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三章 僕は彼女に伝えたい

49 リベンジ開始

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 毎週土曜、僕は篠崎あいらをマンションで抱いていた。母が突然やってきてあいらを問い詰めたため、彼女は来なくなった。
 あれから二か月。僕は、土曜を一人で過ごすようになった。大学の同期に遊びに誘われても、土曜の場合は断った。
 誰とも過ごしたくなかった。土曜は空けておきたかった。あいらのために。


 文化祭が終わって初めての土曜、僕はカフェに女を誘った。
 高校時代、学校帰りに訪れた昭和レトロなカフェ。青山星佳と過ごしたカフェ。彼女といつも、音楽のこと勉強のことを語り合っていた。

「頼むよ。僕らのアンサンブルサークル、手伝ってほしいんだ」

「この前はそんなこと言わなかったわよね」

 青山星佳の美しい声が、僕の鼓膜を震わせる。

「星佳のお陰で僕らのレベルは上がった。音楽に対する意識も向上した。歌だけではなく器楽のメンバーも刺激を受けた。月に一度でもいい。どうかな?」

 彼女の長い指が、艶やかな髪をかき上げる。

「無理ね。クリスマスのオペラコンサートの練習があるの」

 僕もそのコンサートのチケットを二枚買った。篠崎あいらを誘うつもりだった。

「それなら星佳の練習、手伝うよ」

「伴奏なら、この人がいるわ」

 彼女がスマホを取り出し、写真を見せた。
 チェックのシャツを着たボサボサ頭の男が、グランドピアノを弾いている。場所は、音大の練習室だろうか。

「むしろ、うちの大学にいそうな男だな。音大にもこういう男子がいるのか」

「彼、すごいわよ」

 星佳は、ワイヤレスイヤフォンをバッグから取り出し、僕に渡した。冴えない男の演奏を聴かせてくれるつもりか。素直に僕は、イヤフォンを両耳に差し込んだ。
 彼女が上目遣いに僕をじっと見つめ、微笑んでいる。企みを秘めた微笑み。
 弦楽とティンパニーの響きが伝わってきた。

「え! ラフマニノフ三番?」

 ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番は、難曲中の難曲だ。僕には手も足も出ない。
 三楽章構成だ。演奏時間はおよそ四十五分と長い。さすがにこのカフェで全曲を聴くのはキツイ。星佳もさすがにそのつもりはなく、スマホを操作して曲を止める。
 二楽章の終わりにジャンプした。抒情的なアダージョが、楽章の終わりで激しいピアノソロに変わる。切れ目なく三楽章に流れ、オーケストラと共に盛り上がる。この協奏曲の一番の聴き所だ。
 曲が止まった。終わりまで聴きたい。名残惜しい。

「……星佳はこんなすごいピアニストに、伴奏させるんだ」

「ふふ、この前の文化祭、私の歌を聴いてくれたの。『僕なら、ちゃんと伴奏できるのに』って怒ってたわ」

 ボサボサ頭のピアニストに言わせると、僕のピアノは、ちゃんとした伴奏ではないようだ。あのラフマニノフを聴かされた後なら、何も言えない。

「星佳、たまに、うちの大学に遊びに来てくれるだけでいいよ。案内する」

「随分と食い下がること。マサ、篠崎さんに振られたのね」

「ち、違う! 振られてはいない」

 それはない。篠崎あいらは、僕が好きだと言っていた。期待する形ではなかったが。

「振られて『は』いないのね。では浮気されたのかしら。あら、私、当ててしまったみたい」

 なぜこの女は、楽しそうに笑っている!

「あなたが私を呼び出したのは、篠崎さんから乗り換えるため? それとも彼女に当て付けるつもりかしら?」

 なぜこの女は、僕の意図がわかるんだ? そのとおり、復讐の手始めに僕は、青山星佳と復縁し、篠崎あいらに見せつけるつもりだった。

「……あいらのことは、どうでもいいだろ」

「よくないわ。私は、篠崎さんの次ってことでしょう? 二番目という屈辱的な扱いに、この私が甘んじると思って?」

「二番目なんて思ってない。僕は星佳が好きなんだ。卒業式のこと、後悔している。別れたくないって、何度でも言えばよかった」

「篠崎さんのアドレスは削除したの? 目をそらさないでくださる? 削除する気はないのね」

 僕は、青山星佳を使った復讐計画を諦めた。

「その……あいらには、僕の前に男がいたんだ……」

 屈辱的な事実を、かつての恋人にこぼす。

「言ったでしょう? あの子は、モテない男が好きそうなタイプって」

 確かに星佳はそう言っていた。そもそも女子が一割の工業大学なのだから、彼女を想う男が他にいて当然だ。迂闊にも僕は、その可能性を全く考えていなかった。

「マサって、こんなにわかりやすい人だったのね」

「さすがだね星佳。僕は何もデバイスをつけていないのに、お見通しだ」

「デバイス?」

「僕が今通っている研究室では、脳波から人の考えを読み取る研究をしているんだ」

「人の考え? 知りたくなったら聞けばいいだけでしょう? ま、そんなこと、知りたいとは思わないけれど」

 人の考えがわかるデバイスなんて、女王には必要ない。

「もういいかしら?」

 星佳はすっと立ち上がって、千円札をテーブルに置いた。

「君が払うなんて初めてだね」

 付き合っていたとき、デート代は僕が出していた。僕も星佳もそれが当然と受け止めていた。

「マサと二人で会うことは、もうないもの」

 えんじ色のワンピースの裾がふわっと広がる。星佳が背中を向けた。
 次に彼女に会うとしたら同窓会だろうか。
 が、突如沸き起こった衝動で、僕は座ったまま、彼女のほっそりとした手首を取る。

「用は済んだわ」

 星佳は僕の手を振り払い、冷たく言い放つ。

「一つだけ聞かせてほしい」

 このタイミングで、確認したくなった。

「君は、フルーツタルトが好きか?」

 堀口宗太は、女子はフルーツタルトが好きと言っていた。あいらは満面の笑みで、タルトにかぶりついていた。

「……あなたと二人でいたとき、ケーキを食べた覚えはないんですが」

 女王は顎でテーブルを指した。
 彼女がいた席の前には、ティーカップだけ。

「私、これでも太りやすい体質なの。甘いものはほとんど口にしていないわ。おばさまに呼ばれたときは申し訳ないので、いただいたけれど」

 彼女はいつもハーブティーを飲んでいた。星佳がケーキを食べる姿を思い出せなかった。当然のことだった。

「そんなことも知らなかったのね。あなたは本当に私のこと、好きだったのかしら」

 ――あなたは本当に私のこと、好きだったのかしら?

 好きなのは間違いなかった。
 が、星佳の言葉より、堀口宗太が篠崎あいらのケーキの好みを知っていたという事実の方が、より僕を打ちのめす。
 思い出のカフェで、僕は、空っぽになった二客のティーカップを見つめていた。
 顔を上げると、青山星佳の姿はどこにもなかった。
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