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20. 想像以上(Side千尋)
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「あー、すっごい癒されたし元気でた。ありがとう」
どれぐらい時間が経っただろう。
ベッドの中でしばらく彼女の柔らかい体を抱きしめていた俺は、これ以上は理性がヤバイと思ったギリギリのところで、彼女を腕の中から解放した。
目を瞑っていたのか、顔を上げた彼女はどこかボンヤリした表情だ。
「こんなので元気出るんですか?」
「うん、すごくね」
「そうなんですか。分かりました、覚えておきます」
まるで新しい仕事を習得した時みたいな言い方がなんだか可笑しい。
たとえ覚えたとしても、それを俺以外の人には披露しないでほしいものだと思う。
「そろそろ私帰ります。瀬戸さんは、しっかり水分補給と睡眠をとってくださいね」
言い聞かせるようにそう俺に言うと、持って来た食べ物や飲み物を冷蔵庫に詰め込んだ後、彼女は帰って行った。
正直、家に食べ物が全然なかったから助かった。
昼間に比べると体もずいぶん楽になってきたし、あとは寝ているだけで治るだろう。
……それにしても久しぶりに体調崩したな。
仕事に影響しないよう体調管理は普段からしっかりしている方だ。
風邪をひいたのなんて学生の頃以来かもしれない。
……まぁ疲れてたうえに心が弱ってたのは確かだしな。
昨夜はあんなにマイナス思考に陥っていたのに、今はもうすっかり回復していた。
彼女が「恋人として来た」ということが大きい。
しかも嫌がることもなく、すんなりベッドに入ってきて抱きしめさせてくれた。
そんなちょっとのことで気を持ち直すなんて、俺は案外チョロい男らしい。
さっきまでここに彼女がいたことを思い出したながら、俺は目を瞑る。
すぐに睡魔が襲ってきて、そのまま朝方までぐっすり眠ることができた。
朝起きたら前日体調不良だったのなんか嘘かのようにスッキリしていている。
全回復した俺は、冷蔵庫に入っている彼女が買ってきてくれたヨーグルトを食べ、シャワーを浴び、出社するために身支度を整え出した。
「おはようございます。社長、具合大丈夫なんですか?」
「おはよう。もう大丈夫」
まだ出社している社員も少ない時間帯にオフィスに入ると、何人かの社員から声を掛けられた。
それに答えながら社長室に入る。
部屋で椅子に腰を下ろした途端、ノックする音とほぼ同時にドアが開いた。
姿を現したのは健一郎だ。
いつもの飄々とした態度とは違い、今日は難しい顔をしていてどこか焦りが感じられる。
その様子に一瞬で何か良くない事態が起きていることが分かり緊張が走った。
「……なんかあった?」
「分かるか?病み上がり早々にこんな報告で申し訳ないけど、サーバーに不具合が見つかったってさっき連絡が来た。今、モンエクのサービスは全面的に停止になってる」
「……マジかぁ」
それは緊急事態だ。
我が社の根幹サービスであるモンエクが提供できなくなっているのだ。
「すぐに修正対応に移ろう。緊急対策室として会議室一室を押さえて、そこに関係者集めてくれる?総出で取り掛かるしかないね」
「分かった。開発部のメンバーと、取引先に連絡してくるわ」
健一郎はすぐに社長室を出て行く。
俺は詩織ちゃんにメールを入れる。
今日入っている予定は全部キャンセルしてもらわなければならない。
たぶんトラブル対応で一日中部屋に篭りきりになるだろう。
過去にスマホゲームを提供している他社でもサーバー不具合が発見され、修正不可能と判断してサービス終了になったケースを知っている。
今回うちで起きている不具合がその他社の事例と同じだとは限らないが、サービス終了にまで追い込まれるケースもあるということは事実だ。
そんなことになれば大損害である。
考えるだけで頭が痛くなる。
俺は冷静に今すべきことを考え、広報部や営業部には緊急メンテナンスが入ることそれに対する顧客やメディア対応を依頼するなど、関係各位にまずは連絡を入れた。
その上でパソコンと必要書類を抱え、緊急対策室となる会議室へと駆け込んだ。
その日一日はバタバタだった。
やはり思った通り、朝から晩まで対策会議室に篭りきりになった。
食事をする時間も惜しく、会議室にいる関係者はみんなコンビニで買ってきた軽食を片手に作業に勤しんだ。
