涙溢れて、恋開く。

美並ナナ

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6. 宣言(Side千尋)

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「で、詩織ちゃんとの初対面はどうだった?」

その日の夜、社員もほとんど帰宅した時間帯に健一郎が社長室に入って来た。

入ってくるなり、慣れた様子でドカッと応接用のソファーに座っている。

社員から上がってきた決裁書を確認していた俺は一旦手を止めて健一郎を見た。


「問題なく仕事務まりそうだと思うって昼間言わなかったっけ?」

「それは聞いた。他には?」

「他? ああ、小日向さんは前職がスーツブランドの店員だって聞いたから、今度のレセプション用のスーツ見繕ってもらうの頼んだよ。目上の人と接することに慣れてる感じだから、来客対応も安心して任せられそうだね」


健一郎の質問の意図が読めず、事実をもとに答える。

だが、その答えではまだ足りなかったらしい。

健一郎が再び口を開く。


「口説こうとか思ってないよな?」


 ……ああ、なるほど。それが聞きたかったわけか。


俺の普段の素行を知ってるからこその確認なのだろう。

実はちょっと手遅れではあるのだが、彼女によると”なかったこと”になるらしいので問題ないだろう。


「確かに可愛い子だけど、思ってないよ。小日向さんの方こそ俺のことはまったく眼中にないみたいだしね」


 ……なにせ面倒をかけたって謝罪してくるし、不快なら秘書辞めるって言うくらいだしね。俺のこと利用しただけらしいし。


あれは予想外な展開だった。

処女奪ったんだから責任取ってと言われるならまだ理解できるが、謝罪されるとは思わなかった。

それに俺はあれ以来あの日のことが頭にこびりついて調子がおかしかったのに、彼女はなかったこととして忘れて欲しいと言う。


 ……でもまぁ、再会したことでため息も鳴りを潜めたし、調子狂ってたのも元に戻るだろう。


たぶん最後に見たのが泣き顔で、しかも消えるように居なくなられたのが引っかかってたんだと思う。

俺は冷静にそう判断していた。


「そうか、それなら良かった。詩織ちゃんはお前にゲーム感覚で口説いて遊ばれたくないからな」

「俺の普段の素行は否定しないけど、やけに彼女には肩入れするんだね?」

「言っただろ?俺の幼なじみの妹だって。アイツが心配してたからさ。念のため千尋に釘刺させてもらったってわけ」


健一郎によると、彼女の兄と話していた時にチラッと俺の素行を話したらしい。

どうせ健一郎はお得意の恋愛トークをしていたのだろう。

「それにしても兄って普通そこまで心配するもんなの?俺は一人っ子だし分かんないけど」

「あそこの兄妹は仲良いからな。アイツちょっとシスコンぎみだし。昔っから詩織ちゃんのこと気にかけててさ」

「へぇ。仲が悪いよりはいいんじゃない?」

案外その兄が彼女の男関係に口出ししたり、目を光らせたりしていて、男が寄って来なかったのかもなぁと想像する。

だからモテそうなのに彼女は処女だったんだろうか。

「アイツも最近結婚が決まったし、いい加減妹離れするだろうとは思うよ。まぁ、そういうことで、千尋の女遊びをとやかく言うつもりはないけど、俺の幼なじみの妹なんだから、詩織ちゃんのことは遊びで手は出すなよ」

「それ、本気ならいいってこと?」

「本気の千尋なんて見たことないんだけど」


冗談混じりで問いかけたら、健一郎にスパッと切り返され、俺は苦笑いする。

健一郎の言うことは確かに正しい。

まごうことなき事実だった。



Turururu……Trurururu……

その時、俺のスマホが鳴り出した。

着信元を見て俺は少し眉を顰める。

プライベートな電話だと気づいたのか、健一郎は「じゃ、俺行くわ」と気を利かせて社長室を出て行った。

部屋に一人残され、渋々スマホを手に取る。

無視してもいいのだが、そしたらまた後が面倒なのが分かりきっている。

「……もしもし?」

「あ、ちぃちゃ~ん??」


電話口からは舌ったらずな甘えるような声が聞こえた。

いい歳した大人なのに、この人はいくつになってもこの調子だ。


「……母さん、何か用?」

「なによ~。そんな冷たい声出して。一人息子なんだから優しくしてよぉ」

「仕事中だからね。で、用件は?」

「ちぃちゃんに聞いて欲しくて。ねぇ、この前話したカレと別れたの~!わたしが他の男と浮気してるって言うのよ。チョット2人でお酒飲みに行っただけなのに、ひどくなぁい?」

