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6 主人公は、あっさりワナにはまる

(2)こちらも、強気な兄貴と弱気な弟

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 時はかなり遡る。パリスがまだ、ヒポクラテスに弟子入りし、町の女子、時には男子とチャラく遊びながら修行していた頃。
 ギリシャのとある宮殿の奥で、とある兄弟二人が顔を付き合わせ、密談を進めていた。

「兄貴~、うちの奥さんにハニートラップなんて無理だよ~」

 兄はギリシャ一の勢力を持つミュケナイの王アガメムノンで、弟は強国スパルタの王メネラオスと、ギリシャのトップツー兄弟だ。弟は兄に呼び出されミュケナイに駆け付けた。

「情けねえ弟だ。そんじゃ、てめーにヘレネをやった意味、ねーだろ!」
 
 そう、このヘレネとは、名前だけ出てきた問題のヘレネだ。
 彼女は、弟の王メネラオスの妃だ。トリファントスのいた世界では、トロイア滅亡を引き起こす絶世の美女となっている。

「ハニートラップなら、兄貴に任せる。義姉さん、いい感じの美魔女じゃん。兄貴の奥さんじゃなけりゃ、俺もあやかりたいよ」

「そのハニトラ失敗したんだよ! ヘクトルのヤロー!」

 アガメムノンは、トロイアの王子への怒りを爆発させる。

「ヘクトル? 俺知ってるよ。いい奴じゃん」

 兄とは対称的に、弟はキョトンと目を丸くする。

「お前、奴の外面に騙されてんだよ。あんにゃろ、海賊を取り締まらないと羊毛の取引を止めると、ぬかしやがる!」

「兄貴、やりすぎじゃねえ? 海賊って兄貴がやらせてんだろ?」

「ったりめえだろ! トロイアを挑発させんだよ。だから、トロイアの船から奪った黄金の首飾りを女房に飾らせ、奴に見せた」

「すげー、兄貴、えげつねー」

 メネラオスは、えげつない兄を尊敬のまなざしで見つめた。

「が、あいつ涼しい顔で『素晴らしい首飾りだ。王妃様にお似合いです』だと! あー、ムカつく」

「あの王子、そういうキャラだよな。そんで兄貴、ハニートラップしたんだ」

「夜、うちの若い女たちをあいつが泊まる部屋に忍び込ませたが、まーったく効き目なく、追い返された」

「兄貴、間違ってるよ。あの手のイケメンは、女じゃなくて男がいいんだよ」

 弟は真顔で兄に、真摯なアドバイスを提供する。

「そう思って、翌朝、取って置きの美少年をやったが、全然効かなかった」

「わかった! イケメンにたまーにいる、ババ専かデブ専だ」

 アガメムノン王は悲しげに首を降る。

「奴は『早く妻と子の元に戻りたいので』って帰ってったよ」

「イケメンなのに珍しいタイプだな」

 妻一筋男が、デブ専ババ専より珍しいのか、造物主にはわからない。ただ、ギリシャ神話世界では(数えたことないが)、浮気しない男性は珍しいかもしれない。
 なおトロイア伝説によると、この兄弟、兄の女関係は酷いが、弟は美貌の妻ヘレネ一筋だ。

「そのくせあいつ、俺らアカイアの職人や船乗りをどんどんスカウトしやがる。海賊も、トロイアの商い船を襲うのに、てこずるようになった。このまま放置すりゃ、奴らを攻め落とせなくなるぞ」

「兄貴、そこまでしなきゃダメ? 時々お宝をちょろまかすぐらいにしとけば?」

「メネラオス、わかってねーな。トロイアの奴らが財宝溜め込んでんのは、たまたま商いに便利な浜を持ってただけだ! 俺はね、努力しないでラッキーだけで儲けてる奴、大っっっ嫌いなんだよ!」