最終的に、サーバー不具合はなんとか解消し、サービス終了には追い込まれずに済んだことには安堵だ。
一日がかりでの修正対応で、対策会議室が解散したのは夜も遅くになってからだった。
「みんなお疲れ様。ホントよく頑張ってくれたよ、ありがとう。みんなのおかげでモンエクはサービス継続できる」
「社長もお疲れ様でした。病み上がりだったのに大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。すっかり忘れてたくらいだし。幸いにも明日から週末だから、みんなゆっくり休んで。もう終電ないだろうし、帰りはタクシー使って経費で落としてもらっていいからね」
「ありがとうございます。お疲れ様でした」
疲労が色濃く残る顔で社員が会議室を出て行く。
俺も疲れた体を引きずりながら、社長室に戻った。
しんと静まり返った真っ暗な部屋の電気をつける。
デスクの方を見ると、白いビニール袋が机の上に置かれているのが見えた。
今朝自分で置いた記憶はない。
デスクのそばまで行ってビニール袋の中身を除き込む。
中にはコーヒーや栄養ドリンク、お菓子やパンなどと一緒に綺麗な字で書かれたメモが入っていた。
“お疲れ様です。
良かったら食べてください 詩織”
彼女からの差し入れだった。
朝から会議室に篭りきりだったから、今日彼女とは一度も顔を合わせていない。
なのに、こんなふうに気にかけてくれていることが言葉にできないくらい嬉しかった。
……あーヤバイ。可愛い。好きすぎる。
今すぐにでも彼女の顔が見たい衝動に駆られる。
でもそれは時間的にもう無理だ。
……顔は無理でも声だけでも。
俺はスマホを手に取り、彼女に電話をかける。
もう24時近くだ。
彼女は寝てしまっているかもしれない。
そう懸念したが、数コールののちコール音は止まり、代わりに彼女の声が耳に飛び込んできた。
「もしもし」
「もしもし、詩織ちゃん?寝てた?」
「いえ、まだ起きてます。トラブル対応終わったんですか?」
「ちょうどさっきね。予定のリスケ対応ありがとう。あと、この差し入れも」
「無事終わったようで良かったです。遅くまでお疲れ様でした」
彼女からのお疲れ様という言葉がなんだか心に沁みる。
まるで乾いた砂漠に水が染み込んでいくようだ。
「……あー、詩織ちゃんに会いたいな」
思わずポロリと本音が溢れた。
こんなこと突然言われても彼女は困るだろうと分かっているのに。
「……私も会いたいです」
一瞬、聞き間違いかと思った。
彼女の言葉とは思えなかったからだ。
疲れすぎて願望が幻聴になったのかもしれないと自分の耳を疑った。
でも、どうやらそうではなかったらしい。
「……明日、朝一番に瀬戸さんの家に伺ってもいいですか?」
続けて彼女の口からこんな言葉が紡がれたからだ。
信じられない思いで「もちろん」と俺は頷く。
そして翌朝、彼女は本当に朝9時頃に俺の家にやって来た。
チャイムが鳴り、玄関のドアを開けたら彼女がいたのだ。
若干、半信半疑だった俺は嬉しさと同時に軽く驚いた。
とりあえず中に招き入れてリビングに通し、コーヒーを入れてテーブルに置いた。
「体調は大丈夫ですか?休み明けだったのに昨日は遅くまでだったんですよね?」
「もう全然大丈夫。心配してくれてありがとう」
「でも疲れた顔されてますよ?」
「まぁ疲れたのは疲れたから。体調は悪くないよ」
カーペットの上に座り心配そうに俺の顔を見つめていた彼女は、突然ゆっくりと立ち上がる。
どうしたのか?とその動きを目で追っていると、ソファーに座っている俺の方に近寄ってきて隣に腰を掛けた。
そして何を思ったのかいきなり体を寄せ、包み込むように俺を抱きしめた。
「え、詩織ちゃん!?」
予想外の彼女の行動に俺は目を丸くする。
背中に腕を回され、密着した体から彼女の柔らかさを感じる。
俺からハグをしたことはあっても、彼女からしてくるのは初めてだ。
「いきなり、どうしたの……?」
「……癒されるし元気が出るって、この前瀬戸さんが言ってたから」
耳元で少し照れたような小さな声が聞こえた。
その一言で思い出す。
確かに俺はこの前そう言った。
その時彼女は新技を習得しみたいな口調で「覚えておきます」と言っていたが、まさかそれをさっそく披露してくれるとは。
……つまり俺のために? あー、もうなんだこの可愛い生き物は。こんなことされたら、お試し交際なのに歯止めが効かなくなるんだけど。
