狂い咲く花、散る木犀

伊藤納豆

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9章

158話 産声

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居間で読書に耽る晴柊。昼食を終え、眠気に襲われた晴柊は、活字の列を読み進めるにつれまるで呪文を唱えている様な勘価格となり、座ったまま瞼が落ちてゆく。


うつらうつら、という意識のなか、晴柊の様子を見にきた琳太郎は晴柊の肩をゆすった。


「こら。」

「ん……りんたろー……」

「こんなところで寝たら身体が冷えるだろ。」


晴柊を抱き上げてベッドに運んであげたいところだが、無事臨月を迎えた晴柊の腹は赤子の健やかな成長とともに足元が見えなくなるほど大きくなっており、重さでは抱えることは可能ではあるが危険が伴うため晴柊に歩いてもらうしかないのだった。


「予定日だと、あと1週間だね。」


琳太郎が晴柊の膝にブランケットを掛ける。


「頑張ったな。」

「ふふ、まだだよ。本当の頑張り時はこれからだもん。でも……皆も今まですっごく頑張ってくれた。勿論、琳太郎パパが一番。」


晴柊は琳太郎の書斎に育児本が山積みになっていることを知っている。そして、ベビーベッドやベビー服、おむつなど、赤ちゃんを迎える準備もばっちりだった。あとは、無事、晴柊のお腹から産まれてくることを願うだけ。長いようで短い妊婦生活であった。悪阻に悩まされ身体は重く、辛い時期が続いた。けれど、どれも幸せだと思えるほど、晴柊は嬉しかった。


「チビ、パパだよ~。」


晴柊は大きなおなかを摩る。いつも晴柊は赤子に話しかけている。すると、まるで返事をするように赤ちゃんが晴柊の腹をキックした。胎動だ。


「あ、蹴った。」


琳太郎はすかさず晴柊の腹に耳を当てる。晴柊の腹部がポコポコと動いているのを確認すると、晴柊のお腹に自らの口を近づけ、両手でやまびこをするように声をかける。


「母ちゃんのことあんま困らせないで、元気に出て来いよ。」


実は、2人はこの子の性別をもう知っている。そして、名前も付けていた。もめにもめた名前決めであったが、最後は2人の意見が大一致し無事終息した戦いであった。早く、名前を呼んであげたい。声を上げて泣く我が子が見たい。この子に会いたい。晴柊は赤子に話しかける琳太郎を愛おしそうに眺めた。



約1週間後の夜。その時は来た。


「……あ……」


晴柊がそろそろ寝ようと寝支度をしているときだった。股下がびちゃびちゃと濡れていく。晴柊は漏らしているわけではない。


「る、るいくん!!!」


晴柊は今日の世話約である遊馬を大きな声で呼ぶ。遊馬は直ぐに飛んでやってきた。


「晴柊、どうしたの!?」

「こ、これ……破水、した……」


遊馬は晴柊の下を見る。水が滴る様子を見て、すぐに電話を取り出す。バタバタと屋敷中が騒がしくなった。こんな日に限って琳太郎は急な外仕事が入り、屋敷に居なかった。晴柊は遊馬に連れられ車に乗り込み、すぐに九条の診療所へと向かった。これほどまで緊張しながら安全を心掛け、それでも一刻を争うほど急ぐ運転は初めてだったと、後の遊馬は語ることになるのだった。


九条の病院につくなり、晴柊は息絶え絶えになりながらも手術室へと通される。晴柊には膣がない。そのため、出産は帝王切開を取ることになっていた。九条が遊馬から晴柊を受け取る。


「よし。これから陣痛が来る。直ぐに腹きってガキンチョ取り出すからな。」


九条は晴柊を手術台に寝かせ、手際よく準備を始めた。遊馬は手術室の外のベンチで、唯祈ることしかできなかった。赤く光った「手術中」のランプが、視界に悪くて仕方が無かった。


琳太郎は遊馬から連絡を受け取ると、日下部と共にすぐに診療所に駆け付けた。到着した時には既に遊馬だけがいる状態で、晴柊がいるのであろう手術室を眺めることしかできない。


