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6 主人公は、あっさりワナにはまる

(40)不吉な予感のスパルタ

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 魔女キルケから身の上話を聞かされ、パリスは大いに同情した。
 寂しい魔女を一晩でも慰めたい。あくまでも純粋な同情で義侠心で奉仕の精神から生まれた行動だ。
 アカイアに来てから女の子とご無沙汰だし、異国の年増の魔女と仲良くするのも楽しそうだ、という汚れた下心は、一切ない!

 しかし、パリスの崇高な使命を邪魔する不届き者がいた。
 邪魔者の叫びを耳にした途端、目の前に不気味な亀が現れパリスの身体は硬直する。
 瞬き二回ほどの時間が経ち、パリスは我に返った。

「あ、あれ、ゼノン君、どしたの?」

 パリスとキルケの間でおとなしくしていた子供が、いつの間にかキルケの傍に立ち、亀の像を袋から出して突き付けていた。

「いじめ、ダメ!」

 パリスはすっかりゼノンの存在を忘れていた。彼は子供の目の前で女を口説こうとしていたのだ。

「ゼノン君、いじめじゃないよ。僕はキルケさんと仲良くしたかっただけ。君だって可愛い女の子と仲良くしたいとか、フワフワの髪の毛に触ってみたいとかあるよね?」

「おばちゃんをいじめるな!」

「うーん、まだ早いか。あと五年もすればわかるのに。ねえ、キルケさん」

 寂しい魔女に同意を求めようと顔を向けるが、キルケはパリスに目もくれずゼノンの頭をなでている。

「この子はあなたの弟ですか? それにしては似ていませんね」

「そういえばゼノン君のこと、ちゃんと話していなかったね」

 若者は、手短に子供との出会いを説明する。手短もなにも、身寄りのないひとりぼっちの子を連れてきた以上に話せることはない。

「ゼノンには、家族がいないのですね」

「宿に泊まった時も聞いたけど、この子を知ってる人はいなかった。だから、ここの王様にお願いするつもりで連れてきたんだ」

 パリスは、魔女との仲を邪魔した子供を疎ましく思ったが、子供の前で女を口説くのは教育上の配慮に欠けていた、と考え直す。
 チャンスは今夜だ。自分とゼノンは同じ部屋に泊まるだろう。が、子供はすぐ眠るから、そのあとキルケの部屋を訪ねればいい。

 パリスが今夜の素晴らしいプランを練っていると、キルケにじっと見つめられた。
 魔女の視線に気付いたパリスは、キルケに微笑みかける。彼女は自分の熱い情熱に気がつき応えてくれるようだ。パリスの微笑は、だらしないにやけ顔に崩れてきた。

「この子は本物です。私とは違います」

 キルケはゼノンの身体を持ち上げ、膝の上に乗せた。子供は魔女の腕の中で、おとなしく亀を抱えている。
 どうもパリスが期待する展開とは違うようだ。

「本物?」

「私は、この国にない薬草を持っていたから、魔女と呼ばれるようになっただけです。でもこの子には、本当の力があります」

 キルケは身をかがめ、ゼノンのつむじに自分の顎をそっと乗せた。

「パリス、あなたも先ほどゼノンの魔法を感じたはずです」

「魔法? さっきは、ゼノン君がいきなり亀を見せるからびっくりしたんだ」

「いえ、あなたは驚いたのではなく、動けなくなったのです」

「あ、いや……」

 キルケに指摘されると、そのような気もしてくる。驚きの感情が沸く前に、動きを強制的に止められたようだった。
 不気味な亀の像を抱え、道端でポツンと泣いていた子供……ゼノンはただの捨て子ではなさそうだ。神の使いか化身なのか?
 パリスが首を捻っている間に、魔女は膝の上の子供に語りかけた。

「ゼノン。今夜はこの老婆と同じ部屋で話をしませんか?」

「え、ちょ、ちょっと待ってよ! ゼノン君だって、知らないお姉さんと一緒じゃ緊張しちゃうよね?」

 魔女の思わぬ提案に、パリスは抗議する。キルケがゼノンと同室に泊まったら、素晴らしいプランがぶち壊しではないか。

「いいよ、おばちゃん」

 ゼノンは魔女の膝の上でニコニコ笑っている。本人が喜んでいる以上、パリスに止める理由はない。

「わかった。でもねゼノン君、君も男なんだから、これだけは気をつけるんだよ」

 パリスは子供の頬を包み込み、額をくっつけた。

「おばちゃんじゃない、お姉さんって言うんだよ」


 パリスは今夜の素晴らしい計画を、明日以降に延期することとした。
 キルケは王に用があるのかアウリスまで行くという。パリスも、アキレウスに会いたいゼノンをアウリスへ連れて行くつもりだ。その前にスエシュドスと合流するから、子供と魔女と老人を連れた四人旅となる。
 うん、魔女と仲良くする機会はいくらでもある。

