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6 主人公は、あっさりワナにはまる

(37)不思議な子供ゼノン

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 パリスとゼノンは、村長の家に案内された。奥の土間に丸太のテーブルと長椅子が置かれている。
 二人は長椅子に並んで腰掛ける。長の妻がパンをテーブルに並べた。
 土間には、主人夫婦の子供たちが押しかけて、パリスとゼノンにまとわりつく。女が子供らに「お客さんの邪魔するんじゃないよ!」と一喝した。年長の娘が弟妹を引っ張って出ていく。すぐさま壁の向こうで喧騒が始まった。


「俺はアゲロス、こいつはセレアだ。狭い家だが、泊ってきな」

 村長は、自分と女を交互に指さした。
 パリスは、この迷子の保護者を探していると説明する。

「この辺じゃ見ないガキだなあ。親に捨てられたんじゃないか」

 予想通りの答えだった。パリスは「じゃあ、この子はどうなっちゃうのかな? かわいそうに」と呟き、上目遣いで主人夫婦を見つめる。

「あ、あのさあ、その子だけどよかったら、うちで……」

 セレアがおずおずと切り出した。若者は目を輝かせる。
 が、アゲロスは妻の肩をぐっと掴み、悲し気に首を振った。

「すまねえな。俺たちは自分らのガキで手いっぱいなんだ。女房も王様に小麦を届けるため、働きづめなんだ」

「悪いね……そうだ。スパルタの王様にお願いしなよ。あんだけ大きな城だ。何とかしてくれるよ」

 ここから二日歩けばスパルタに着く。前にも通ったから知っているが、道は整備されている。子連れの旅もなんとかなるだろう。

「パリスさんよお、スパルタの王様はいい人だ。俺たちの村のこと心配してくれる」

 妻も夫に同意する。
 パリスは王メネラオスとの出会いを思い出した。かの王は、酔っぱらった乳母ガイアを自ら解放して連れていった。乳母を叱り飛ばすことなく面倒を見ていた。
 いい人なのかもしれない……いや、いい人が、娘を怪物と結婚させるだろうか?

「さっき、あたしがあんたに突っかかったのも、城の偉い人が教えてくれたんだよ。トロイアの王子に気をつけろって」

「だから、それ誤解です!」

 セレアは「もうわかってるよ」と笑うが、アゲロスは「あんたはいい人でもお仲間はどうかな?」と切り返す。

「スエシュドスおじいちゃんだって、そんなことしないよ」

「俺が聞いた話だが、隣の村長の女奴隷が船乗りの男に口説かれトロイアに行ったらしいぞ」

 パリスは考え込む。それは大いにあり得ることだ。一人で異国に渡るより女連れの方が何百倍も楽しいのは、よーくわかる。

「ごめんなさい。今度会ったら注意しておくね」

「気にすんな。まあ今夜は飲んで、ゆっくりしてくんな」

 アゲロスはパリスの肩をバンバン叩き、ワインを注いだ。


 日が落ちる前に、セレアはゼノンの身体を水で濡らした布で拭い、洗いたての子供服に着替えさせた。
 パリスは土間に敷かれた藁に体を横たえた。と、子供たちが押し掛けてワイノワイノ大騒ぎだ。
 一方夫婦は別室で声を潜める。

「なあ、あの子、うちの子にできないかい?」

 が、妻の懇願を夫は拒絶した。

「だめだ! パリスさんはいい人だが、あのガキは普通じゃない」

「スパルタの王様がちゃんと面倒見てくれればいいけど心配だよ。あんな小さい子を捨てるなんて、ひどい親だよね」

「同情は止せ。俺、パリスさんを殴るつもりだったが、あのガキが不気味な亀を見せた途端……動けなくなったんだよ」

「そりゃそうだろ。子供には勝てないよ」

 女はクスクス笑う。

「そんなんじゃねえよ。一瞬だが、体が止まっちまった。あんな亀の置物、見たことねえ」

「でも」とセレアは食い下がるが、アゲロスは「いい加減にしろ」と睨み付けた。


 翌朝、パリスはゼノンと共に、村長の子供たちと追いかけっこをして遊んだ。
 楽しい時はあっという間に過ぎる。日が高く昇り、別れの時がやってきた。
 セレアは、パリスたちのために二日分のパンとチーズを用意した。ゼノンの汚い服を洗って乾かした。
 一家総出で、パリスとゼノンの旅立ちを見送る。
 女がゼノンの前にしゃがみ、「これ使いなよ」と、帯のついた小さな麻袋を手渡した。

