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1章 メアリ

1 その後の王太子の婚約者

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「侍従長、失礼いたします」

 軽やかなノックの音とともに、澄み切った若い女性の声が、太子宮の廊下に響いた。
 王太子ロバートの婚約者、ペンブルック伯令嬢メアリ・カートレットは、ノートを片手にセバスチャンの執務室に入る。
 メアリは息を整えた。王太子の婚約者だからと驕ってはならない、と自分に言い聞かせる。

「これはこれはメアリ様。侍従に命じてくだされば、爺から伺いますのに」

 王太子侍従長セバスチャンは慌てて立ち上がり、にこやかにメアリを迎える。

「いいえ。私が無理を申して侍従長のお仕事を手伝わせてもらっていますから」

 メアリは、セバスチャンにノートを開いて見せた。

「殿下の視察のスケジュール案ができあがりました。ご確認をお願いいたします」

 老人は、整った文字で綴られたタイムスケジュールを、じっと見つめる。

「ふむ。午前中に『ひかりの学びの里』、午後に王立大学医学カレッジ、夕方は『原子論学会晩餐会』ですか。『原子論』はいかにも殿下が好まれそうですが、『学びの里』は意外ですね。こちらは確か……」

「はい。ウェストウッド教区のヤング史司が運営する、身体の不自由な方のための教育施設です」

「これもメアリ様のお陰ですね。殿下が福祉に心を寄せてくださるとは」

「殿下ご自身のお考えなのです。おそらく……いえ、国王陛下の演説に心を打たれたのでしょう」

 メアリとセバスチャンは、目を合わせる。
 今から二か月前、国王オリバー五世が移民差別への懸念を訴えた日、ロバートは、メアリやセバスチャンと共に、天才科学者サイ・クマダ博士の病院で人体実験の犠牲となった患者たちの悲惨な末路を目撃した。
 彼らの惨状から王太子ロバートは、次の王として弱者救済に目覚めたのだろう――メアリにはそのように思えてならない。
 が、彼ら三人がクマダ博士の病院で目撃したことは、公にされていない。メアリもセバスチャンも、あの日の病院での出来事は口に出さない。

「メアリ様。この日も殿下は、王立大学に通われるのですね」

「はい。殿下は今、医学にご関心を寄せていらして、執務室で論文に目を通されています」

 ロバートが医学を熱心に学ぶようになったのも、クマダ博士の事件がきっかけだろう、とメアリは思っている。

「メアリ様、それではこの案で、先方に調整を図りましょう」

「お願いいたします、侍従長。ところで本日は、殿下の視察に同行されなくてよろしかったのでしょうか?」

 老人はカラカラと笑った。

「今日は、『タミュリス販売』の式典ですから問題ないかと。社長は、殿下に好意的ですから」

「国王陛下の演説を『タミュリス』に記録して、国中に陛下の肉声を届ける……これもロバート殿下が科学技術に関心を持たれているから、成しえたことですね」

「爺も年ですから、そろそろ引退したいところです。メアリ様のお陰で助かっております」

 王太子の婚約者は、緑色の眼を輝かせた。

「侍従長は殿下にとって、なくてはならない方。どうか、いつまでも殿下をお支えください」

「プリンセスに命ぜられては、仕方ありませんのう」

 途端にメアリは、頬を膨らませた。

「侍従長! 私はプリンセスではございません!」

 老人は微笑みでもって、メアリの抗議をかわした。
 彼女が何度も自分はプリンセスではないと主張しても、セバスチャンは受け付けてくれない。

「そ、それより殿下がそろそろお戻りでしょう。私は殿下の執務室を整えて参ります」

「いや、それには及びませんよ……ほら」

 メアリが侍従長執務室のドアノブに手をかけた途端、ドアの向こうから甲高い男の声で呼びかけられた。

「メアリ、ここにいるのだろ?」

「え! 殿下。もうお戻りで?」

 ドアが開け放たれた。黄金の髪を輝かせる美青年が、笑っていた。
 空のようなロバートの眼が、メアリの胸を高鳴らせる。

「すみません殿下! お出迎えもせず」

 メアリは恐縮して頭を下げる。太子宮の主の帰りに合わせ、ロビーに出迎えるべきところなのに。
 ドアの向こうの廊下を覗くと、若い侍従がロバートのコートと荷物を運びこちらへ走ってくる。
 使いがロバートの帰還をセバスチャンに知らせる前に、王子は侍従長の執務室に駆けこんだようだ。