理性がグラグラ揺れるのを感じる。
それにまるで彼女も俺のことを想ってくれているように感じてしまい勘違いしそうだ。
「……あのさ、こんなことされたらキツイんだけど」
「あ、すみません……!不快でしたか?」
パッ離れようとする彼女を抱きしめ返し、俺はもちろん離さない。
不快なんて思うはずがない。
「そういう意味じゃなくて。お試し交際なのに、こんなことされたら詩織ちゃんを手放せなくなるからキツイってこと。あと2ヶ月後に詩織ちゃんが無理って言っても諦めてあげれないかもよ?」
遠回しな言い方じゃ伝わらなさそうで、俺は今感じていることをストレートに放った。
諦めてあげられなくなったとしたら、それは彼女が悪い。
いっつも可愛いことばっかりして、俺の心を離さないからだ。
「……無理、なんて言いません」
「え?」
「……私も瀬戸さんのことが好きなので、一緒にいたいです。お試しとか、期限とか、そういうのもう全部なくって大丈夫です」
彼女は一言一言噛み締めるようにそう告げた。
あまりにも自分にとって都合の良い言葉が聞こえてきて、俺は大きく目を見開く。
思わず抱きしめていた腕を緩めて体を離し、真意を確認するように彼女の顔を覗き込んだ。
「…………今、俺のこと好きって言った?」
信じられなくて聞き返す。
お兄さんへの想いはもう大丈夫なのだろうか。
「はい、好きです。瀬戸さんのおかげで、もう兄にも何も感じません。私、前に進めたみたいです」
彼女は言い淀むこともなく、ハッキリとそう言い切った。
そこには何の動揺もなく、真実そうなんだろうということがいとも簡単に伝わる。
まっすぐ俺を見つめる彼女の瞳には自分しか映っていない。
……ああ、ヤバイな、これ。好きな人に同じ気持ちを返してもらえるって思ってた以上にクルな。
「……詩織ちゃん、キスしていい?」
「はい、私もしたいです。不慣れですけど……」
「そんなの全然いいよ。キスしたいんじゃなくて、詩織ちゃんだからしたいんだから」
どうしたらいいか?と尋ねてきた彼女に目を閉じてもらい、俺はそっとその唇に口づける。
触れただけの軽いキスなのに、今まで感じたことのないような完美な甘さと幸せが胸に押し寄せる。
それは俺と彼女の、本当の意味でのファーストキスだった。
どれぐらい時間が経っただろう。
ベッドの中でしばらく彼女の柔らかい体を抱きしめていた俺は、これ以上は理性がヤバイと思ったギリギリのところで、彼女を腕の中から解放した。
目を瞑っていたのか、顔を上げた彼女はどこかボンヤリした表情だ。
「こんなので元気出るんですか?」
「うん、すごくね」
「そうなんですか。分かりました、覚えておきます」
まるで新しい仕事を習得した時みたいな言い方がなんだか可笑しい。
たとえ覚えたとしても、それを俺以外の人には披露しないでほしいものだと思う。
「そろそろ私帰ります。瀬戸さんは、しっかり水分補給と睡眠をとってくださいね」
言い聞かせるようにそう俺に言うと、持って来た食べ物や飲み物を冷蔵庫に詰め込んだ後、彼女は帰って行った。
正直、家に食べ物が全然なかったから助かった。
昼間に比べると体もずいぶん楽になってきたし、あとは寝ているだけで治るだろう。
……それにしても久しぶりに体調崩したな。
仕事に影響しないよう体調管理は普段からしっかりしている方だ。
風邪をひいたのなんて学生の頃以来かもしれない。
……まぁ疲れてたうえに心が弱ってたのは確かだしな。
昨夜はあんなにマイナス思考に陥っていたのに、今はもうすっかり回復していた。
彼女が「恋人として来た」ということが大きい。
しかも嫌がることもなく、すんなりベッドに入ってきて抱きしめさせてくれた。
そんなちょっとのことで気を持ち直すなんて、俺は案外チョロい男らしい。
さっきまでここに彼女がいたことを思い出したながら、俺は目を瞑る。
すぐに睡魔が襲ってきて、そのまま朝方までぐっすり眠ることができた。
朝起きたら前日体調不良だったのなんか嘘かのようにスッキリしていている。
全回復した俺は、冷蔵庫に入っている彼女が買ってきてくれたヨーグルトを食べ、シャワーを浴び、出社するために身支度を整え出した。
「おはようございます。社長、具合大丈夫なんですか?」
「おはよう。もう大丈夫」
まだ出社している社員も少ない時間帯にオフィスに入ると、何人かの社員から声を掛けられた。