 ギリシャ一の王、アガメムノンは拳をテーブルにガツンと叩きつけた。
 と、部屋の入り口から、パンパンと手を叩く音が聞こえてくる。

「さすが、アガメムノン。私は君と志を共にしよう」

 涼やかな目をした壮年の男が、密談会場に入ってきた。短く刈り込んだ銀髪が目を引く。

「オデュッセウスじゃねえか。よく来てくれたな。お前もトロイアの奴らには、むかつくだろ?」

 今まで名前だけ出てきたオデュッセウスが、ようやく登場した。
 彼は、小さな島イタケの王で、ギリシャでは智恵者として知られている。アガメムノン王の問いかけに、オデュッセウスは微笑みを返した。

「トロイアのヘクトル王子を直接攻略するのは、難事だ。アガメムノンよ、このオデュッセウスに任せてくれないか? トロイアは君のものだ」

 アガメムノンは、オデュッセウスの華奢な両肩をガシッと抑えた。

「天才のあんたが味方になってくれりゃ、こんなありがてーこたあねえ! あはははは、トロイアの宝は、あんたと山分けだ!」

 二人の男が笑い合う中、「兄貴~、俺にもお宝、ちっとでいいから分けてくれよ」と、メネラオスが促す。
 オデュッセウスは、弟王に微笑を持って頼みこむ。

「ここはメネラオスの妃に、ご尽力願いたい」

「それ、さっきも兄貴に言われたけど、うちのヘレネには無理っす」

「オデュッセウス。こいつ、ヘレネを嫁にもらった頃は、リア充意識高く上から目線で見せびらかしたくせに、この十年、だれもヘレネを見てねえんだよ。スパルタに使いをやっても、ヘレネには会えなかったって、使いが落ち込んでる」

 オデュッセウスの目がきらりと光った。

「ヘレネ妃をだれも見ていないと?」

 メネラオスはあさっての方向を見ている。

「い、いやー、うちの嫁は、外に出たくないっていうもんで……」

「ほう、私の知るヘレネ王女は、歌や踊りを好まれ、快活に笑う方だったが……」

 ますますメネラオスの額から、汗が滲み出る。

「嫁に来たら、あいつ変わっちまったんですよ」

 と、アガメムノンが、弟の肩をガシガシと揺さぶった。

「決まってんだろ。ヘレネはあれだけの別嬪だ。で、コイツ、人は悪くねーが、見た目がこれだろ?」

 そう言って兄は弟の顔を指す。メネラオスは決してブ男ではないが、いかんせん地味で若い娘にモテるタイプではない。歩くだけで女子の心を掴んでしまうパリスとは、対称的な男だ。

「わかってるって。ヘレネは若い男とデキたんだよ。それ以来こいつは、ヘレネを宮に閉じ込めてるってわけ」

「違う! 兄貴、それは絶対ねーんだよ!」

 必死にメネラオスは兄の下品な推理を否定するが、アガメムノンは取り合わない。

「とにかくうちのヘレネは無理だ! じゃーな、オデュッセウスさん、それ以外の方法で頼んます!」

 スパルタの王は言い捨てて出て行った。
 残された二人は声を潜める。

「メネラオスは、本当に君の言う通り、ヘレネ妃の密通を懸念され人目に触れさせないのであろうか?」

「あいつは昔っから俺の後ろを着いて回ってた。ははは、小せえ奴のくせに、ヘレネなんてマブい女、嫁にしたから苦労なこって」

 ミュケナイ王はケラケラと笑う。しかしオデュッセウスは端正な顔を歪めた。

「アガメムノン、君がもし妻の密通を目撃したら、どうする?」

「殺る。二人まとめてスフィンクスの餌だな……おい! メネラオスは、俺とは違う!」

「小さい者ほど怒りを溜め込み、思いもよらぬ動きに出るものだよ。美しすぎる妻が密通したとなったら……」

「やめてくれ! あいつは絶対にそんなタマじゃねえ!」

 アガメムノンは、ギリシャ一の智恵者に縋り付く。

「他ならぬ君のためだ。ヘレネ妃を白日の元へ晒してやろう。どんな形でもな」

 オデュッセウスはギリシャの覇者の肩をさすり、端正な顔をニヤっと崩した。
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