 ここでようやくオイノネの寂しげな笑顔を思い出した。一応結婚は断ったし、待ってとも言わなかったし、それでも今まで女の子と遊ばなかったから、年上の魔女と仲良くするぐらい、全然問題ないだろう、とパリスは自分に言い聞かせる。
 若者がモヤモヤしているところ「お話し中ですが、よろしいですか?」と、外から女が呼びかけた。美しく澄んだ声に聞き覚えがあった。

「ガイアさん!」

 王女の乳母が、二人の侍女と共に、ご馳走を青銅の盆に載せて入ってきた。ガイアは粗末な身なりに似つかわしくないネックレスを身につけている。磨いた貝殻を金の鎖で繋げた豪華な装飾品だ。
 侍女たちが、テーブルにチーズやパンに果物を並べる。

「パリス様、キルケと仲良さそうですね」

 色白の太めな乳母に笑いかけられた。
 げっ! パリスの額に汗が流れる。年増の魔女を口説いているシーンを、ばっちり目撃されたらしい。

「キルケさんはがんばってる人だからね……」

「ええ、私もキルケの薬の世話になっています」

「薬? ガイアさん病気なの? 元気そうだけどなあ」

 王女の乳母の肌は白く輝き健康そのものに見える。乳母はパリスの問いに答えず、キルケに近づいた。

「キルケ、薬、持ってきたんでしょう? もうすぐ切れてしまうわ」

「メネラオス様にお持ちします」

「言ったでしょ! 王様はアウリスにいるの! これで払うから、すぐ置いていって!」

 ガイアは貝殻のネックレスを外して、キルケに持たせた。
 パリスは、こんなに切羽詰まった乳母を始めて見た。ふくよかでおっとりしていて、酔うと妙な色気で迫ってくる寂しげな中年女。
 彼女に高飛車なイメージはなかったので、パリスはいささか混乱した。

 ここは逃げた方がいいなと察し、ゼノンをキルケの膝から下ろして、客間の隅に移った。
 遠くから女二人のやり取りをチラチラと観察する。
 魔女は、乳母に貝殻の装飾品を返した。

「こんな豪華な首飾りはいただけません……わかりました。アウリスでメネラオス様に伝えます」

 キルケは、籠を覆う黒い布を取り払い、ゴソゴソと中をあさった。両手に乗せられる蓋つきの小さな壺をテーブルに置いた。
 ガイアは飛びつくように蓋を開け、白い指を器に差し入れた。指には小さな白い結晶の粒々がこびりついている。乳母は指をペロッと舐めて、恍惚の表情を浮かべた。

「ああ、これよこれ。これで私は生きていけるわ。ありがとうキルケ」

 ガイアは満面の笑みで、小さな壺を抱きしめる。

「キルケ、この薬を王宮の庭で栽培できないのかしら? あなたには充分お礼をするつもりよ」

 魔女は俯いて首を振った。

「その薬は、ここから遥か南、私の故郷から持ち出しました。今私が暮らす島は湯が湧き出る暖かい土地なのでサルカラを育てられますが、ここでは難しいでしょう」

「そう、残念ね」

 落ち込むガイアが気にかかり、パリスはゼノンの手を引いて近づいた。

「ガイアさん、その薬って……」

 パリスは問いの答えを得られなかった。サンダルをバタバタ鳴らして飛び込んできた若者が、パリスの問いかけを阻止したから。

「失礼します! ガイア様。クレタ王の使者がお越しです!」

「そうですか……メネラオス様の不在はお伝えしましたか?」

「はい。使者はヘルミオネ様にお目にかかりたいとのことです」

「いよいよ時が来たのですね」

 ガイアはパリスに頭を垂れる。

「充分なおもてなしができず申し訳ございません。ひとまず失礼します。では後ほど」

 乳母は、伝令の若者と侍女たちを従えて、さっそうと出ていった。
 ガイアの堂々たる姿にパリスはまた違和感を覚えつつも、クレタという地名が気になった。クレタは怪物ミノタウロスが生まれた国だ。嫌な予感がする。


 その夜、パリスは一人で王宮の客間に泊まった。キルケは希望通り、ゼノンと同じ部屋だ。
 キルケとゼノンのことも気になるが、それよりヘルミオネが心配だ。夜が更けても寝つけない。

 部屋の入り口を、ほのかな灯りが照らす。パリスはゆっくり体を起こした。

「誰かな?」

 大小のシルエットが浮かんでいる。小さいシルエットが近づいて、パリスの腰に抱きついてきた。

「ヘルミオネ?」

 暗くてもわかる。パリスに踊りを見せてくれた愛らしい王女に間違いない。

「パリス! 今すぐ私を外に連れてって!」

 嫌な予感が的中した。
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