「あんたの大事な亀さんにどうだい?」

 ゼノンは顔を輝かせ、小さな麻袋に亀の像を入れる。袋の縁の紐を縛ると亀はすっぽり収まった。セレアは袋の帯を子供の首にかけてやった。

「ゼノン君、よかったね! ありがとうございます」

 パリスは子供の背中をさする。ゼノンはボソッと「ありがとう」と呟いた。


 パリスは子供の脚に合わせ、ゆっくり進んだ。ゼノンは不満をこぼすことなく黙々と歩く。時々パリスが「疲れたよね? ほら」としゃがみ背中を差し出しおぶさるよう促すが、ゼノンは受け入れず自分の脚で歩み続けた。

 スパルタまでの道中に、大きなトラブルはなかった。王宮近くの町で、二人は詮索されることなく部屋を借りられた。翌日にはスパルタに着くだろう。

「ゼノン君、スパルタの王様が助けてくれるよ」

 宿の寝床でパリスは子供の頭をなでた。
 ゼノンは、袋から亀を取り出し抱えていた。

「スパルタ?」

「うん、スパルタのメネラオス王。あ、知らないよね」

 子供は寝床でピョコンと起き上がる、

「知ってる! アガメムノンの弟!」

「すごいねえ。ゼノン君、頭いいなあ」

 子供は興奮し、亀をブンブン振り回す。

「そうだ! 僕、アキレウスに会いたかったんだ!」

「え!」

 その名は、未来人トリファントスから聞かされている。トロイアとアカイアの戦争で、ヘクトルを倒す者として。
 よりによって僕らの敵なのにとパリスは顔をしかめる。
 ゼノンの興奮は止まらない。

「えーと、ここではアカイア、でいいんだっけ? アキレウスはね、ア、アカイアで一番足が速いんだ」

 無邪気な子供の笑顔に、パリスは己を恥じた。
 この子にとって、将来あるかもしれないトロイアとアカイアの戦争など関係ない。アカイアの子にとって、彼は憧れの英雄なのだろう。

「そうか。僕はアキレウスがどこにいるか知らないから、スパルタに着いたら王様に聞いてみるね」

「やったー!」

 ゼノンは、亀を高く掲げた。

「亀さん、亀さん! アキレウスに会えるよ!」

 アキレウスはヘクトルを倒すかもしれない。が、この子が憧れる英雄であってほしい、ともパリスは願った。


 アキレウスと亀といえば、あるパラドックスが有名だ。
 ギリシャ一の俊足アキレウスが前をのそのそ歩く亀に永遠に追い付けないという、アレだ。

 亀の後ろでアキレウスが走っている。あっという間にアキレウスは亀のいた場所に到着する。しかしアキレウスが走る間、亀もわずかに進む。またアキレウスは亀のいた地点に着く。その間も亀はほんの少しだが進む。
 この追い駆けっこが無限に繰り返されるため、アキレウスは前を進む亀に永遠に追いつけないのだ。

 そんなばかな、である。実際アキレウスは、あっという間に亀を追い越すのに。
 なお体育の通信簿1の造物主は、アキレウスではなく普通のクラスメートたちに、何度も何度も追い越された。今も通勤中、毎日誰かしらに追い越される。
 この話はどこかおかしい。が、造物主はこの問題を自力で解くことはできなかった。
 ややっこしいパラドックスの話はひとまずこの辺にして、パリスたちの旅物語に戻ろう。
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