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11. 憂鬱と優しさ

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「ああ、神崎さん? 倉林です。ちょっとシステムのことで質問があるんだけど、今いいかな?」

美容外科クリニックへ訪問した数日後、私の社用携帯にかかってきた電話は先日お会いした倉林院長だった。

ゆくゆくは引き継ぐと言っても、まだメインの担当者は中津さんだし、同行した私にさっそくかかってくるのは珍しい。

先日もほとんど倉林院長と中津さんの二人で会話をしていて私は加わっていなかったこともあり少し驚いた。

だが、システムについての質問と言われると対応しないわけにはいかない。

オフィスでパソコンに向かっていた私は一旦作業の手を止めて電話に集中する。

「先日はお忙しい中お時間ありがとうございました。ご質問とのことですが、いかがされましたか?」

「顧客登録ページだけど、これは一度削除した人の情報を復元することはできるの?」

「パソコンなどと同じで削除した情報は一度ゴミ箱に入っているので、そこにまだあれば復元は可能です。ただ完全削除をされていましたら復元はできませんので、もう一度登録して頂く必要があります」

「登録時にミスして入力したものを修正したい場合はどうすればいいかな?」

「それでしたら登録情報の編集というボタンを押して頂きましたら修正可能です」

聞かれたことに私はスラスラと答える。

なにしろ初歩中の初歩という質問で、システム導入時に説明するレベルの内容だ。

 ……なんで今更こんな初歩的な質問なんだろう? ここのクリニックがこのシステム使い出してもう結構経ってるはずだよね?

回答しながらそんな疑問が首をもたげる。

「もしかしたら神崎さんは今更なんでこんなこと聞くのかって思ってるかもしれないね。実はしばらく私は診療に集中していてシステム関連はスタッフに任せっきりだったから、つい操作の仕方を忘れてしまってね。ほら、中津さんには今更すぎて聞きづらいでしょ? だから神崎さんにならって思ってね」

