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3章 アラサー女子、ふるさとの祭りに奔走する

3-10 初めてのお泊り ※R

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「地元のあなたが終バスの時刻を知らないはずがない。あなたは、バスは終わってると主張して、僕を誘ったんだ」

 意味がわからない。
 彼と初めて会った時。私は入塾希望の高校生と思った。
 時刻は夜の九時半を過ぎていたはず。彼はバスに乗って帰ると言った。田舎のバス事情を知らない都会の高校生を気の毒に思って、私は送ってあげたのだ。
 彼から少し離れてみる。
「この辺のバスは本当に早く終わるし、一日に一往復しかしない路線もあるのよ。あんな夜遅く走ってるバスなんてないのよ」
 流斗君は自分のスマホを取り出した。
「ほら、これ」
 それは、宇関駅と大学を結ぶバス路線の時刻表だ。

 私が知っているバスの時刻表じゃない。これは都会のバスだ。一時間に三本も走っている。終バスは二十三時。信じられない。
 宇関の町はこんなところも変わったんだ。

「ずっと地元にいるあなたがこんな基本的なこと知らないわけがない。あなたの目的はどうにかして僕を車に乗せることだったんだ」
 はい? 何でそんなぶっ飛んだ推理になる?
「地元だからといって、全部のバスの時刻表まで覚えてないわよ!」
 車社会の宇関では、バスを使うのは運転できない人に限られる。だから、私もいちいちバスの時刻表なんて覚えていない。知らない。知る必要がない。

 彼が項垂れている。自分の推理が外れたことがそれほどショックだったのだろうか?
「いや……信じられない、あなたは車の中で襲ってきた。シートベルトの使い方を教えるといって」
「はい?」
「僕もその手の行為に興味はあるよ。でも、さすがに、車の中で、初対面の女性と初めてするのは、抵抗があった」

『初めて』?

 もし、私が彼の最初の女になれたら……いや、今はそんな場合じゃない。
「僕はちゃんとシートベルトを一人で着けたよ。それで外し方だけわからないなんて、ありえない。そういう口実にして、あなたは目的を達成しようとした」
 シートベルトの外し方を教えただけで、そう勘違いするの?
「だって流斗君ぼーっとしてたし……やだな、私、初めて会った男の子を襲う女と思われてたなんて、ひどいわ」
 笑いながら私は立ち上がった。が、彼は私の手首を引いて床に座らせる。

「まだ誤解があるのかな?」
「すごいアプリを使ってるんでしょ?」
 真智君の企画した合コン、流斗君と話していた時のことだ。求職中の私に彼は大学のバイトを紹介し、私のスマホにサイトのアドレスを登録した。さらに私のスマホを探る彼を止めたくてつい言ってしまった「うそ」

「あの時はカッコつけただけ。本当は大したアプリないわよ!」
 立ち上がってリビングに戻った。流斗君が私を追いかける。
 バッグからスマホを取り出し、トップ画面を見せた。大丈夫。彼に本体を渡さなければ、暗黒皇帝陛下は表示されない。
「もっとちゃんと見せてよ」
「充分見せたわ」彼が私のスマホを奪う前に、私はポーチにしまった。

「まあ、いいよ。新しいパソコンを持ってきた時、データ移行でチェックするから」
 まだ、そのネタ生きてるの?
「データ移行は、私が自分で確認して進めるからいいわ。それより」
 私は彼に向き直った。
「あなたが執着したのは、私が、車の中で男の子を襲う変態女だったからでしょ? そんな誤解や錯覚を元に、こんなことする意味ってあるの?」

 流斗君が眉根を寄せ、悲しそうな顔をしている。少し可哀相な気もしてきた。
「確かに、僕は思い込みと偏見であなたを見ていた。それは本当に悪かった。あなたは、僕の正体も知らず、困った高校生に純粋に親切にしてくれた。だから、バイトクビを覚悟で僕の意志を尊重してくれたんだ」
 そう言われると照れ臭くなる。そこまで純粋とは言えないからだ。
「そこまで善人ではないわ。あの時は、塾生を増やしたいという下心もあったのよ」
 その瞬間、流斗君に手を掴まれ抱きしめらる。

「誤解なのわかったでしょ!」
「たった今、僕のデータは修正した。大したことじゃない。宇宙の年齢が137億歳から138億歳に変わる程度の修正だ」
 データ修正? 宇宙の年齢? いや、女の年だって二十九歳と三十歳では大分違う。
 彼が耳元で囁く。
「ね、あいつに言ったこと、リアルにしようよ」