「殿下、式典はもうお済みでしたか?」

 ロバートは『タミュリス』の社長と話し込み、その後王立大学の医学カレッジに立ち寄るから、彼の戻りが遅くなるだろうとメアリは予想していた。

「それは」

 ロバートはメアリの肩を抱き寄せた。

「君が今日、この宮に泊まるから早く引き上げたんだ」

 耳朶をくすぐる囁きが、メアリの肩を硬直させる。

「で、殿下。侍従長の前です!」

 ロバートを幼い頃から見守ってきた老人は、笑った。

「いやいや、年寄りには目の毒ですな」

 メアリは頬を染め、ロバートの腕を振り払った。

「殿下、そ、それより、来週の視察スケジュールですが、侍従長に調整をお願いしました」

「ありがとうメアリ。そうだ。『タミュリス』の社長に、次は工場を見学したいと伝えた。いつでも構わない」

「殿下、工場ですか? 研究所ではなくて?」

 メアリは首を傾げる。王子の興味は製品の原理や開発工程にあり、裏方の現場には関心が薄いようであった。
 ロバートは、婚約者の巻き毛に指を絡ませる。

「いくら優れた製品でも、労働者を酷使して作らせていたら問題だろう?」

「あ、殿下は、『タミュリス』の工員たちが適正な環境で働いているか、視察されたいと?」

 メアリはロバートを尊敬の眼で見つめる。
 彼は変わった。
 彼はもともと、メアリが前世で親しんだ婚約破棄物語に出てくるような暗愚な王子ではなかった。国民の規範として、身を慎んでいた。
 しかしクマダ博士の事件と国王の演説をきっかけに、彼は王族の持つ力に目覚めたようだ。
 王太子は婚約者の額に唇を寄せた。

「その話は後にしよう。もうすぐディナーだ。メアリはそれまで休むがいい」

「いえ殿下、本日参加された『タミュリス』発売式典の報告書、今日、仕上げた方がよいかと」

「陛下へのご報告は来週だ。まだ日がある」

「出席された日にまとめた方が、よろしいかと存じます。殿下が式典の感想をおっしゃってくだされば、私が報告書の草稿をタイプします」

 ロバートは満面の笑みを、侍従長に向けた。

「セバスチャン、僕のメアリは素晴らしいだろう? タイピングが正確で速く助かっている。陛下も最近、僕の報告書が読みやすくなったと、感心されていた」

「あ、それは……」

 メアリは(前世の)と言いかけた。
 彼女の頭には、二十一世紀に生きた日本人女性としての記憶が詰まっている。彼女は前世で、二十年以上、事務系派遣社員として働いてきた。まとまりのない会議の議事録や、上司の出張報告書の仕上げなど、何百通とこなしてきた。

 王太子の婚約者は、開きかけた口を閉ざす。メアリが転生者だとセバスチャンは知っているが、みだりに口にしてはならない。この世界では転生者は忌み嫌われている。国王オリバー五世が転生者は憐れむべき病人だと訴えたが、千年近く積み重ねられた偏見は、一か月や二か月で一掃できるものではない。

「私はただ、少しでも殿下のお役に立ちたくて……」

「君が王家になくてはならない存在だと、いずれ陛下もわかってくださる。そうなれば、この太子宮で一緒に暮らせるよ」

「太子宮の誰もが、メアリ様のお越しをお待ちして申し上げております」

「いえ、ど、どうか陛下のお心を煩わせることのないよう……では、私は先に殿下のお部屋を整えてまいります」

 メアリは侍従長室からそそくさと退出した。


 今から二か月前、サイ・クマダ博士の人体実験が新聞に取り上げられた。その日、国王オリバー五世は移民差別の問題を訴えた。
 その記者会見で、ロバートは、ペンブルック伯爵令嬢メアリとの結婚延期を伝えた。メアリが王太子妃の務めに不安を覚えた、という理由を添えて。
 しかし新聞記者たちは、ロバートが異国の留学生とただならぬ関係になり、メアリ嬢が怒ったからだと書き立てた。実際メアリは、ロバートの視察に同行しなくなった。その説を裏付ける写真が新聞を賑わせた。

 しかし結婚の延期が発表されて間もなく、メアリは以前ほど頻繁ではないが、ロバートの視察に同行するようになった。
 宮殿に出入りするペンブルック伯の蒸気自動車を、新聞記者たちは目撃した。
 車の動きからすると、メアリが何度か宮殿に泊まっているのは確実だ。
 この状況から、ベテラン記者ハドソン女史は断言した。

「お二人は一線を超えているわ。殿下のメアリ様に触れる手つきが違うのよ」

 ハドソン女史は王室専門の新聞記者で、国王オリバー五世とソプラノ歌手セリーナとの不倫を暴くなど、数々の醜聞を記事に書き立てた。
 女史が断言するからには間違いない、と記者たちは納得する。

 二人はロバートの浮気問題を乗り越え、かえって仲が深まったようだ。今どきの若者よろしく、王太子が伯爵令嬢と式を挙げる前に深い仲になるとは、敬虔なエリオン教徒からすると怪しからんことではあるが、それほど愛し合っているともいえる。
 ロバートとメアリの関係は、年寄りが眉を顰めたくなるほど、順調らしい。
 すると記者たちの頭に、新たな疑問が湧く。

 なぜいつまでも、結婚式の日取りが発表されないのか?

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