「晴柊の様子はどうだった。」

「冷静でしたよ。運ばれてきた時点では順調だと、九条先生も。ただ……ここからの安全は保障できないとも。赤子、母体共に。」


それは事前に九条から説明を受けていたことだった。覚悟していた琳太郎ではあったが、やはり落ち着かない。傍にいて手を握っていてやりたい。きっと一番不安なのは晴柊だろうから。


数十分後、榊、篠ケ谷、天童も診療所に到着した。全員が落ち着かない様子でただただ晴柊と子供の帰りを待っていた。1分1秒が、普段よりも長く長く感じた。



手術開始から約1時間。今か今かと、産声が挙がるのを待ち望む一行。中の様子が分からない以上、順調なのか、それとも何か起こったのかと心配する。気の重さからため息が漏れる者、黙って座ってられず廊下を往復する者、じっと地面を見つめる者……各々が自らを必死に落ち着かせる。


「……おい、遅くねえか。」

「そんなことない。予定通りだろ。変に不安を煽ろうとするなよ。」

「はぁ!?別にそんなつもりでいってねーよ!」


痺れを切らした篠ケ谷が不満を漏らすように口にした。すぐに遊馬がそんなはずは無いと返す。こうなるとどんな小さなことでもいがみ合うのがこの2人である。キャンキャンと騒ぎ始める馬鹿2人を止めるように、琳太郎が釘を刺す。


「テメェらうるせえぞ。静かに待ってろ、馬鹿犬が。」


琳太郎はイライラしながら2人を止めた。琳太郎だって気が気じゃないのである。篠ケ谷と遊馬は尻尾をだらんとさせんばかりに反省しているようだった。


「ぷっ。また怒られてやんの。」

「おいトラ。煽るな。」

「うるさいな、トラが一番落ち着きないくせに。」

「はぁ!?さっきからウロチョロしてんのはシノでしょ!?琉生だってらしくもなく貧乏ゆすりしまくってるくせに!うるさいんだよ!」

「ちょっと!貴方達いい加減にしなさい。こんな時まで喧嘩なんてして!」


普段から喧しい側近達だが、全員がその心の不安さから気が立っている様だった。側近たちの上司である日下部遂に口を出す。ぎゃんぎゃんと吠えまくる部下たちに、琳太郎はため息をついた。もう一度説教しようかと琳太郎が凄もうとしたときだった。


《ふ、ふぇ……ほんぎゃあ~~~ほんぎゃあ~~~》


手術室の外にまで響き渡る、確かな産声。全員が一瞬でピタリと静かになる。この扉の向こうで、待ち望んでいた我が子がいる。晴柊の腹から取り上げられ、酸素を必死に取り込み呼吸をして、心臓を動かしている。姿は見えなくても、その力強い泣き声が琳太郎の心を強く動かした。



「産まれた……」


琳太郎は立ち上がり、扉を見つめながら呟いた。まだ姿は見えない。晴柊が無事なのかもわからない。けれど、それでも、我が子の声が琳太郎を奮い立たせる。こんな気持ちは初めてだった。


「晴柊、晴柊は……」


狼狽えるように動揺する遊馬。


「お、落ち着け!」


さっきまでいがみ合っていた篠ケ谷も遊馬を必死に落ち着かせながらも、息を呑むようにして、その場で静かに待つ。


暫くして、赤く光っていた手術中のランプが消えた。扉が開き、出てきたのは九条だった。


「おめでとう。無事、産まれたよ。」


立ちすくむ琳太郎に、九条が声をかけた。手術室を覗くと、晴柊はまだ横たわっている様だった。生まれた我が子は保育器の中にいるのか、あまりよく様子も見えない。


「おい、晴柊はどうなんだ!?」

「大丈夫大丈夫、母親も無事だよ。今から適切に処置するから、もう少し待っとけ。いいな?」


琳太郎は緊張感が一気に抜け落ち、体から力が抜ける感覚になる。良かったと、心底安堵した。手術室に再び戻る九条。早く、我が子に会いたい。琳太郎は期待を胸に膨らませながら、その瞬間を待ち望んでいた。


深夜2時12分。晴柊と琳太郎の子が、無事産まれた。全員が待ち望んでいた瞬間であった。
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