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6 主人公は、あっさりワナにはまる

(26)ここにも神の子がひとり

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「トリファントスさん、大丈夫ですって」

 アイネイアスがブランケットに包まる中年男を宥めている。

「そうですよね。アポロン様が本気なら、俺は神様の矢に射られて、とっくにハデス様の元で、裁きを受けてますよね」

 アイネイアスの励ましに力を得たトリファントスは、ようやくブランケットから抜け出した。そして、自分の監視役である青年の顔をじっと見つめる。
 彼はトロイアの王族だが、プリアモスの息子ではない。しかし後に、ローマ建国の祖となる。そもそも彼の生まれからして普通ではない。
 アイネイアスは、女神の子と伝えられている。

――アポロン様の子を授かりたい

 頬を染めるカッサンドラの顔を瞼に浮かべた。ついトリファントスは、トロイアの英雄に尋ねた。

「あの……アイネイアスさんのお袋さんって……」

「僕の母? トリファントスさんまで、そんなことを聞くんですね」

 聞いたことのない低い声が、中年男の心に突き刺さった。英雄の顔から笑いが消えた。自分も王女から親のことを聞かれ激昂したばかりなのに、同じミスをやらかしたのだ。

「すいません、アイネイアスさん! 俺、また変なこと言っちまった……」

 トロイアに転移し、十回以上は呟いた言葉。
 未来人が泣きそうな顔を見せたからか、アイネイアスはハッと目を丸くし、口をパクパクさせた。

「トリファントスさん、すみません……あなたに悪気はないのに……」

 中年男は顔を背けた。

「あなたは知っていますよね。僕の母は、女神アフロディテ様と……父から聞いています」

 トリファントスは静かに頷いた。彼の母の名は、ローマ帝国市民なら誰でも知っている。
 アイネイアスは、寂しげな眼で微笑み大きく頷いた。

「僕が女神様の子なんて、信じられませんよね……僕も、信じていませんから」

 トリファントスは「そんなことないです」と慌てて両手を振り回すが、トロイアの英雄は首を傾け静かに笑い、自らの出生を語リ始めた。


「父アンキセスは、結婚して娘が――僕の姉です――産まれたのですが、息子に恵まれませんでした。跡継ぎの男子が欲しい父は、山奥の小さなアフロディテ様の神殿にひとりで出かけて祈願したんです」

 その夜、神殿に泊まったアンキセスの元に、美しい巫女が「アフロディテ様が命じました」と言って忍び込んできた。アンキセスは巫女と一夜を過ごす。
 翌日、アンキセスは帰ったが、巫女は子を身ごもる。神殿で産まれた男子は、アイネイアスと名付けられた。子供は、女たちに「お前は女神様の子だ」と言い聞かされ、鍛えられて育った。

 十年経ち、アイネイアスは、産みの母の手でアンキセスの屋敷に連れていかれる。
 少年アイネイアスは、そこで初めて知った。父がトロイアの王族であることを。


「トリファントスさん! 泣かないでください」

 英雄の思わぬ告白には、涙を流すしかない。神の子とはどういう事情なのか? 浅はかな好奇心を持った自分が恥ずかしい。

「アイネイアスさん、すんません……」

「いいんです、トリファントスさん。これじゃ、僕が女神様の子なんて言っても、信じられませんよね」

 トリファントスは曖昧な表情を浮かべて、目を逸らす。
 英雄は大きく息を吐いた。

「それどころか……僕が、父アンキセスの血を引いているか、怪しいもんです」

 未来人は口を開け、しばらく硬直する。

「な、何言ってるんすか! そんなわけないって! あ、あんたは……」

 だって、これからローマを建国するんだから……と言いかけて、口をつぐむ。

「僕を産んだ人は、神殿を訪ねた男をそうやって相手したんでしょう。そしてトロイア王族の男に僕を押し付けた……息子が欲しかった父にも都合よかった……」

「アイネイアスさん!! それ違うって!」

 トリファントスが、英雄をどう慰めようかと思いあぐねているうちに、使用人の若い男が入ってきた。

「アイネイアス様、こちらでしたか。ヘクトル様が至急とのことで」

 英雄は細い目を一層細めて笑った。

「トリファントスさん、気にしなくていいですよ。ヘクトル兄さんに呼ばれたからには、すぐ行かないとね」

 アイネイアスは微笑をキープしたまま去っていった。
 中年男は、「女神の子」の告白の前に、呆然と立ち尽くすしかなかった。
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