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6 主人公は、あっさりワナにはまる
(16)アポロンの花嫁
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朝、南のイデ山に現れた群雲はあっという間にトロイアの町に達し、豪雨を叩きつける。
雷が轟く中、アポロンの神殿でトロイア王女カッサンドラは跪き、麗しい神像に祈りを捧げた。
「愛しいアポロン様。お母様にアンドロマケ義姉様、そして妹たちが、天を恐れております。どうか声をお聞かせください」
祈りのさなか、カッサンドラは天に昇る心地を覚える。神殿の天井をすり抜け、どこまでも飛んでいく。
固くつむっていた目をパッと開いた。神殿の大きな柱も磨かれた床も、王女の目に映らない。四方は、白い靄にとり囲まれている。
カッサンドラの頬が喜びで赤く染まる。白い靄は、愛しい人の訪れを示しているから。
靄の一点から光が放たれ、眩しい美青年が姿を現した。
黄金に煌めく巻き毛に、輝く金の瞳。
「アポロン様! お待ちしていました」
カッサンドラは太陽の神に駆け寄り、引き締まった胸に顔をうずめた。
「かわいい私のカッサンドラよ」
トロイアの守護神は、王女のほっそりした身体を抱きしめる。
「アポロン様、私は、あなたの美しい声を聞くためだけに生きています」
「私の声を聞くのは、このトロイアにおいて……もうお前だけだ」
「嬉しいこと! あなた様の声を他の女に聞かせたくありませんもの」
カッサンドラは恍惚の表情を浮かべる。美しい神を独り占めできる喜びに。
「お前は嬉しいのか? この地に人が現れたころは、みな、私の声を聞いたというのに、今では、トロイア王プリアモスにも跡を継ぐヘクトルにも、声は届かない」
王女は自分の子供じみた独占欲を恥じ、顔を赤らめた。
「申し訳もありません、アポロン様」
「恥じることではない。これは私の力が衰えてきたからだ」
アポロンはトロイア誕生から、この地の神であった。アポロンの恵みである印を授かった者はトロイア王として君臨した。この神は、彼らの前に姿を現し導いた。
しかし、それは昔のこと。
「衰え? アポロン様はこんなに美しく力強い方なのに? それにアポロン様は、トロイアだけの神様ではありません。アカイアの者も、アポロン様を慕っております……私は、アカイア人らにアポロン様へ近づいて欲しくないのですが」
異国人嫌いのカッサンドラは、口を尖らせた。一方太陽神は、寂しげに微笑む。
「皮肉なことだ。私を祀る者が増えれば増えるほど、私の声は届かなくなる。それもこれも……」
アポロンは、美しい顔を崩して怒りを露わにする。
「すべてゼウスの仕業だ!」
王女は息を呑み、身を固くした。愛おしいアポロンがなぜゼウスに怒りをぶつけるのか、理解できない。
「アポロン様、そんな、ゼウス様は神々の王なのに」
「もはや、お前ですらあのゼウスを神の王と呼ぶのだな」
カッサンドラは首を傾げた。ゼウスが神々の王であることに、間違いないのだから。
「私はアカイアの者を好いてはおりませんが、あの者たちにも神が必要です。ですから、ゼウス様は、アカイアやトロイアそれぞれの神の王なのではありませんか」
アポロンは金色の眼を寂しげに細めた。
「では、私に、ゼウスに跪けと?」
「そんなことは、いけません! アポロン様は特別です。私にとってもトロイアの民にとっても」
広い世界はトロイア人だけのものではない。海の向こうのアカイア人は腹立たしいが、東の帝国ヒッタイトにはるか南のエジプト、最近はヘブライ人という変わった人々もいると聞く。
彼らには彼らの神がいる。それらの神にゼウスが君臨している。それは正しいのだろう。
しかしトロイア人にとってアポロンは別格だ。ゼウスと比べるとかゼウスの下に置くという存在ではない。輝ける太陽神の腕の中、カッサンドラは自身の心を量りかね、もどかしくなる。
「カッサンドラ、私はお前を困らせたくない。さあ、この雷を止めてみせよう」
白い靄はたちまち消えた。二人の足元はるか下に、トロイアの町が広がっている。
カッサンドラがアポロンと心を通わすようになってから、何度も見た光景。が、何度見ても見慣れず、王女は目を瞑りアポロンの首にしがみ付く。
「案ずるな。お前は夢の中だ。その身はわが神殿にあるのだから」
「わ、わかっています。それでも怖いの……離さないで」
「私の声を聞く唯一の女人を、私が離すはずないだろう?」
アポロンは、カッサンドラを抱きかかえ、雨降りしきる雲を超える。アポロン自身の力で輝く青空の中に、二人はあった。
王女は恐る恐る目を開く。はるか下の群雲の中から、ときおりイデの山頂が顔を出す。
「あの恐ろしい雲は、イデの山から湧き出でているようです。ゼウス様の怒りなのでしょうか?」
アポロンはカッサンドラの疑問に応えず、群雲が発する渦の中に入り、イデの山頂に降り立った。
山頂は雲の中とは信じられないほど白く眩しく輝き、温かい。
頂きに、筋骨隆々とした男が立っていた。長くうねる黒髪をたなびかせ、長い三叉の矛を握りしめている。
