしまった。
乙女に一生の傷を背負わせてしまったエデュアルトは、心底反省しているようだ。
「俺が出来ることなら何だってする」
そこでアメリアは考える。
暴力を振るう亭主より、女にだらしない放蕩者の方がずっとマシ。
「では、私と契約結婚してください」
R18には※をしています。
不埒な関係
月詠嗣苑
現代文学
結婚してもうすぐ5年目を迎える藤本美紀。
無口だけど優しい夫、夫に似ている可愛い息子の子育てに追われながらも、毎日家事に勤しんでる。
夫の父である藤本耕一は、根っからの仕事人間で、今の会社を立ち上げ30年…
昨年の冬、長い間連れ添った妻が突然の病で亡くなり、会社を潤一に任せ、自分は隠居。
「離れているから心配だから。」と突然同居話を持ちかけられ住むことに決めた美紀だったが…
住み始めてから気付く、義父・耕一の厭らしい視線…
当初は、夫に何度か相談を持ちかけたが、「気にしすぎ。母さん亡くしたばかりだから…」と取り合ってもくれず…
裏社会に巻き込まれたらセックスを強要された件
こうたろ
大衆娯楽
上山 章人は偶然的に伊集院家の闇取引の場面を目撃してしまった。以降、伊集院 悠里に協力せざるおえなくなり・・・時には同級生を犯したり時にはメイドにしっぽり絞られたり、最終的には悠里に最高の快楽を提供することを命じられているなど振り回されることとなる。しかし、次第に章人も悠里たちに染まっていき・・・
同級生などを犯しながらメイドハーレムで快楽に漬かっていきます。
基本的に主人公側の都合の良いように進みます。
ドン引きするくらいエッチなわたしに年下の彼ができました
中七七三
恋愛
わたしっておかしいの?
小さいころからエッチなことが大好きだった。
そして、小学校のときに起こしてしまった事件。
「アナタ! 女の子なのになにしてるの!」
その母親の言葉が大人になっても頭から離れない。
エッチじゃいけないの?
でも、エッチは大好きなのに。
それでも……
わたしは、男の人と付き合えない――
だって、男の人がドン引きするぐらい
エッチだったから。
嫌われるのが怖いから。
兄がいるので悪役令嬢にはなりません〜苦労人外交官は鉄壁シスコンガードを突破したい〜
藤也いらいち
恋愛
無能王子の婚約者のラクシフォリア伯爵家令嬢、シャーロット。王子は典型的な無能ムーブの果てにシャーロットにあるはずのない罪を並べ立て婚約破棄を迫る。
__婚約破棄、大歓迎だ。
そこへ、視線で人手も殺せそうな眼をしながらも満面の笑顔のシャーロットの兄が王子を迎え撃った!
勝負は一瞬!王子は場外へ!
シスコン兄と無自覚ブラコン妹。
そして、シャーロットに思いを寄せつつ兄に邪魔をされ続ける外交官。妹が好きすぎる侯爵令嬢や商家の才女。
周りを巻き込み、巻き込まれ、果たして、彼らは恋愛と家族愛の違いを理解することができるのか!?
短編 兄がいるので悪役令嬢にはなりません を大幅加筆と修正して連載しています
カクヨム、小説家になろうにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる