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24. 勇気と覚悟
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「なっ、誰だ!!」
「誰っスか! ヤバイ雰囲気っスよ!」
「おい、お前らあの男を捕えろ!」
突然の予期せぬ乱入者の登場に取り乱したのは男達だった。
そんな男達には目もくれず中に入って来たフェリクス様は、私の姿に目を留めると、凄まじい怒りを眉の辺りに這わせて全身に殺気を漂わせた。
「この建物は包囲している。お前達に逃げ場はない。もう一人の女もすでに捕縛済みだ」
そう言い放ったフェリクス様の声は耳にするだけで相手を身震いさせてしまうような声色だ。
にも関わらず、男達は逃亡を目論んで三人で一気にフェリクス様に飛び掛かり出した。
一対三、勝ち目あり、と思ったのだろう。
男達はニヤリと顔を歪ませる。
だが、フェリクス様はまるで虫でも追い払うかのように軽い手捌きで男達を一瞬で制圧してしまった。
一方的にのされた男達はフェリクス様のあまりの強さに驚愕し、恐怖を顔に張り付けている。
フェリクス様は無力化した男達をロープで縛り外へ連れて行くと、再び戻ってきて今度は隅の方でガタガタ震えている女の方へ目を向けた。
「お前が何者かも把握済みだ。同情すべき点は多少あるが、加担した以上罪は罪だ。大人しく外に出ていろ」
女の方は抵抗することはなく、絶望感で顔を固くしながらもどこかホッとした様子で、フェリクス様に深く一礼すると外へ出て行った。
そうしてこの場に残されたのはフェリクス様と私だけになる。
二人きりになるやいなや、フェリクス様は私の方へ近づいてきて、自分の着ていたコートを私の身体にかけてくれた。
コートにはまだ体温が残っていて、まるでフェリクス様に包み込むような抱擁をされているみたいだ。
安堵感が心の底から込み上げて、気が緩んだからか瞳に涙が滲む。
「遅くなってごめん。怖かったよね」
「フェリクス様……」
「怪我はない? 痛いところは?」
「大丈夫です。危ないところでしたが、フェリクス様が来てくださったので無事でした。助けて頂きありがとうございます」
「無事だったと言うけど、シェイラにこんな怖い思いをさせたという時点で僕はアイツらを許せない。こんな非道な計画を実行するなんて……。僕がもっと早く気づいていれば……」
座り込んでいる私と目線を合わせるため床に膝をついていたフェリクス様は、実に悔しそうに膝の上で拳を握った。
ふるふると震える拳がフェリクス様の溢れ出しそうな心の衝動を如実に伝えている。
……こんなに感情的なフェリクス様、珍しい。初めて見る気がするわ。
私のためにこれほど怒り、恨み、悔やみ……心を揺らしてくれているのだと思うと不謹慎にも嬉しさを感じずにはいられない。
フェリクス様の荒ぶる拳に手を重ねたい、そう思うも未だに手は拘束されたままだ。
「あの、フェリクス様。私の手を縛っているロープを解いてもらえませんか?」
「ロープ? 拘束されていたの!?」
どうやらフェリクス様は私の胸元がはだけていたことへの怒りと衝撃があまりに大きかったらしく、背中の後ろの手には意識が向いていなかったようだ。
目を丸くすると、急いで手を解放してくれる。
「……酷いな。白くて綺麗な肌に痕が残ってる」
フェリクス様は痛ましそうに顔を歪めると、縛られた痕が赤く残る部分をなぞるように指を這わせた。
「痛くない?」
「……あの、痛くはないです! 大丈夫です! それよりフェリクス様はなぜここに? 私がいなくなったことが騒ぎになっているのですか? それにどうして場所が分かったんですか?」
指で触れられた部分は、痛いどころかくすぐったいし、なんだか妙な感じがしてソワソワした。
その指先の動きに耐えられなくなり、急いで別の話題を持ち出す。
フェリクス様がここへ姿を現した時からずっと気になっていたことだ。
これまでの話しぶりからして、依頼主の正体までフェリクス様は把握していそうな感じだった。
「安心して。この件は騒ぎになっていないし、僕の部下の中でもごく一部の者しか知らない。シェイラが誘拐されて傷物になったと噂が立つ心配はないからね」
貴族社会では、令嬢が誘拐された場合その時に手をつけられただろうと見なされて、事実の有無は関係なく傷物扱いされるのが常だった。
そういった不名誉な噂が立つと婚姻に響く。
だから誘拐事案は極力隠すのが貴族の常識だった。
その点を私が憂悩していると思ったらしいフェリクス様はまず騒ぎになっていない旨を優しく言い聞かせてくれる。
……実は、私としてはそれならそれで不本意な婚姻を避けられるから別に構わないのよね。でも私に不名誉な噂が立たないよう配慮してくれるフェリクス様の気持ちが嬉しいわ。
騒ぎになっているか気になったのは、急にいなくなってエバやマクシム商会長に心配をかけているのではと気掛かりだったからだ。
でもどうやら大丈夫そうであり、少しホッとする。
「この場所が分かったのは、実行犯であるアイツらと主犯の関係を以前から探っていたからだよ。今日動きがあったと報告を受けて、急いで駆けつけてたんだ」
「主犯……あの男達が口にしていた依頼主、のことですね」
「ああ、そうだよ。シェイラに歪んだ感情を一方的に募らせていたみたい」
「そうなんですか。その方って……」
「ストラーテン侯爵令嬢のカトリーヌ嬢。彼女が今回の主犯だよ」
告げられた名前に私は愕然とする。
確かに良く思われているとは考えていなかったが、まさか目障りだからという理由で男に襲わせるほど私へ負の感情を募らせているとは思いもしなかった。
……ああ、そうか。あの代理人だという女性、どこかで見たことあると思ったらカトリーヌ様のメイドだったんだわ。学園の寮でチラリと見かけたことがあったわね。
現場にいた女性とカトリーヌ様が結び付いたことでフェリクス様の言葉が事実なのだと実感する。
カトリーヌ様とは同じクラスだが、個人的に親交があるかと言えばないに等しい。
私にとってギルバート様を奪ってくれた救世主であり、私よりもフェリクス様に相応しく嫉妬を抱いてしまう相手だ。
それ以上でもそれ以下でもないのだが、顔見知りのクラスメイトに知らぬ間にこれほど悪意を持たれていたことに恐怖を感じずにはいられなかった。
「……まさかカトリーヌ様にこんなにも忌み嫌われていたなんて……」
「シェイラは悪くない。カトリーヌ嬢が勝手にシェイラを目の敵にしていただけだから。彼女の言動は危うい感じだったからね、僕も動向に注視するようにしてたんだけど」
「動向に注視、ですか?」
「もしかしたらシェイラも噂を耳にしたかもしれないけど、カトリーヌ嬢はどうやら僕へ好意を抱いていたらしくてね。王城でも待ち伏せされた上に所構わず言い寄られて困ってたんだ。ただ、シェイラに対して良からぬことを企んでそうだったから、あえて追い払わず油断させて様子見していた」
「えっ。私のために、ですか? カトリーヌ様に心惹かれていたからではなく……?」
つまり王城で目撃した時もフェリクス様はあえて笑顔でカトリーヌ様に応対していたということだろうか。
噂にもなっていたため、仲睦まじく逢瀬を重ねていると思い込んでいた私は予想外の言葉に目を瞬いた。
「シェイラのためでなかったら、とっくに追い払うか不敬罪にしているよ」
「そう、だったんですか」
「なに? もしかして僕がカトリーヌ嬢と仲良くしていると思って嫉妬してくれてた?」
「………っ!」
ズバリ言い当てられてしまい、甚だ決まりが悪い。
そんな感情を抱いていた自分を知られるのが恥ずかしくて、顔が真っ赤になる。
「あーー本当にシェイラは可愛いなぁ」
そう言ってフェリクス様は破顔する。
そして堪らないと言わんばかりに私を抱き寄せようと手を伸ばしたところで、はたと何かに気付き動きを止めた。
行き場を失った手がそのまま下に降ろされる。
「……シェイラ、僕は君に触れてもいいの?」
「えっ……?」
「この前、抱きしめた時は泣かせてしまったから。僕のことを嫌っているからだと思ったけど、今のシェイラは僕とカトリーヌ嬢の様子に嫉妬したり、まるで僕のことが好きみたいだ。だから正直シェイラの気持ちがよく分からないと思ってる」
「それは……」
「僕はシェイラのことを愛してるよ。見た目に反して頑固なところも、折れない意志の強さも、目的のためなら策略を巡らすところも、お母上を想う優しいところも、全部ね」
熱い眼差しで見つめられ、胸がドキドキする。
今までも「好き」という言葉は軽い感じで何度か言われたことがあったが、こんな真剣に好意を伝えられたのは初めてだ。
しかも外見以外の部分を挙げられた上に「愛してる」と最上位の愛情表現を告げられて嬉しくないわけがない。
「フェリクス様……」
「シェイラは僕のことどう思ってるの? 色仕掛けをして嫌われようとしていた時から変わってない?」
ああ、全部フェリクス様にはお見通しだったのだとそう言われて気がついた。
私の望む穏やかな生活を手に入れるために、フェリクス様に嫌われようと必死にあれこれ仕掛けていたことはバレバレだったようだ。
……分かった上でフェリクス様は私に付き合ってくれていたのね。道理で逆に翻弄されたわけだわ。
真意を見抜いた相手の前で、慣れない色仕掛けに奮闘していたのかと思うと、なんだか自分が滑稽でまたしても恥ずかしくなってくる。
もうなんだか丸裸にされた気分で、これ以上何かを隠しても無駄な気がした。
……これだけ丸裸になっているのだから、今更私の気持ちを隠してもしょうがないじゃない。それに距離があいてしまった時、ちゃんと誤解を解いていればと私は後悔したはずよ。自分の口で自分の思いをきちんと伝える、それが大事だわ。「次」があると期待するのは愚かだって実感したもの。
まるで自分に言い聞かせるような言葉が頭の中で巡る。
それと同時に母の手紙の一節も蘇ってきた。
――愛する人の存在があればきっとどんな苦労も乗り越えられるとも感じているの。他ならぬ娘がそう私に教えてくれたわ。
そう、もう身の丈に合った平穏な暮らしなんてどうでもいい。
それ以上にフェリクス様が好きで、フェリクス様と一緒にいたいと今の私は思っているのだ。
愛する人のためなら苦労も努力もできる。
母がそうだったように、きっと私も。
……だって私はお母様の娘だもの……!
今までフェリクス様への想いに対して勇気も覚悟も持てなかった私の心が変わった瞬間だった。
「フェリクス様、確かに私は身分の高い男性と関わり合いたくなくて、フェリクス様からも嫌われたいとずっと思っていました。そのために色々仕掛けたのも事実です……その、見抜かれていたのはちょっと想定外ではありましたが」
「……そう。嫌われたい理由は僕の身分だったんだ」
「はい。私は昔から身分違いの恋や結婚は不幸なだけだと思っていて、だからこそ自分の身の丈に合わない方は避けたかったのです。……でも気持ちが変わりました」
「それは……」
「フェリクス様を好きになってしまったからです。今まで願っていた身の丈に合った平穏な暮らしを投げ捨ててもいいと思うほどに。だから今は嫌われたいとは思っていません。……その、今はむしろ好かれたいと思っています」
「シェイラ……!!」
思いの丈をありのままに口にした私に、フェリクス様は再び破顔して、今度は遠慮することなく私をギュッと抱き寄せた。
コートに残る体温に包まれるよりも、やはり本物は桁違いだ。
逞しい胸と力強い腕に抱きしめられて、心の底から湧き上がってくるような安心感を感じ、その心地良さにうっとりする。
「あー可愛い。本当に可愛い。必死で色仕掛けを頑張るシェイラも、嫉妬するシェイラも可愛いかったけど、僕のことを好きだと言うシェイラが一番可愛い。愛しくてたまんないなぁ」
もう離さないと言うように私を抱きしめるフェリクス様の腕にさらに力がこもる。
それに応えるように私もフェリクス様の背中に腕を回してさらに身を寄せた。
「シェイラが僕を想ってくれているのは伝わったよ。すごく嬉しい。ただ、まだ一つ分からないことがあるんだけど、聞いていい?」
「はい。なんですか?」
「なんでこの前泣いたの? 僕に抱きしめられるのは嫌ではなかったんだよね?」
ギルバート様とのことを知られたくない気持ちから一瞬ギクリとしたが、この密着状態ではそれもバレバレだった。
身を固くした私の顔をフェリクス様が覗き込む。
知られたくはないが、フェリクス様に対して嘘をついたり、隠し事をするつもりはない。
だから私は正直に当時の心境を打ち明けたのだが、それは笑顔だったフェリクス様を一瞬で鬼の形相に変えてしまった。
「フ、フェリクス様……?」
「ああ、ごめん。シェイラに対して怒ってるわけじゃないよ。……ただ、ギルバートにね。さて、どうしてくれようか」
フェリクス様のコバルトブルーの瞳が燃えるような妖しい光を宿している。
これはなんだか大事になってしまいそうな予感がして私は慌ててフェリクス様を止めるように軽く腕を引いた。
「あの、もういいですから。思い出したくもないというか……」
「じゃあ今後はこっちを思い出して」
「えっ? こっちというの……」
問いかけた言葉は途中で途切れてしまった。
なぜならフェリクス様に唇を塞がれたからだ。
柔らかな感触が唇に触れ、驚きと同時に甘いときめきが胸を支配する。
優しくて穏やかで、唇から気持ちが伝わってくるような口づけだ。
全く不快感や気持ち悪さなんてない。
……同じ行為でもギルバート様とは天と地ほどに違う。全く別物だわ。
あれはただの事故。
そしてこれこそが正真正銘の私のファーストキスだと思えた。
「嫌だった?」
「いえ、全然。……嬉しいです」
「良かった。シェイラ、これがシェイラの初めてだからね? 上書きして以前のは記憶から抹消したから」
言い聞かせるようにそう告げたフェリクス様は再び顔を寄せてくる。
今度は私もそっと目を閉じて受け入れた。
重なった唇は、私に甘い幸せをもたらし、心が温かく満たされていく。
だが、しばらくすると変化が訪れた。
触れるだけの優しい口づけから一転し、唇が唇をこじ開けて舌が差し込まれたのだ。
まるで意思のある生き物のようなぬるりとしたものが舌に絡みつく。
「………!」
びっくりして反射的に目を開けてしまった。
フェリクス様の瞳とかち合い、そこに悪戯っぽい光が宿っていることに気がつく。
唇が離れた時、やはりフェリクス様は顔に楽しげな笑顔を浮かべていた。
「ごめんね、びっくりした?」
「し、しました……」
「ふふ、インパクトがあった方が記憶に強く残るかなと思ってね。上書きするためには念には念を入れてみたんだ」
悪戯が成功した子供みたいにフェリクス様は小さく笑う。
そしてその試みは大成功と言っていいだろう。
なぜなら先程の思いがけない濃厚な口づけで私の頭の中はいっぱいだったからだ。
ギルバート様とのことなどもう思い出す隙間すらない。
……もう、相変わらず私はフェリクス様に翻弄されてばかりだわ。フェリクス様は私を驚かす天才ね。
思い返せば、初めて言葉を交わした時も、その後教室に現れた時も、色仕掛けをした時も、デートをした時も、ずっとフェリクス様には手玉に取られてきた。
私の想像を軽く超えた言動をするフェリクス様に振り回されてばかりだ。
……でもそんなところも好きというか、敵わないなぁって思わせられるのよね。
結局のところ、私はフェリクス様に心奪われ、もうすっかり魅了されているのだ。
無敵王子と呼ばれる王太子殿下にではなく、フェリクス様という個人に。
こうして卒業パーティーを間近に控えたこの日、私はフェリクス様と心を通わせ合い、また同時にフェリクス様へ向ける自分の想いの強さを改めて思い知ったのだった。
「誰っスか! ヤバイ雰囲気っスよ!」
「おい、お前らあの男を捕えろ!」
突然の予期せぬ乱入者の登場に取り乱したのは男達だった。
そんな男達には目もくれず中に入って来たフェリクス様は、私の姿に目を留めると、凄まじい怒りを眉の辺りに這わせて全身に殺気を漂わせた。
「この建物は包囲している。お前達に逃げ場はない。もう一人の女もすでに捕縛済みだ」
そう言い放ったフェリクス様の声は耳にするだけで相手を身震いさせてしまうような声色だ。
にも関わらず、男達は逃亡を目論んで三人で一気にフェリクス様に飛び掛かり出した。
一対三、勝ち目あり、と思ったのだろう。
男達はニヤリと顔を歪ませる。
だが、フェリクス様はまるで虫でも追い払うかのように軽い手捌きで男達を一瞬で制圧してしまった。
一方的にのされた男達はフェリクス様のあまりの強さに驚愕し、恐怖を顔に張り付けている。
フェリクス様は無力化した男達をロープで縛り外へ連れて行くと、再び戻ってきて今度は隅の方でガタガタ震えている女の方へ目を向けた。
「お前が何者かも把握済みだ。同情すべき点は多少あるが、加担した以上罪は罪だ。大人しく外に出ていろ」
女の方は抵抗することはなく、絶望感で顔を固くしながらもどこかホッとした様子で、フェリクス様に深く一礼すると外へ出て行った。
そうしてこの場に残されたのはフェリクス様と私だけになる。
二人きりになるやいなや、フェリクス様は私の方へ近づいてきて、自分の着ていたコートを私の身体にかけてくれた。
コートにはまだ体温が残っていて、まるでフェリクス様に包み込むような抱擁をされているみたいだ。
安堵感が心の底から込み上げて、気が緩んだからか瞳に涙が滲む。
「遅くなってごめん。怖かったよね」
「フェリクス様……」
「怪我はない? 痛いところは?」
「大丈夫です。危ないところでしたが、フェリクス様が来てくださったので無事でした。助けて頂きありがとうございます」
「無事だったと言うけど、シェイラにこんな怖い思いをさせたという時点で僕はアイツらを許せない。こんな非道な計画を実行するなんて……。僕がもっと早く気づいていれば……」
座り込んでいる私と目線を合わせるため床に膝をついていたフェリクス様は、実に悔しそうに膝の上で拳を握った。
ふるふると震える拳がフェリクス様の溢れ出しそうな心の衝動を如実に伝えている。
……こんなに感情的なフェリクス様、珍しい。初めて見る気がするわ。
私のためにこれほど怒り、恨み、悔やみ……心を揺らしてくれているのだと思うと不謹慎にも嬉しさを感じずにはいられない。
フェリクス様の荒ぶる拳に手を重ねたい、そう思うも未だに手は拘束されたままだ。
「あの、フェリクス様。私の手を縛っているロープを解いてもらえませんか?」
「ロープ? 拘束されていたの!?」
どうやらフェリクス様は私の胸元がはだけていたことへの怒りと衝撃があまりに大きかったらしく、背中の後ろの手には意識が向いていなかったようだ。
目を丸くすると、急いで手を解放してくれる。
「……酷いな。白くて綺麗な肌に痕が残ってる」
フェリクス様は痛ましそうに顔を歪めると、縛られた痕が赤く残る部分をなぞるように指を這わせた。
「痛くない?」
「……あの、痛くはないです! 大丈夫です! それよりフェリクス様はなぜここに? 私がいなくなったことが騒ぎになっているのですか? それにどうして場所が分かったんですか?」
指で触れられた部分は、痛いどころかくすぐったいし、なんだか妙な感じがしてソワソワした。
その指先の動きに耐えられなくなり、急いで別の話題を持ち出す。
フェリクス様がここへ姿を現した時からずっと気になっていたことだ。
これまでの話しぶりからして、依頼主の正体までフェリクス様は把握していそうな感じだった。
「安心して。この件は騒ぎになっていないし、僕の部下の中でもごく一部の者しか知らない。シェイラが誘拐されて傷物になったと噂が立つ心配はないからね」
貴族社会では、令嬢が誘拐された場合その時に手をつけられただろうと見なされて、事実の有無は関係なく傷物扱いされるのが常だった。
そういった不名誉な噂が立つと婚姻に響く。
だから誘拐事案は極力隠すのが貴族の常識だった。
その点を私が憂悩していると思ったらしいフェリクス様はまず騒ぎになっていない旨を優しく言い聞かせてくれる。
……実は、私としてはそれならそれで不本意な婚姻を避けられるから別に構わないのよね。でも私に不名誉な噂が立たないよう配慮してくれるフェリクス様の気持ちが嬉しいわ。
騒ぎになっているか気になったのは、急にいなくなってエバやマクシム商会長に心配をかけているのではと気掛かりだったからだ。
でもどうやら大丈夫そうであり、少しホッとする。
「この場所が分かったのは、実行犯であるアイツらと主犯の関係を以前から探っていたからだよ。今日動きがあったと報告を受けて、急いで駆けつけてたんだ」
「主犯……あの男達が口にしていた依頼主、のことですね」
「ああ、そうだよ。シェイラに歪んだ感情を一方的に募らせていたみたい」
「そうなんですか。その方って……」
「ストラーテン侯爵令嬢のカトリーヌ嬢。彼女が今回の主犯だよ」
告げられた名前に私は愕然とする。
確かに良く思われているとは考えていなかったが、まさか目障りだからという理由で男に襲わせるほど私へ負の感情を募らせているとは思いもしなかった。
……ああ、そうか。あの代理人だという女性、どこかで見たことあると思ったらカトリーヌ様のメイドだったんだわ。学園の寮でチラリと見かけたことがあったわね。
現場にいた女性とカトリーヌ様が結び付いたことでフェリクス様の言葉が事実なのだと実感する。
カトリーヌ様とは同じクラスだが、個人的に親交があるかと言えばないに等しい。
私にとってギルバート様を奪ってくれた救世主であり、私よりもフェリクス様に相応しく嫉妬を抱いてしまう相手だ。
それ以上でもそれ以下でもないのだが、顔見知りのクラスメイトに知らぬ間にこれほど悪意を持たれていたことに恐怖を感じずにはいられなかった。
「……まさかカトリーヌ様にこんなにも忌み嫌われていたなんて……」
「シェイラは悪くない。カトリーヌ嬢が勝手にシェイラを目の敵にしていただけだから。彼女の言動は危うい感じだったからね、僕も動向に注視するようにしてたんだけど」
「動向に注視、ですか?」
「もしかしたらシェイラも噂を耳にしたかもしれないけど、カトリーヌ嬢はどうやら僕へ好意を抱いていたらしくてね。王城でも待ち伏せされた上に所構わず言い寄られて困ってたんだ。ただ、シェイラに対して良からぬことを企んでそうだったから、あえて追い払わず油断させて様子見していた」
「えっ。私のために、ですか? カトリーヌ様に心惹かれていたからではなく……?」
つまり王城で目撃した時もフェリクス様はあえて笑顔でカトリーヌ様に応対していたということだろうか。
噂にもなっていたため、仲睦まじく逢瀬を重ねていると思い込んでいた私は予想外の言葉に目を瞬いた。
「シェイラのためでなかったら、とっくに追い払うか不敬罪にしているよ」
「そう、だったんですか」
「なに? もしかして僕がカトリーヌ嬢と仲良くしていると思って嫉妬してくれてた?」
「………っ!」
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「それは……」
「僕はシェイラのことを愛してるよ。見た目に反して頑固なところも、折れない意志の強さも、目的のためなら策略を巡らすところも、お母上を想う優しいところも、全部ね」
熱い眼差しで見つめられ、胸がドキドキする。
今までも「好き」という言葉は軽い感じで何度か言われたことがあったが、こんな真剣に好意を伝えられたのは初めてだ。
しかも外見以外の部分を挙げられた上に「愛してる」と最上位の愛情表現を告げられて嬉しくないわけがない。
「フェリクス様……」
「シェイラは僕のことどう思ってるの? 色仕掛けをして嫌われようとしていた時から変わってない?」
ああ、全部フェリクス様にはお見通しだったのだとそう言われて気がついた。
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……分かった上でフェリクス様は私に付き合ってくれていたのね。道理で逆に翻弄されたわけだわ。
真意を見抜いた相手の前で、慣れない色仕掛けに奮闘していたのかと思うと、なんだか自分が滑稽でまたしても恥ずかしくなってくる。
もうなんだか丸裸にされた気分で、これ以上何かを隠しても無駄な気がした。
……これだけ丸裸になっているのだから、今更私の気持ちを隠してもしょうがないじゃない。それに距離があいてしまった時、ちゃんと誤解を解いていればと私は後悔したはずよ。自分の口で自分の思いをきちんと伝える、それが大事だわ。「次」があると期待するのは愚かだって実感したもの。
まるで自分に言い聞かせるような言葉が頭の中で巡る。
それと同時に母の手紙の一節も蘇ってきた。
――愛する人の存在があればきっとどんな苦労も乗り越えられるとも感じているの。他ならぬ娘がそう私に教えてくれたわ。
そう、もう身の丈に合った平穏な暮らしなんてどうでもいい。
それ以上にフェリクス様が好きで、フェリクス様と一緒にいたいと今の私は思っているのだ。
愛する人のためなら苦労も努力もできる。
母がそうだったように、きっと私も。
……だって私はお母様の娘だもの……!
今までフェリクス様への想いに対して勇気も覚悟も持てなかった私の心が変わった瞬間だった。
「フェリクス様、確かに私は身分の高い男性と関わり合いたくなくて、フェリクス様からも嫌われたいとずっと思っていました。そのために色々仕掛けたのも事実です……その、見抜かれていたのはちょっと想定外ではありましたが」
「……そう。嫌われたい理由は僕の身分だったんだ」
「はい。私は昔から身分違いの恋や結婚は不幸なだけだと思っていて、だからこそ自分の身の丈に合わない方は避けたかったのです。……でも気持ちが変わりました」
「それは……」
「フェリクス様を好きになってしまったからです。今まで願っていた身の丈に合った平穏な暮らしを投げ捨ててもいいと思うほどに。だから今は嫌われたいとは思っていません。……その、今はむしろ好かれたいと思っています」
「シェイラ……!!」
思いの丈をありのままに口にした私に、フェリクス様は再び破顔して、今度は遠慮することなく私をギュッと抱き寄せた。
コートに残る体温に包まれるよりも、やはり本物は桁違いだ。
逞しい胸と力強い腕に抱きしめられて、心の底から湧き上がってくるような安心感を感じ、その心地良さにうっとりする。
「あー可愛い。本当に可愛い。必死で色仕掛けを頑張るシェイラも、嫉妬するシェイラも可愛いかったけど、僕のことを好きだと言うシェイラが一番可愛い。愛しくてたまんないなぁ」
もう離さないと言うように私を抱きしめるフェリクス様の腕にさらに力がこもる。
それに応えるように私もフェリクス様の背中に腕を回してさらに身を寄せた。
「シェイラが僕を想ってくれているのは伝わったよ。すごく嬉しい。ただ、まだ一つ分からないことがあるんだけど、聞いていい?」
「はい。なんですか?」
「なんでこの前泣いたの? 僕に抱きしめられるのは嫌ではなかったんだよね?」
ギルバート様とのことを知られたくない気持ちから一瞬ギクリとしたが、この密着状態ではそれもバレバレだった。
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知られたくはないが、フェリクス様に対して嘘をついたり、隠し事をするつもりはない。
だから私は正直に当時の心境を打ち明けたのだが、それは笑顔だったフェリクス様を一瞬で鬼の形相に変えてしまった。
「フ、フェリクス様……?」
「ああ、ごめん。シェイラに対して怒ってるわけじゃないよ。……ただ、ギルバートにね。さて、どうしてくれようか」
フェリクス様のコバルトブルーの瞳が燃えるような妖しい光を宿している。
これはなんだか大事になってしまいそうな予感がして私は慌ててフェリクス様を止めるように軽く腕を引いた。
「あの、もういいですから。思い出したくもないというか……」
「じゃあ今後はこっちを思い出して」
「えっ? こっちというの……」
問いかけた言葉は途中で途切れてしまった。
なぜならフェリクス様に唇を塞がれたからだ。
柔らかな感触が唇に触れ、驚きと同時に甘いときめきが胸を支配する。
優しくて穏やかで、唇から気持ちが伝わってくるような口づけだ。
全く不快感や気持ち悪さなんてない。
……同じ行為でもギルバート様とは天と地ほどに違う。全く別物だわ。
あれはただの事故。
そしてこれこそが正真正銘の私のファーストキスだと思えた。
「嫌だった?」
「いえ、全然。……嬉しいです」
「良かった。シェイラ、これがシェイラの初めてだからね? 上書きして以前のは記憶から抹消したから」
言い聞かせるようにそう告げたフェリクス様は再び顔を寄せてくる。
今度は私もそっと目を閉じて受け入れた。
重なった唇は、私に甘い幸せをもたらし、心が温かく満たされていく。
だが、しばらくすると変化が訪れた。
触れるだけの優しい口づけから一転し、唇が唇をこじ開けて舌が差し込まれたのだ。
まるで意思のある生き物のようなぬるりとしたものが舌に絡みつく。
「………!」
びっくりして反射的に目を開けてしまった。
フェリクス様の瞳とかち合い、そこに悪戯っぽい光が宿っていることに気がつく。
唇が離れた時、やはりフェリクス様は顔に楽しげな笑顔を浮かべていた。
「ごめんね、びっくりした?」
「し、しました……」
「ふふ、インパクトがあった方が記憶に強く残るかなと思ってね。上書きするためには念には念を入れてみたんだ」
悪戯が成功した子供みたいにフェリクス様は小さく笑う。
そしてその試みは大成功と言っていいだろう。
なぜなら先程の思いがけない濃厚な口づけで私の頭の中はいっぱいだったからだ。
ギルバート様とのことなどもう思い出す隙間すらない。
……もう、相変わらず私はフェリクス様に翻弄されてばかりだわ。フェリクス様は私を驚かす天才ね。
思い返せば、初めて言葉を交わした時も、その後教室に現れた時も、色仕掛けをした時も、デートをした時も、ずっとフェリクス様には手玉に取られてきた。
私の想像を軽く超えた言動をするフェリクス様に振り回されてばかりだ。
……でもそんなところも好きというか、敵わないなぁって思わせられるのよね。
結局のところ、私はフェリクス様に心奪われ、もうすっかり魅了されているのだ。
無敵王子と呼ばれる王太子殿下にではなく、フェリクス様という個人に。
こうして卒業パーティーを間近に控えたこの日、私はフェリクス様と心を通わせ合い、また同時にフェリクス様へ向ける自分の想いの強さを改めて思い知ったのだった。
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エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
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