それに答えながら社長室に入る。
部屋で椅子に腰を下ろした途端、ノックする音とほぼ同時にドアが開いた。
姿を現したのは健一郎だ。
いつもの飄々とした態度とは違い、今日は難しい顔をしていてどこか焦りが感じられる。
その様子に一瞬で何か良くない事態が起きていることが分かり緊張が走った。
「……なんかあった?」
「分かるか?病み上がり早々にこんな報告で申し訳ないけど、サーバーに不具合が見つかったってさっき連絡が来た。今、モンエクのサービスは全面的に停止になってる」
「……マジかぁ」
それは緊急事態だ。
我が社の根幹サービスであるモンエクが提供できなくなっているのだ。
「すぐに修正対応に移ろう。緊急対策室として会議室一室を押さえて、そこに関係者集めてくれる?総出で取り掛かるしかないね」
「分かった。開発部のメンバーと、取引先に連絡してくるわ」
健一郎はすぐに社長室を出て行く。
俺は詩織ちゃんにメールを入れる。
今日入っている予定は全部キャンセルしてもらわなければならない。
たぶんトラブル対応で一日中部屋に篭りきりになるだろう。
過去にスマホゲームを提供している他社でもサーバー不具合が発見され、修正不可能と判断してサービス終了になったケースを知っている。
今回うちで起きている不具合がその他社の事例と同じだとは限らないが、サービス終了にまで追い込まれるケースもあるということは事実だ。
そんなことになれば大損害である。
考えるだけで頭が痛くなる。
俺は冷静に今すべきことを考え、広報部や営業部には緊急メンテナンスが入ることそれに対する顧客やメディア対応を依頼するなど、関係各位にまずは連絡を入れた。
その上でパソコンと必要書類を抱え、緊急対策室となる会議室へと駆け込んだ。
その日一日はバタバタだった。
やはり思った通り、朝から晩まで対策会議室に篭りきりになった。
食事をする時間も惜しく、会議室にいる関係者はみんなコンビニで買ってきた軽食を片手に作業に勤しんだ。
最終的に、サーバー不具合はなんとか解消し、サービス終了には追い込まれずに済んだことには安堵だ。
一日がかりでの修正対応で、対策会議室が解散したのは夜も遅くになってからだった。
「みんなお疲れ様。ホントよく頑張ってくれたよ、ありがとう。みんなのおかげでモンエクはサービス継続できる」
「社長もお疲れ様でした。病み上がりだったのに大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。すっかり忘れてたくらいだし。幸いにも明日から週末だから、みんなゆっくり休んで。もう終電ないだろうし、帰りはタクシー使って経費で落としてもらっていいからね」
「ありがとうございます。お疲れ様でした」
疲労が色濃く残る顔で社員が会議室を出て行く。
俺も疲れた体を引きずりながら、社長室に戻った。
しんと静まり返った真っ暗な部屋の電気をつける。
デスクの方を見ると、白いビニール袋が机の上に置かれているのが見えた。
今朝自分で置いた記憶はない。
デスクのそばまで行ってビニール袋の中身を除き込む。
中にはコーヒーや栄養ドリンク、お菓子やパンなどと一緒に綺麗な字で書かれたメモが入っていた。
“お疲れ様です。
良かったら食べてください 詩織”
彼女からの差し入れだった。
朝から会議室に篭りきりだったから、今日彼女とは一度も顔を合わせていない。
なのに、こんなふうに気にかけてくれていることが言葉にできないくらい嬉しかった。
……あーヤバイ。可愛い。好きすぎる。
今すぐにでも彼女の顔が見たい衝動に駆られる。
でもそれは時間的にもう無理だ。
……顔は無理でも声だけでも。
俺はスマホを手に取り、彼女に電話をかける。
もう24時近くだ。
彼女は寝てしまっているかもしれない。
そう懸念したが、数コールののちコール音は止まり、代わりに彼女の声が耳に飛び込んできた。
「もしもし」
「もしもし、詩織ちゃん?寝てた?」
「いえ、まだ起きてます。トラブル対応終わったんですか?」
「ちょうどさっきね。予定のリスケ対応ありがとう。あと、この差し入れも」
「無事終わったようで良かったです。遅くまでお疲れ様でした」
彼女からのお疲れ様という言葉がなんだか心に沁みる。
まるで乾いた砂漠に水が染み込んでいくようだ。
「……あー、詩織ちゃんに会いたいな」
思わずポロリと本音が溢れた。
こんなこと突然言われても彼女は困るだろうと分かっているのに。