そんな私の内心を察知したかのように倉林院長は絶妙なタイミングで説明を加えた。

倉林院長の話を聞いて、メインの担当じゃないからこそ聞きやすいこともあるのかと私も納得する。

確かに中津さんは忙しいし、こういう簡単な質問に答えるだけなら私の方が適役だろう。

経営者である院長は、そういう適材適所な部分を見抜いて私にかけてきたのかもしれない。

「そうなんですね。私でお役に立てるようでしたらお気軽にお申し付けください」

「そう言ってもらえると助かるよ。神崎さんがうちの担当に加わってくれて良かった。また質問させてもらうと思うけどよろしく」

「はい。承知しました」

その日はそれで通話は終了した。

だけどこの日以降、「また質問させてもらうと思うけどよろしく」という言葉通り、倉林院長からは頻繁に電話がかかってくるようになった。

「新規登録の時のことなんだけど――」
「画像を取り込みたい時なんだけど――」
「集計の仕方なんだけど――」

電話の内容はいつもちょっとした初歩的な質問ばかりだった。

こういう些細な対応の積み重ねがきっと信頼関係を築くうえでは大切なのだろうと思った私は、真面目にひとつひとつ丁寧に答えるように心がけた。

頻繁にかかってくるからその度に時間を取られるのがちょっと面倒だなと思うことは正直あったけど、顧客との信頼構築のためだと割り切るしかない。

最初はそんな感じでなんとも思わなかったのだが、次第にちょっと変だなと思い始めた。

というのも、私が質問に真剣に答えても倉林院長は「なるほど」とサラリと相槌を打つだけで、まるで最初から答えなんて求めていないような雰囲気を感じるのだ。

しかもシステムの質問に加えて、私個人への質問が日に日に増えてきているようにも思う。

私の気にしすぎかもしれないが、電話がかかってくるたびにちょっと憂鬱な気分になるようになってきてしまった。

「憂鬱そうな顔してどうかした?」

そんな日々が続き、物思いに耽っていた私はふいに隣から顔を覗き込まれて目を瞬く。

信号待ちで停車した車の運転席から速水さんが助手席に座る私を見ていた。

今、私たちはAGフードサービスに訪問するために社用車で移動しているところだった。

今日はSEの能勢さんと藤沢くんも一緒に訪問して、リニューアル用の試作システムを先方に確認してもらう予定となっている。

能勢さんと藤沢くんは前の予定の都合で私たちとは現地で落ち合う段取りだ。

そのため、今この車内には私と速水さんの2人だけだった。

「もしかして今日は神崎が仕切ることになってるから緊張してる?」

「いえ、大丈夫です。ちょっとボーッとしていただけです。仕事中なのにすみません」

「いや、移動中だからいいけど。疲れてるなら着くまで寝てていいよ」

「さすがに上司に運転してもらっといて隣で呑気に寝られませんよ」

「いつもすぐ寝るくせに」

口元にうっすら笑みを浮かべ、速水さんはからかい口調だ。

速水さんが示唆しているのは週末に過ごしている時のことだろう。

私は速水さんにくっついているとすぐ眠たくなってしまい先に寝てしまいがちだからだ。

普段会社では私たちのこの不思議な関係を匂わせることは一切しない速水さんにしては珍しい発言だった。

たぶん今ここが車の中だからに違いない。

完全な密室で他の人に見られたり、聞かれたりする心配がないから緩んでいるのだと思う。

私も釣られて上司と部下というより、週末の雰囲気で口を開いた。

「だってくっついていたら眠くなるんです。不可抗力なんですよ。もしかして速水さんって人を眠くさせる魔法が使えたりするんですか?」

「魔法? 神崎はまた突拍子もないこと言うなぁ。そんな魔法が使えたとして、あんまり役に立ちそうにないと思うけど。どうせなら他の魔法がいいな」

「どんな魔法が使えたら嬉しいですか?」

「そうだなぁ、例えば何日寝なくても大丈夫な魔法とか? 寝てる時間を他にあてられたら1日に使える時間が増えるしもっと生産性が高くなると思うから」

「その魔法はダメです! それだと添い寝ができなくなっちゃうじゃないですか。私が悲しみます」

「あいかわらず、神崎らしい発言だな。まあ、心配しなくても大丈夫。魔法なんて使えないから」

上司と部下とは思えない子供じみた会話の応酬だが、それがなんだか楽しい。

憂鬱だったこともすっかり忘れて心が晴れていくようだった。

しかしそれもすぐに現実に引き戻される。

スーツのポケットに入れていた携帯が震え出してバイブ音が鳴り出したのだ。

着信元を見て、思わず眉を顰めてしまった。

また倉林院長からだったのだ。

「顧客から? 出ていいよ」

「あ、はい。すみません」

出ないわけにもいかず、私は通話ボタンを押してスマホを耳にあてた。

「はい、フィックスの神崎です」

「ああ、神崎さん。倉林です。いつも悪いね。実は今日は質問ではなくて相談なんだ」

「ご相談ですか? どのようなことでしょう?」

「前にシステムの調子がたまに悪くなるって話したでしょ? また起こっていてね。今日これから実際のシステムを確認しに来てもらえないかな?」

