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三章 僕は彼女に伝えたい

62  ファイル化されたノート

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 篠崎あいらとの同棲は、なにも問題なく順調だ。
 彼女は塾でアルバイト講師をしているため帰りが遅い。僕は「お金が足りなかったら出すから無理しなくていい」と言ったが「こんなすごいマンションに住んでいるんだから、少しはお金出さないと」と言ってきかない。バイト代から毎月二万円を渡してくれる。
 買い物と夕食と洗濯は僕、朝食と弁当と掃除は彼女。自然と家事の分担が決まった。

 母親以外の女の弁当は初めてだ。青山星佳は料理を作る女ではなかった。
 あいらは「自分の弁当のついでだから。学食より安上がりだよ」と作ってくれる。ネットで見る派手なキャラ弁ではなく、おばあちゃんが作るような茶色い弁当。
 それでも学食で食べていると、講義仲間に冷やかされる。
 堀口宗太は人の弁当に乱入し、「これが、あいらちゃんの味か~」と鶏団子を盗んで、口に入れた。

「あいらに近づくなと言っただろ!」

「俺、あいらちゃんと会ってないって。今は、バイトの先輩と仲良くしてる」

「コンサートで一緒だった子か?」

「ま、まーね」

 露骨に目をそらした。また二人の彼女とラブホテルで鉢合わせしても、僕は知らない。

「ソータ、コンサートの帰り、あいらと盛り上がってたよな」

「うわ! お前、あんな遠くからチェックしてたんだ。ストーカーだぞ」

「ストーカー? やめてくれないか! 僕は彼女を信じてる! スマホもパソコンもチェックしない。彼女がどこへ誰と出掛けたって、好きにさせてるぞ!」

 まずい。興奮してしまった。

「それ、普通だよな? 偉そうにすることか?」

 僕と宗太の間に、物理実験の仲間が突っ込んできた。

「いや三好は潜在ストーカーだ。俺、篠崎さんが電卓忘れたから届けただけなのに、スゲー睨まれた」

「睨んでない! あいらは物を落としたり失くしたりするから、みんなに迷惑かけてないか心配なんだよ」

 宗太が「キモすぎ! マサハル、そのうち、あいらちゃん、監禁するんじゃねえ?」とケラケラ笑う。

「ソータくん、もうこれ、いらないよな?」

 スマホのPDFファイルを、友に見せつけた。

「ごめんごめん、カミさまホトケさまマサハルさまあ」

「送ったぞ。化学基礎のノート」

「ありがとお! マサハルくーん」

 宗太はスマホに頬擦りをしている。気持ち悪い男だ。
 物理実験の仲間が、また突っ込んできた。

「え? 三好、わざわざ自分のノート、PDFにして堀口に送ってんの? ノートのスキャン、面倒だろ?」

「これだと簡単だよ」

 僕のスマホに、自宅のスキャナと同じ機種の画像を表示させた。

「ブックスキャナかあ」

「便利だよ。本やノートを置いてページを開くと自動的にスキャンしてくれる。ページ中央の影や歪みを、補正してくれるし」

「三好、他にもスキャナ持ってなかったっけ?」

「あれはシートフィードタイプ。大量の紙をスキャンするには便利だけど、本やノートだと裁断しないとできないからね」

「すげー、さすがお坊っちゃん」

 どちらのスキャナも十万円はしないのだが。自動的にページめくりをするスキャナも欲しいが、市販されていない。いずれ自作してみようか。

「そのPDF、俺にも送ってよ」

 講義仲間は、僕のノートで盛り上がる。

「俺たちのグループ共有フォルダに入れてくれれば、みんなで見れるじゃん」

 この講義ノートをみんなに公開する? 冗談じゃない!