「……私も会いたいです」
一瞬、聞き間違いかと思った。
彼女の言葉とは思えなかったからだ。
疲れすぎて願望が幻聴になったのかもしれないと自分の耳を疑った。
でも、どうやらそうではなかったらしい。
「……明日、朝一番に瀬戸さんの家に伺ってもいいですか?」
続けて彼女の口からこんな言葉が紡がれたからだ。
信じられない思いで「もちろん」と俺は頷く。
そして翌朝、彼女は本当に朝9時頃に俺の家にやって来た。
チャイムが鳴り、玄関のドアを開けたら彼女がいたのだ。
若干、半信半疑だった俺は嬉しさと同時に軽く驚いた。
とりあえず中に招き入れてリビングに通し、コーヒーを入れてテーブルに置いた。
「体調は大丈夫ですか?休み明けだったのに昨日は遅くまでだったんですよね?」
「もう全然大丈夫。心配してくれてありがとう」
「でも疲れた顔されてますよ?」
「まぁ疲れたのは疲れたから。体調は悪くないよ」
カーペットの上に座り心配そうに俺の顔を見つめていた彼女は、突然ゆっくりと立ち上がる。
どうしたのか?とその動きを目で追っていると、ソファーに座っている俺の方に近寄ってきて隣に腰を掛けた。
そして何を思ったのかいきなり体を寄せ、包み込むように俺を抱きしめた。
「え、詩織ちゃん!?」
予想外の彼女の行動に俺は目を丸くする。
背中に腕を回され、密着した体から彼女の柔らかさを感じる。
俺からハグをしたことはあっても、彼女からしてくるのは初めてだ。
「いきなり、どうしたの……?」
「……癒されるし元気が出るって、この前瀬戸さんが言ってたから」
耳元で少し照れたような小さな声が聞こえた。
その一言で思い出す。
確かに俺はこの前そう言った。
その時彼女は新技を習得しみたいな口調で「覚えておきます」と言っていたが、まさかそれをさっそく披露してくれるとは。
……つまり俺のために? あー、もうなんだこの可愛い生き物は。こんなことされたら、お試し交際なのに歯止めが効かなくなるんだけど。
理性がグラグラ揺れるのを感じる。
それにまるで彼女も俺のことを想ってくれているように感じてしまい勘違いしそうだ。
「……あのさ、こんなことされたらキツイんだけど」
「あ、すみません……!不快でしたか?」
パッ離れようとする彼女を抱きしめ返し、俺はもちろん離さない。
不快なんて思うはずがない。
「そういう意味じゃなくて。お試し交際なのに、こんなことされたら詩織ちゃんを手放せなくなるからキツイってこと。あと2ヶ月後に詩織ちゃんが無理って言っても諦めてあげれないかもよ?」
遠回しな言い方じゃ伝わらなさそうで、俺は今感じていることをストレートに放った。
諦めてあげられなくなったとしたら、それは彼女が悪い。
いっつも可愛いことばっかりして、俺の心を離さないからだ。
「……無理、なんて言いません」
「え?」
「……私も瀬戸さんのことが好きなので、一緒にいたいです。お試しとか、期限とか、そういうのもう全部なくって大丈夫です」
彼女は一言一言噛み締めるようにそう告げた。
あまりにも自分にとって都合の良い言葉が聞こえてきて、俺は大きく目を見開く。
思わず抱きしめていた腕を緩めて体を離し、真意を確認するように彼女の顔を覗き込んだ。
「…………今、俺のこと好きって言った?」
信じられなくて聞き返す。
お兄さんへの想いはもう大丈夫なのだろうか。
「はい、好きです。瀬戸さんのおかげで、もう兄にも何も感じません。私、前に進めたみたいです」
彼女は言い淀むこともなく、ハッキリとそう言い切った。
そこには何の動揺もなく、真実そうなんだろうということがいとも簡単に伝わる。
まっすぐ俺を見つめる彼女の瞳には自分しか映っていない。
……ああ、ヤバイな、これ。好きな人に同じ気持ちを返してもらえるって思ってた以上にクルな。
「……詩織ちゃん、キスしていい?」
「はい、私もしたいです。不慣れですけど……」
「そんなの全然いいよ。キスしたいんじゃなくて、詩織ちゃんだからしたいんだから」
どうしたらいいか?と尋ねてきた彼女に目を閉じてもらい、俺はそっとその唇に口づける。
触れただけの軽いキスなのに、今まで感じたことのないような完美な甘さと幸せが胸に押し寄せる。
それは俺と彼女の、本当の意味でのファーストキスだった。
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