「申し訳ありません。今日は千葉の方へ出ておりましてすぐにお伺いするのは難しいんです。中津がオフィスにいると思いますので向かわせます」

「何時頃に都内に戻ってくる? 前も言った通り、中津さんより神崎さんの方が聞きやすいし相談しやすいから、神崎さんにお願いしたいんだよね」

今まで質問だけだったが、システムの不具合となると早く対応した方がいいだろう。

最初に訪問した時もおっしゃっていたことだから、相当お困りなのかもしれない。

そう判断した私は、今日の自分のスケジュールを手帳で確認した。

「そうですね、夕方5時半頃でよろしければ伺えると思います。もしかすると少し遅れるかもしれませんが」

「それでいいよ。来てくれるなんて本当に助かる。神崎さん、ありがとう」

「では夕方にお伺いさせて頂きます。遅くなりそうでしたらご一報するように致しますね」

通話はそれで終了となり、私は電話を切ってスマホをポケットの中に戻した。

私の電話中、言葉を発さず静かにしてくれていた速水さんがその様子を見て問いかけてくる。

「都内に戻ったあと、急遽顧客を訪問することになったの?」

「はい。システムの調子が悪いみたいで見て欲しいってご要望いただいて」

「神崎を頼って電話してくるなんて信頼されてるじゃないか。神崎はホントに最近頑張ってると思うよ」

そう言って速水さんはハンドルを握っていた片方の手を私の方へ伸ばして来て、ポンポンと頭を軽く撫でてくれた。

その優しい手つきが気持ち良くってつい目を閉じてしまう。

もっと触れてほしい、もっと触れたい……仕事中なのにそんな気持ちが溢れそうになった。

「もしかして寝た?」

「寝てません!」

またからかわれて、私はパッと目を開き速水さんの横顔を見つめる。

整った顔には微笑みが浮かんでいて、改めてこうして見るとホントにカッコいい人だなと思う。

この落ち着いた大人の色気はどこから漂っているのだろうか。

「今日俺は直帰予定だし、夜メシは準備しておくよ。手ぶらで来て」

前を見ながら運転している速水さんが発した言葉は今夜の話だった。

今日は金曜日、週末の始まりだ。

金曜日の仕事終わりに速水さんのマンションに私がお邪魔するのはもうルーティンになりつつある。

「速水さんが作ってくれるんですか?」

「たまには頑張ってる部下を労ってあげようかと思ってね。なにがいい?」

「前に作ってくれたカレーがいいです! あの隠し味がヨーグルトの」

「ああ、あれか。そういえば前も美味そうに食べてたね」

「速水さんが作ってくれるものはなんでも美味しいですけどね。本当になんでもできてスゴイです」

 ……おまけに甘やかすのも上手い。速水さんには敵わないなぁ。

さりげなく優しいし、さりげなく気遣ってくれる。

しかもそれがあわよくばヤリたいというような下心に結びついていない。

なにしろ速水さんは不能でデキナイのだから、何のメリットもないのだ。

だから純粋な親切心からそういう優しさや気遣いをしてくれているわけで、最高の上司であり、理想のハフレ&ソフレだと思う。

AGフードサービスに到着すると、すでに能勢さんと藤沢くんも着いていて、私たちは合流してから担当の三谷さんを受付で呼び出してもらう。

三谷さんに応接室に案内され、今日は三谷さんとその上司の2名に対して提案だ。

今日までの間、電話やメールで三谷さんとはやり取りをして、SEと相談してまとめた提案をすり合わせてきた。

ほぼ仕様が確定したので、それを反映した試作システムを今回持って来ている。

実際に触ってもらって操作性を確認してもらうためだ。

「うん、いいですね。既存のものより圧倒的に見やすいし使いやすいわ」

「確かにこれなら機械に弱い私でも使えそうだ」

「他店舗応援の時の勤怠も対応するようになるから業務効率も上がるだろうし、現場の店長たちにも喜んでもらえると思うわ」

「実際にこのシステムを一番使うのは現場だから、その要望が反映できたのは大きいな」

三谷さんとその上司はシステムを実際に操作しながら揃って満足そうに頷いている。

その様子にSEの能勢さんと藤沢くんも、そして私もホッと胸を撫で下ろした。

試作システムに合格を貰えて、今後はテスト運用ののちに本格導入という流れが決定した。

それらの流れと段取りをすり合わせ、今日の訪問は終了だ。

帰りは社用車に能勢さんと藤沢くんも乗ることになり、私たちは千葉を出発し都内へ向けて走り出す。

運転は藤沢くん、助手席に私、そして後部座席に速水さんと能勢さんという配置だ。

「無事に先方のオッケーをもらえて良かったですね! ひと仕事終えた~って感じがします」

「確かに一山は超えたけど、特にSEはこれからが本番の側面もあるぞ。テスト運用し出してから細かい不具合やバグも見つかるだろうし」

藤沢くんが明るい笑顔で朗らかに述べると、後ろから真面目な能勢さんが諌めるように苦言を呈した。

私としては藤沢くんの解放感に浸る気持ちもよく分かる。

けど、確かに能勢さんの言うことはもっともである。

「藤沢くん、能勢さんの言う通りだよ。最終的に納品になるまでは気を抜かずに頑張ろ!」