「アポロンじゃねーか。なーに怒ってんだ?」
太陽神は、のんきな声の男を憎々し気に、にらみつける。
「ポセイドン、よく私の前に顔を出せたな!」
雷が轟く中、アポロンの神殿でトロイア王女カッサンドラは跪き、麗しい神像に祈りを捧げた。
「愛しいアポロン様。お母様にアンドロマケ義姉様、そして妹たちが、天を恐れております。どうか声をお聞かせください」
祈りのさなか、カッサンドラは天に昇る心地を覚える。神殿の天井をすり抜け、どこまでも飛んでいく。
固くつむっていた目をパッと開いた。神殿の大きな柱も磨かれた床も、王女の目に映らない。四方は、白い靄にとり囲まれている。
カッサンドラの頬が喜びで赤く染まる。白い靄は、愛しい人の訪れを示しているから。
靄の一点から光が放たれ、眩しい美青年が姿を現した。
黄金に煌めく巻き毛に、輝く金の瞳。
「アポロン様! お待ちしていました」
カッサンドラは太陽の神に駆け寄り、引き締まった胸に顔をうずめた。
「かわいい私のカッサンドラよ」
トロイアの守護神は、王女のほっそりした身体を抱きしめる。
「アポロン様、私は、あなたの美しい声を聞くためだけに生きています」
「私の声を聞くのは、このトロイアにおいて……もうお前だけだ」
「嬉しいこと! あなた様の声を他の女に聞かせたくありませんもの」
カッサンドラは恍惚の表情を浮かべる。美しい神を独り占めできる喜びに。
「お前は嬉しいのか? この地に人が現れたころは、みな、私の声を聞いたというのに、今では、トロイア王プリアモスにも跡を継ぐヘクトルにも、声は届かない」
王女は自分の子供じみた独占欲を恥じ、顔を赤らめた。
「申し訳もありません、アポロン様」
「恥じることではない。これは私の力が衰えてきたからだ」
アポロンはトロイア誕生から、この地の神であった。アポロンの恵みである印を授かった者はトロイア王として君臨した。この神は、彼らの前に姿を現し導いた。
しかし、それは昔のこと。
「衰え? アポロン様はこんなに美しく力強い方なのに? それにアポロン様は、トロイアだけの神様ではありません。アカイアの者も、アポロン様を慕っております……私は、アカイア人らにアポロン様へ近づいて欲しくないのですが」
異国人嫌いのカッサンドラは、口を尖らせた。一方太陽神は、寂しげに微笑む。
「皮肉なことだ。私を祀る者が増えれば増えるほど、私の声は届かなくなる。それもこれも……」
アポロンは、美しい顔を崩して怒りを露わにする。
「すべてゼウスの仕業だ!」
王女は息を呑み、身を固くした。愛おしいアポロンがなぜゼウスに怒りをぶつけるのか、理解できない。
「アポロン様、そんな、ゼウス様は神々の王なのに」
「もはや、お前ですらあのゼウスを神の王と呼ぶのだな」
カッサンドラは首を傾げた。ゼウスが神々の王であることに、間違いないのだから。
「私はアカイアの者を好いてはおりませんが、あの者たちにも神が必要です。ですから、ゼウス様は、アカイアやトロイアそれぞれの神の王なのではありませんか」
アポロンは金色の眼を寂しげに細めた。
「では、私に、ゼウスに跪けと?」
「そんなことは、いけません! アポロン様は特別です。私にとってもトロイアの民にとっても」
広い世界はトロイア人だけのものではない。海の向こうのアカイア人は腹立たしいが、東の帝国ヒッタイトにはるか南のエジプト、最近はヘブライ人という変わった人々もいると聞く。
彼らには彼らの神がいる。それらの神にゼウスが君臨している。それは正しいのだろう。
しかしトロイア人にとってアポロンは別格だ。ゼウスと比べるとかゼウスの下に置くという存在ではない。輝ける太陽神の腕の中、カッサンドラは自身の心を量りかね、もどかしくなる。
「カッサンドラ、私はお前を困らせたくない。さあ、この雷を止めてみせよう」
白い靄はたちまち消えた。二人の足元はるか下に、トロイアの町が広がっている。
カッサンドラがアポロンと心を通わすようになってから、何度も見た光景。が、何度見ても見慣れず、王女は目を瞑りアポロンの首にしがみ付く。
「案ずるな。お前は夢の中だ。その身はわが神殿にあるのだから」
「わ、わかっています。それでも怖いの……離さないで」
「私の声を聞く唯一の女人を、私が離すはずないだろう?」
アポロンは、カッサンドラを抱きかかえ、雨降りしきる雲を超える。アポロン自身の力で輝く青空の中に、二人はあった。
王女は恐る恐る目を開く。はるか下の群雲の中から、ときおりイデの山頂が顔を出す。
「あの恐ろしい雲は、イデの山から湧き出でているようです。ゼウス様の怒りなのでしょうか?」
アポロンはカッサンドラの疑問に応えず、群雲が発する渦の中に入り、イデの山頂に降り立った。
山頂は雲の中とは信じられないほど白く眩しく輝き、温かい。
頂きに、筋骨隆々とした男が立っていた。長くうねる黒髪をたなびかせ、長い三叉の矛を握りしめている。
「アポロンじゃねーか。なーに怒ってんだ?」
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