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5 定番ですが、主人公は王子様

(17)パリスの結婚

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 ――結婚!? 妻とイチャイチャする兄から、パリスは予想外の言葉を聞かされた。

「結婚? 僕の? いつ決まったんだよ!」

「言ったよな? トロイアでお前を結婚させると」

 アンドロマケはヘクトルの腕から離れ、椅子に座り直した。

「昨日、王宮に入ったばかりじゃないか! 三日後に結婚なんてあんまりだろ!」

「王宮に入ったその日から侍女に手を出すのは、あんまりではないのか?」

「そりゃ、ちょっと仲良くしたけど、大したことしてない!」

「娘にとっては大したことらしいぞ」

 ヘクトルは妻をチラッと見やる。アンドロマケは小さく頷いた。

「見張りが声を掛けなかったら、どうするつもりだった?」

 パリスはぐっと口をつぐんだ。邪魔が入らなければ……もっと楽しい夜になっただろう。

「アンドロマケのように、どこかの王女と考えていたが、お前みたいな男は、気に入った女を妻にするのがいいんだろうな。オイノネは医者の娘だ。お前とは気が合うよ」

 パリスは、オイノネのことをなにも知らないことに気がつく。

「あなた待って。いきなり結婚なんて押し付けないで、一か月ほどお付き合いしてもらったらいかがですか?」

 アンドロマケが、パリスに微笑みかけた。

「オイノネはいい娘です。大切にしてやってくださいね」

 パリスは、目を吊り上げるヘクトルより、アンドロマケの笑顔にプレッシャーを感じた。

「僕はオイノネと仲良くしたいです。でもいきなり結婚なんて……」

「オイノネは、ただパリス様のお世話をしたいと申しています。結婚については、よく話し合われたらいかがですか?」

「あ、いやそうじゃなくて……」

 アンドロマケのような貴婦人にとっては、『仲良くする』ことと『結婚』は同じ意味を持つと、パリスは理解した。彼女は、ヘクトル以外の男と『仲良く』したことないのだから。
 ヘクトルはパリスの困惑を察したのか、妻に目配せする。

「パリス様、私、坊やを見てますので」と、アンドロマケは奥の部屋に引っ込んだ。

 男二人になったところで、兄が弟にグイっと顔を突き出す。

「さてアレクサンドロス、なぜ結婚を嫌がる? オイノネを気に入ってるんだろ?」

「ヘクトルが心配してるのは、僕がどこかの王宮からお妃様をさらうことだろ? ぜーったいにそんなことしないよ!」

「それだけじゃない。お前が昨日来てから、宮の侍女たちが落ち着かないんだ。放っておくと、王宮の女、全員と『仲良く』しかねないからな」

「そんなことしないよ! せいぜい四、五人だって!」

 本音をポロっと出してからパリスは口を抑える。堅物男は一瞬口をぱっくり開け、ため息をついた。

「お前を守る女神様は、アフロディテ様なんだろう」

 アフロディテは愛と美の女神で、多くの神や人間と恋をし、父親の違う子供を何人も産んでいる。

「アフロディテ様が守ってくれるなら、最高だよ。ヘクトルの女神様は、戦うアテナ様かな」

 アテナは戦いと知恵の女神で、アフロディテと対称的に処女神である。

「それは心強いな。アカイアの連中に対抗するには……」

 ヘクトルは立ち上がりバルコニーに出た。赤い陽が遠くの海を照らしている。
 パリスも兄の後に続く。

「僕、オイノネ以外の女の子とは、仲良くしないよ」

 パリスの本音はいろんな女子と仲良くしたいが、この堅物に認めてもらうにはそれしかない。

「それならオイノネと結婚すればいい。なに、結婚してしまえば、他の女などどーでもよくなる」

 ――他の女なんか、どーでもよくなる
 この男がいつも笑って口にしている言葉。

「僕はそういうの嫌なんだ……なんか嫌なんだよ……」

 パリスは、その甘ったるく輝きに満ちた感情が、理由もわからず恐ろしかった。漠然と不吉な予感を覚える。

「お前は父上に似たんだな。母上が嫌がるのに、あの年でも若い侍女に手を出して妾にする」

 ヘクトルは苦笑いを浮かべた。

「あの人は、僕の父さんじゃない!」

 パリスは、自分を災い呼びして冷たい目で見つめる王を、父とは認めたくない。

「……それについてはなにも言わぬ……が、アレクサンドロス。お前は女神ヘラ様に、幸せな結婚を祈れ」

 女神ヘラは、神々の王ゼウスの妃で、結婚の女神といわれる。結婚の女神だけあって、ゼウスの浮気相手に情け容赦ない仕打ちを与える。
 パリスは、話にあがった三人の女神を思い浮かべた。愛の女神アフロディテ。戦いの女神アテナ。神々の女王ヘラ。
 三人の女神のような女性が現れ、そのうちのひとりと結婚しろと言われたって……できるわけない! みな魅力的な女性なのに選ぶなんてできない!
 パリスは兄の両腕をがっしり捉まえた。

「なんでヘクトルはそんなに僕を結婚させたいわけ? ヘクトル変だ! トロイアに着いてからおかしくなった! 僕が跡継ぎ!? 無理に決まってるじゃん!」

 兄は弟の腕を振りほどき、背を向けた。赤く染まった遠くの海を見つめ、拳を握りしめる。

「……アンドロマケは、絶対あいつらに渡せない……」

 ヘクトルの背中が震えだした。パリスは、トリファントスとの会話を思い出す。トロイアが滅びた後、アンドロマケが敵将の妾にされたことを。ヘクトルには絶対言えない話を。

「ま、まさか、トリファントスさんの話、聞いちゃった?」

 トロイアの跡継ぎが振りかえった。僅かに眉を寄せているが、さほど表情は変わらない。

「国が滅びれば、男は殺され女は奴隷にされる……予言者に聞かずともわかることだ。息子が大人になるまで、アカイアの奴らは待ってくれない」

 ヘクトルはパリスの両肩を押さえつけた。

「時間がない。アポロン様の印を持つお前がここにいるのは運命だ。俺の次はお前だ。お前は父上に、弟と妹たちに、神官と戦士たちに認めさせなければならない」

 テラスから彼方に広がる海に、陽が沈む。トロイアの神アポロンが、まさに今、海に呑み込まれる。

「わかったよ。僕、オイノネと結婚する」

 パリスは、およそ花婿には相応しくない悲痛な面持ちで、人生の選択を表明した。
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