 ……またか。相変わらずだな。

呆れるような気持ちになり、バレないようにそっと息を吐き出した。

そんな俺の反応には気づくことなく、母は構わず話し続ける。


「カレ、私がお店以外で男と2人で会うのが悪いって言うの。しかも色目使ってたとか言って疑ってくるしぃ。そんな心の狭い男はイヤって思って別れちゃった~。ねぇ、ちぃちゃんもカレが悪いと思うでしょぉ?」


そんなの知るかと心の中でつっこむが口には出さない。

言えば「ちぃちゃんヒドイ~!」と泣きつかれるから面倒なのだ。

この人はいつもこうだ。

シングルマザーの母は夜の仕事をしながら俺を育ててくれ、今はスナックを経営している。

女手ひとつで育ててくれたことには感謝している。

だが、いかんせん昔から男関係が派手だった。

取っ替え引っ替え、常に男がコロコロ変わる。

それを隠しもしないし、ああだこうだと俺に話してくるのだ。

子供の頃から今現在まで、何人の男の話を聞いたかもはや思い出せない。

身近でこんな奔放すぎる女性を見てきたら、恋愛に夢は持てなくなる。

「女性なんてそんなもん」という意識を心の奥底で植え付けられた。

今の俺の女関係のひどさは、この人の影響が多分にあることは間違いないだろう。



「お店以外で会ったら疑われてもしょうがないんじゃない?」

「え~ちぃちゃんまでそんなこと言うのぉ?だって誘われて、なかなか予約取れない人気店で美味しいディナーご馳走してくれるって言うんだもん」

「……ああ、そう。まぁもう別れたんでしょ?それなら今さらどうこう言ってもしょうがないと思うよ?」


どうせ母のことだ、そのカレの言う通り、色目を使っていたというのは事実だろう。

こんな話に興味はなくて俺は適当に相槌をうちつつ話を切り上げようとする。

しかし母はまだ話し足りないようだ。


「実はね、そのお酒を飲みに行った人からも付き合ってって言われちゃったのぉ。だから困っちゃって。これじゃあカレが言うとおり、わたしが浮気したみたいでしょぉ?あ、わたしは全然そんなつもりなかったのよ?」

「……あぁそう」


やはりと言うかなんというか。

察するに、そんなつもりはなかったと言いつつ、やはり多少の浮気心はあったのだろう。

浮気を疑われて別れた手前、すぐに乗り換えるのは体裁が悪いから困ってるフリをしている、そう感じた。

 ……たぶん母さんは悪くないよって俺に言ってもらいたいがために電話かけてきたんだろうな。


俺を絶対的な味方だと認識しているらしい母は、何かと俺に同意を求めてくる。

子供の頃から男と別れるたびに「ママは悪くないよね?ちぃちゃんは分かってくれるよね?」と言ってくるのだ。

そのたびに母が求める回答を与え、同時に女性なんて信用できないなという考えが深まった。

こんなことはいつものことなのに、今日の俺はなぜか母に母の求める言葉を素直に返すことができなかった。

「悪くないよ」と言われ待ちをしているであろう母に無言を返す。


なぜなら、ふと今日から秘書になった彼女の顔が頭に思い浮かんだからだ。

 ……ちゃんと身持ちが堅い女の子も世の中にはいるんだよなぁ。


仮に兄の干渉があったにしろ、モテるだろうし今までそういう機会は多くあったはずだ。

それなのに彼女はパリのあの時まで経験がなかった。

遊び慣れているだろうと口説いてホテルに誘い込み、その事実を知った時の驚きは記憶に新しい。

母みたいに男を取っ替え引っ替えしてる女性ばかりではないのだ、とあの時受けた強い衝撃を思い出した。


「ちぃちゃん?」

「……ごめん、母さん、用件ってそれだけ?」

「え、そうだけどぉ?」

「それなら仕事忙しいから切るよ。またね」

「ちょ、ちぃ……」


呼びかけている声が聞こえたが、構わずそのまま電話を切った。

母の求める言葉をかけなかったのは初めてかもしれない。

なんか今日は言う気分じゃなかったのだ。

母の電話で集中力が切れた俺は、手をつけていた決裁書だけ処理して、その日は早めに退社することにし社長室をあとにした。


◇◇◇


「おはようございます」

翌朝出社すると、朝一番に彼女が社長室にやってきた。

微笑むような笑顔を向けられ、俺も自然に笑顔になる。

朝からこうして彼女の顔を見ただけで、なぜか俺の心は弾んでいた。

そんな自分の心の動きを不思議に思う。


「あの、瀬戸社長と普段やりとりのある取引先やご面識のある方を把握しておきたいと思ってるんですけど、何かリストなどあったりしますか?」

さっそく彼女から仕事の質問を受けた。

スーツショップで働いている時も顧客情報の把握は大切だったそうで、その経験から自分が仕える上司の関係者を覚えておきたいらしい。

もっともな意見だった。

「リスト化はしてないけど、過去に挨拶した人の名刺を渡しておくよ。これで大体把握できると思う。あと、この書類もできれば整理してもらえると助かるな」

俺は名刺の束といくつかの書類を机の引き出しから取り出す。

彼女はそれを両手で丁寧に受け取った。

笑顔の向け方といい、こういう所作といい、彼女の振る舞いは接客業をしていた人のソレが端々から感じられた。

「午後は来客も2件あるから、来客対応もよろしくね」

「はい、スケジューラーを拝見して把握しています。大丈夫です」


すでにパソコンの設定も済み、共有のスケジューラーの確認も終わっているようだ。

着実に仕事を進めてくれているのは頼もしい限りだ。


「ああ、そうだ。就業後は詩織ちゃんの歓迎会があるっていうのは聞いた?」

「はい。昨日植木さんと美帆さんから伺いました。社長も参加されるんですか?」

「うん。詩織ちゃんは俺の秘書だしね」

「お手数おかけしてすみません。歓迎会をわざわざ開いていただけるなんて……」

「気にすることないよ。うちの社員はみんな歓迎会っていう口実で飲みたいだけだから。いっつもこんな感じ」

俺がそう言うと思い当たる節があったのか、彼女はおかしそうにクスクスと小さく笑う。

その表情に思わず目が釘付けになった。

 ……うっわ、可愛い。

接客用の笑顔とは違ったふにゃっとした自然な笑顔の破壊力たるや。


「確かにここの社員の皆さんはそんな感じですね。美帆さんも今日はお子さんをご両親に預けたからいっぱい飲むって張り切ってらっしゃいました」

笑いながら話す彼女から目が離せない。

しかしそれを遮るように俺のスマホのバイブ音が鳴った。

長さ的におそらくメールの受信だろう。

その音にハッとした彼女は、「ではこちらお預かりします」と言って社長室から出て行ってしまった。

 ……もうちょっとあの表情を見ていたかったのにな。


残念に思いながら、俺はスマホを操作してメールを確認する。


“千尋くん、今週末会えない?美味しいワイン飲みに行かない?また前みたいに楽しい夜を一緒に過ごしたいな!”


それは以前関係を持った女の子からのお誘いの連絡だった。

確か何かのパーティーで出会ってその日中にホテルへ行った子だ。

その後も何度か誘われて会っていた。

今までの俺なら、特に予定がなければ即答でオッケーしていただろう。

でもこの日は予定は問題ないにも関わらず全く気が乗らなかった。

 ……全然女の子遊びする気にならないんだよなぁ。ため息も出なくなったしそのうち元通りになるかと思ったけど。


依然としてあのパリ以降の症状が続いている。

やっぱりどこか自分はおかしいのだろうか。

そんな疑問に首を傾げながら、とりあえず ”ごめん、忙しい” とお断りの返信を入れた。

その日の夜の歓迎会では、さらなる異変が自分に起きた。

歓迎会には、総務部など彼女と席が近いメンバーを中心に割と多くの社員が参加し、大いに盛り上がっている。

お酒が飲めない彼女はソフトドリンクを片手に皆の話に楽しそうに耳を傾けていた。

それに気を良くするのは男性社員だ。

群がるように彼女の近くにやってきて、我先にとアピールしている様子が見受けられた。

それを視界に入れ、俺はなぜだか苛立ちにも似た感情で支配される。

別に苛立つ要素なんてない。

至って普通の光景のはずだ。

社員が楽しそうにしていて、歓迎される側の彼女が話しかけられている状況はむしろ俺の立場からすれば喜ばしいものであるはずである。

 ……それなのになんでこんなイライラする?


昼間に続き自分のおかしさに首を傾げざるを得ない。

怒ってるわけではないのになぜイラつくのか理解できずにいると、俺の隣にいた健一郎が彼女に話しかけた。


「酔っ払いばっかだけど大丈夫?詩織ちゃんは飲んでないしテンションついて行くのキツイっしょ?」

「大丈夫です。皆さん気さくに話しかけてくれて嬉しいです」


健一郎は自分の紹介で入社した彼女のことを気にかけているようだ。

たがそれも最初だけで、すでに酒の入っている健一郎はいつものように軽口で恋愛トークをふっかけ始める。

「それならいいけど。で、詩織ちゃん彼氏は?どんな男がタイプ?」

「………」

「歴代の彼氏はどういう人だった?」

「……健ちゃん、人の恋路に首つっこまない方がいいってこの前お兄ちゃんに言われたばっかりでしょ?」


恋愛話に沈黙を貫いていた彼女は、耐えかねたように呆れた声で健一郎に言い返す。

それがあまりにも親しげで俺は軽く驚いた。

もともと知り合いなのだから当たり前といえば当たり前なのだが、彼女がタメ口で話しているところを初めて聞いた。

 ……しかも”健ちゃん”って呼ばれてるのか。


また妙な苛立ちが全身を包み込む。

健一郎に対してこんなにジリジリした苛立ちを感じるなんてありえない。


 ……もしかして、これが俗に言う「嫉妬」だったりして?


その可能性に思い至り、さっきから起きている自分の異変がすとんと腑に落ちる。

どうやら彼女と仲良くする男性社員や健一郎に対して妬ましく感じていたようだ。

冷静に自分の感情に向き合ってみる。

仕事でもそうだ。

異変や違和感があった時には、冷静な現状把握が重要だ。

そうでなければ打ち手も見当がつかない。

俺は飲み会の席で、ぼんやりと彼女を見ながら改めて考えてみた。

 ……やっぱ嫉妬だろうな。自分だけを見てほしい、彼女を独り占めしたいって内心思ってるし。

それは深く考えるまでもなくハッキリとした感情だった。

そして俺が初めて抱くモノでもあった。

努めて冷静に自身の内面把握をした俺は一つの結論を下す。

 ……つまり、俺は彼女に本気ってことか。


今までゲーム感覚で女の子を口説いてきたけど、彼女に関しては本気で自分のモノにしたい。

自分でも気づかないうちに彼女に陥落していたらしい。

いや、おそらくあのパリの時だ。

あれ以来俺はおかしかったのだから。

自分が女性に本気になったという事実に多少の驚きはあれど、非常に納得のいく状況でもあった。


結論を出した俺の行動は早かった。

IT系ベンチャー企業の社長である俺は、基本的に即断・即決・即行動がモットーだ。

日々変化する市場に柔軟に対応していくにはスピーディーさが大切だからだ。

歓迎会の翌朝、俺は現状を踏まえて打ち手をうつことにする。

彼女はいつものように社長室に挨拶にやってきた。


「おはようございます。昨日は歓迎会、ありがとうございました」

「おはよう。社員のみんなとも話せたみたいだね」

「はい。皆さん気さくに話し掛けてくださって嬉しかったです。本日ですが、瀬戸社長は外出でほとんど不在にされるんですよね?何か私の方で準備必要ですか?」

「いや、特に準備は大丈夫。来週の取引先との会食の手配をお願いできる?」

「はい、承知しました」


まずはテキパキと業務連絡を進める。

彼女は話しながらメモを取っていた。


「スーツを見繕ってもらう件だけど来週早めで調整をお願いしていい?日時や場所は詩織ちゃんに任せるね」

「レセプションで着用されるっておっしゃってた件ですよね?オーダーメイドがご希望ですか?」

「レセプションが再来週であんまり時間ないけど、日程が大丈夫ならその方がいいかな。そのあたりも任せるよ」

「承知しました。瀬戸社長のスケジュール拝見して調整しておきます」


ひと通りの連絡事項の確認が終わった。

彼女もメモを取る手を止め、さっそく業務に取り掛かろうと社長室を退室し始める。

そのタイミングで俺は彼女を呼び止めた。


「詩織ちゃん」

「はい?」

ドアノブに手を掛けていた彼女がこちらを振り返る。


「あともう一つ連絡事項。俺、詩織ちゃんのこと好きになったから」

「……えっ?」

「詩織ちゃんが俺のことなんとも思ってないのは知ってる。だから振り向いてもらえるように動くよ。そのつもりでいてね?」


俺の一言に彼女は目を丸くする。

今、彼女の瞳に映っているのは俺だけだ。


彼女の視線を独り占めし、口角には自然と笑みが浮かんだ。
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