「志穂ちゃんまで! 確かにその通りなんですけど、ちょっとくらい喜びを分かち合いましょうよ!」

ワザとらしく嘆く藤沢くんになんとなく皆が笑い、車内の空気が和む。

藤沢くんは同期の中でもそうだけど、ムードメーカー的な役割が得意なのだ。

「まあ、今日は金曜なんだし、週末は喜びと解放感に浸って、また週明けから気を引き締めればいいんじゃない?」

「さすが、速水さん! 俺の気持ちを汲んでくれつつ、仕事に発破はっぱをかけるあたりが絶妙ですね」

小さく笑いながら速水さんが折衷案のような提案をし、それに対して藤沢くんが持ち上げるような台詞を言ってまた笑いが起きた。

そこから流れで話題は週末の話になる。

「皆さんは今週末は何されるんですか? 俺は10月の今しか見れないコスモス畑に行く予定です」

「法務にいる彼女と?」

「そうですよ!」

「能勢さんは彼女さんとどっか行かないんですか?」

「藤沢と似てるけど、俺は紅葉狩りの予定」

お互いに恋人の存在を認識し合っているらしい同じ部署の藤沢くんと能勢さんが言葉を交わす。

それを聞きながら「そういえばこの前若菜がコスモス畑に行くって嬉しそうに話していたなぁ」と私は思い出していた。

あいかわらずこのカップルは仲が良くて羨ましい。

「速水さんは奥様とどこか出掛けたりしないんですか?」

すると藤沢くんは次に話の矛先を速水さんに向けた。

言葉にはちょっと野次馬根性的なニュアンスが含まれている気がする。

速水さんはこういう問いに慣れているのか、実は独身だという真実を悟らせることなく、平然としながら答える。

「いや、家にいる予定だな」

「家でまったりするのもいいですもんね~。そういえば速水さんは今日はこのまま直帰されるんでしたよね? 俺たちは会社戻りますけど、家の近くで下ろしましょうか?」

「できればどこか適当なスーパーにでも下ろしてもらえれば助かるかな」
 
「スーパー、ですか?」

「夜メシの買い出ししたいから」

「え、もしかして速水さんが作るんです? うわ~噂通りの愛妻家なんですね!」

 ……それ、部下を労う用だけどね。愛妻家でもなんでもなく、ただ部下想いなだけなんだよ。

そんな心の声は絶対に口には出せない。

二人の会話を助手席で耳にしながら、なにげなくルームミラーに視線を移すと、後部座席に座る速水さんの姿が見えた。

そして鏡越しに目が合う。

速水さんの口元には少し笑みを浮かんでいて、まるで秘密を楽しんでいるようにさえ見える。

他の人もいるこの空間で、鏡越しとはいえこんなふうに視線が重なったことにドキッとしてしまった私は、急いでパッと視線を外した。

「志穂ちゃんは? 週末どうすんの?」

「えっ? あ、えーっと、家でのんびりかな!」

その時急に今度は話の矛先が私に回ってきて、思わず声が上擦った。

当たり障りなく答えたつもりだったのだが、以前に散々藤沢くんと若菜を前に「羨ましい」発言を連発していたせいか、藤沢くんは私が本当は寂しいのに強がってるように感じたらしい。

「やっぱ今度合コン開こうか?」

「ええっ? ううん、いいよ……!」

「遠慮しなくても、同期として力になりたいし」

「遠慮とかじゃなくて、その、間に合ってるというか……」

「えっ! ついに彼氏できたの⁉︎」

ちょうど赤信号だったこともあり、目を見開き勢いよく藤沢くんがこちらを振り向いた。

 ……変な話の転がり方しちゃってる。つい本音がポロッと出ちゃったけど、間に合ってるとか言うんじゃなかった!

もちろんそれは理想的なハフレ&ソフレを得たからに他ならないのだが、それを口にすることもできず、私は慌てて否定する。

「できてないよ。今は仕事が楽しいから間に合ってるっていう意味ね!」

「ああ、そういうことね。なんだぁ」

ふと後部座席の様子を窺えば、いつの間にか速水さんと能勢さんは二人で話し始めていたようで、こちらの会話は気にしていないようだった。

なんとなく速水さんに聞かれるのは恥ずかしい気がしてちょっとホッとする。

そうこうしているうちに車は都内に到着し、予定通り速水さんだけ先に降りることになった。

都内のどこに行くにもアクセスの良い駅近くのスーパーに停車する。

「俺はこのまま直帰させてもらうよ。会社まで運転気をつけて」

「ありがとうございます」

「神崎はこのあと顧客のところへ訪問だろうけど、もし何かトラブルあれば連絡して」

「あ、はい。分かりました」

「じゃあまた」

速水さんが私に向けた挨拶の文末には、「また」という3文字が隠れていた。

それを解読できるのは私だけだ。

車が再び発進すると、速水さんの姿はどんどん小さくなっていく。

でも数時間後にはまた会える。

今度は上司と部下としてではなく、思いっきりイチャイチャさせてくれるハフレ&ソフレ相手として。

癒しの週末まであともう少しだ。

速水さんのお手製カレーを楽しみに、私は気合を入れ直したのだった。
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