 今、私は、男の人の部屋のベッドに腰かけている。隣に座る彼が腕を伸ばし、そのまま私は引き寄せられた。
 鼻の頭に瞼、耳たぶなど顔中流斗君に食まれ、喉元に唇が押し付けられる。
「ま、まって……ん、う……」
 溺れるように私は彼の背中にしがみついた。
 どうして? 私が彼の思う女でないとわかったのに、なぜ、こんなことするの?
 手が私の胸に伸びて、まさぐり始める。布越しから伝わる甘い刺激に、私はことばにならない声をもらしてしまう。
 このまま、私、ここでされちゃうの? 逃げるつもりだったのに。でも……止められない。

「那津美さん、どんな風にされたい?」
「そ、そんなのわかんない」
 ベッドに身体を押し付けられた。
「ゲームとかでさ、無理矢理されてるのに、すごい気持ちよくなってるってあるよね」
 何でゲームが出てくるの? やっぱり彼は気がついてる? 私の推しが暗黒皇帝陛下だって。
「那津美さんも、無理矢理されるの好き?」
 な、何でそんなこというの? そんなわけないじゃない!
 シャツの中に彼の手が侵入してきた。
「ばかあああ!」
 反射的に私は彼を突き飛ばし、跳ね起きた。

「あれは別宇宙のことよ! この宇宙で雌の同意なしに交尾する雄なんて、人間しかいないわ!」
 どうして彼ほどの頭脳の持ち主が簡単なことわからない? ミステリーのファンが殺人鬼だとでもいうの?
「他の動物でも無理やり交尾はあるみたいだけど……僕のデータと違うのかな……」
 ベッドから流斗君がのそのそと起き上がった。

「流斗君、言ったじゃない。相対性理論と量子論は全然違うって! それと同じ! 私の脳の中と、この身体は別なの!」
 私が好きな陛下は、私の脳の中だけの話。そこから外の世界は全く別のこと……って、こんな風に力説したら、私がその手のコンテンツを愛しているとカミングアウトしたのも同然じゃない。

「違うよ。全部同じ那津美さんだ。脳も体の一部だ。一つの宇宙で一つの法則だ。相対性理論と量子論がバラバラなのは、まだ僕らが統一する理論を証明できてないからだ」
 彼の大きな瞳が、まっすぐ私を見つめる。

「僕は、いずれ統一理論を証明してみせるよ……だから、それまで待ってて」

 流斗君の指が私の髪を取って唇をよせる。
 同じ宇宙の中にある二つの全く違う理論。それがいつか統一される時。
 それまで待ってて……まるでプロポーズのように聞こえてしまう。
 そんな流斗君がひどく愛おしくなってくる。このまま彼に全てを捧げてしまいたくなる。
 が、彼は立ち上がって、私に背中を見せた。
「じゃ、おやすみ。明日、送るよ」

 流斗君が出ていった。ドアは明日の朝まで開かれることはなかった。



 私は、生まれて初めて好きな男の人の香りに包まれ目が覚めた。たった独りで。
 彼が毎日眠るこのベッド。毛布をぎゅっと抱きしめる。彼にそうしてほしくて。
 私が今着けているのは、インナーとラピスラズリのネックレスだけ。
 服を着たまま寝るのは落ち着かないので、床にシャツとスカートを置いたまま。

 扉を叩く音が聞こえ、私は反射的にベッドにもぐりこんだ。
「那津美さん、起きた? 開けていい?」
「どうぞ」
 流斗君が入ってきた。Tシャツと短パン姿なのが妙に色っぽく見える。
 近づいてきたかと思うと、すぐに彼はそっぽを向いた。
「ご飯、買ったから」

 そそくさと彼は出ていった。私の脱いだ服を見て、恥ずかしくなったんだ。まるで中学生みたいに純情でこちらも恥ずかしくなってくる。
 昨日の彼は何だったんだろう? 私をベッドに押し倒したのは、誰だったの?
 寝ぼけて気がつかないふりして、この姿で彼の前に出て行ったら……どん引きされるのも嫌なので、私は服を着て寝室を出た。