「やめろよ。僕は、宗太のためにノートを作ったんだ。自分たちでなんとかしてくれないか」

「何で堀口はいいんだ?」

「ソータは……特別な友達だからな」

 昼間の学食が静まり返る。宗太が唇をきゅっと引き締めた。

「へへ、悪いな、マサハル」

「ソータもそのファイル、他のヤツラに回すなよ」

 堀口宗太は無言で頭を下げて、駆け足で去った。
 静まり返った学食の片隅で、数学演習の仲間が尋ねた。

「変なこと聞くけど、もしかして、篠崎さんとノートを交換とか? あ、悪い!」

 あいらと交換? 冗談じゃない! 彼女をものみたいに言うな! いや……。

「怒ってないよ。でも、あまりそういうこと、広めるなよ」

 講義仲間が顔を見合わせた隙に、僕は食堂をあとにした。
 堀口宗太は、僕の講義ノートと引換えに、篠崎あいらを諦めた。だから三好雅春は、堀口以外の仲間にはノートを渡さない。
 そういうことにしておこう。


 年末年始は、自分とあいらの実家を二人で訪れた。
 二十歳のあいらは成人式を迎える。僕の母が強引に若い時に来た振袖を押し付けた。が、あいらは「お姫様みたい」と顔を輝かせる。彼女の両親は母に頭を下げた。

 あいらに言われ、僕は渋々だが実家に月に二度は顔を出すようになった。彼女も時々自分の実家に帰り、家事を手伝っている。
 彼女と二人で僕の実家を訪ねる時もある。すると母はピアノルームにあいらを連れて、レッスンを始める。不器用な彼女だが、しばらくするとエリック・サティの「ジムノペディ」を、ポツポツと弾くようになった。
 はっきり言って下手くそだ。楽譜通りに弾くのもままならない。あんなゆったりした曲なのに、リズムがマチマチだ。
 なのに、なんで僕は彼女のピアノを聴きたい、と思うんだろう?

 母のレッスンはピアノに留まらなかった。「あいらちゃん若いんだから、もっとかわいい服着て、お化粧しないと」と、あいらを美容院やブティックに引っ張っていく。僕は荷物持ちをさせられた。

 いくつもの紙袋を抱え、マンションに戻る。

「母さんに付き合うことないよ!」

「ごめんね。こんな高い服買ってもらっても、お返しできないや。今度、ハル君の家、お掃除と草取りやらせてもらうね」

 最近、彼女から「ハル君」と呼ばれるようになった。

「嫌ならそんな服、ネットで売っちゃえばいいから」

「ダメ? 図々しかったかな。私、服とかわからなくて、お母さんも店の人も褒めてくれて、ハル君もいいと言ってくれたから……違った?」

 いや、違わない。僕も女の子の服のことはわからない。が、レトロなワンピースを着た彼女は、ファンタジーゲームの姫に見えた。

「ごめん、すごくかわいかった。でもさ」

 ギュッと抱きしめて囁く。

「あいらがかわいくなると、他の男に狙われそうで嫌なんだ」

「へへ、そんなことないって」

 よくこんな臭いセリフを言える。かわいいとは思う。でも、それで他の奴らが彼女をどう見ようが、僕には関係ない。関係ないんだ。


 あいらは、大学にはいつもの地味なシャツとジーパンを着ていったが、雰囲気が変わった。ショートヘアは整えられ、実験のない日は化粧をする。ボロボロの靴は僕が強く主張し、母が買った新しいスニーカーに変わった。
 気のせいか? あいらを眺める大学の奴らの目つきが変わったのは?
 いや、堀口宗太は露骨に「あいらちゃん、かわいくなったなあ」と、昼休みの学食で言ってきた。

「しつこい。何度も言わせるな。あいらに近づくな」

 コイツにあいらのことを褒められても、嬉しくもなんともない。いや、誰に褒められても腹が立つ。

「わーってるって。最初から、俺には無理だったもんな」

 まだ諦めてなかったのか、この男は。バイトの先輩と仲良くしてるんだろ?

「ソータ。それより後期試験、大丈夫か? 前期で単位落としてんだろ? 僕がせっかくノート送ってるんだから、がんばれよ」

「そのノートだけどさ……お前が心配になってきた」

「心配? ノートがどした? 自力で頑張る気になったか?」

「いや、まあ、とりあえず、たのんます」

 午後は人文科学の講義の時間だ。宗太は科学史、僕は法学と別の講義なので、別れる。
 宗太とあいらは同じ講義だが、心配する必要はない。法学の講義が終わったらすぐ、僕は科学史が行われている講堂に向かい、あいらを迎えに行くから。
 宗太がノートのことで何か言っていたが、彼が望む限り、僕はノートをスキャンして送る。僕自身のために。
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