 リビングに置きっぱなしにしたバッグを取りに行く。台所から戻ってきた流斗君と鉢合わせた。
 うつむくと、膝から下の彼の生足が目につき、男性を生々しく感じてしまう。

「顔、洗ってくるね」
 流斗君が洗面台の方を指さしながら「シャワー使ってもいいよ」と言ってくれたが、さすがにそれは遠慮する。
 懐かしい白い石鹸があるので使わせてもらう。タオルは遠慮して自分のハンカチを使った。
 化粧は、ファンデーションとリップに眉でおしまい。外出用の化粧品しかない。化粧水もベースクリームもないので、どうも顔がパッとしない。
 顔を上げると鏡の中の流斗君と目が合った。私はうつむいたまま、彼の元に戻る。

 テーブルには、コンビニで買ったらしいスパゲティーとサラダが置いてある。
「ありがとう」
 昨晩の気まずさを拭い去りたくて私は明るく振舞う。
「流斗君、兄妹で暮らすってどんな感じ?」
「那津美さんは一人っ子なんだっけ?」
「小さい時は、祖父母に父……母もいたわ。家に大人はたくさんいたけど、子どもは私だけだった」

 アップルジュースをいただいた。本当に爽やかな朝だ。
「家はガチャガチャして落ち着かないから、僕はすぐ図書館に逃げてた。親は家のこと全然してくれないから、そのうち僕がご飯炊いたり掃除するようになったよ。弟と妹は小さいから全然手伝わないし邪魔する。まあたまに遊ぶけど」
「いいなあ。可愛いだろうね」

 弟と妹。
 父はいなくなった母を恨んでいた。が、結局再婚しなかった。父の血を引く子どもは、この宇宙でも別の宇宙でも私だけだろう。
 もう一つの可能性は、私には関係ない。小さな弟や妹と遊んであげる。そんなこと望んだことはないし、今から望んでも無理なこと。

「勉強は教えないの? 流斗先生ならすごい授業になるでしょ?」
「宿題は手伝った。僕はちゃんと教えたいのに『答えだけ教えろ』って言うからがっかりだ。それじゃ意味ないのに」
 私も前の仕事、塾の指導で「答えだけ教えて」と言う子どもたちをいかに宥めて教えるか、苦労した。
「研究室の学生の方がずっといいよ」
 流斗君の家では、彼が突出しているようだ。


 そのまま、アパートまで送ってもらった。車が駐車場に到着する。
 シートベルトを外した私の手を、彼が抑えた。
「祭りの会場まで送ろうと思ったけど、やめておく」
「いいのよ。まだ時間あるし。送ってくれてありがとう」
「僕に何が足りないのかな?」

 彼の大きな丸い目が寂しそうだ。
 彼女がいるのに、私が飲んだ空き缶を取っておいた彼。荒本さんに挑発された彼。強引に私を手に入れようとした妖怪じみた彼。
 大学人事に私を推薦した彼。ラピズラズリを買ってくれた彼。私が受けたパワハラに怒ってくれた彼。
 ああ、みんな全部、流斗君なんだ。
 相対性理論と量子論が一つの宇宙の中にあるように。

「少しだけ時間ある? 渡したいものがあるの」
 私が車を降りると、彼も着いてきた。アパートの部屋の扉を開けると、彼も中に入ろうとする。
「ごめん、部屋、散らかってるから、そこで待ってて」
 つまらなそうな顔をする流斗君。私は、彼を玄関に待たせたまま、部屋に入った。
 小物類を収めたケースを開け、私は一枚のハンカチを取り出し、彼の元に戻った。
「あの……空き缶取っておくぐらいなら、これ持ってて」

 何ということもない一枚の白いハンカチだ。隅に、N・Mという文字がが刺繍されている。
「へー、ああ、これ、那津美さんの名前か」
「あまり上手く刺繍できなかった。練習でやってみただけだけ。何か、捨てるのも使うのももったいなくて」
 我ながら恥ずかしい。取り合えず渡せるのは、こんなものしかない。
「どうせなら、使用済みの下着とかがいいなあ」
「ばか! セクハラ准教授」
 笑いながら彼がぎゅっと抱きしめてくる。

「私の誕生日、うちに来てくれる?」
 これまでとは違う誕生日。半年前の予想とはだいぶ違ったプラン。
「パソコン持ってくるから」
 耳元では呟くような彼の声。

 別れ際、彼が白いハンカチに唇を寄せた。私はそのハンカチになりたかった。
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