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二章 僕は彼女を離さない

37 世界を統べる女王

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 高校卒業の日「終わりにしましょう」の一言で別れた青山星佳が、サークルの練習室にいる。

「あ~、もしかして青山ちゃん?」

 前坂さんは彼女と初対面なのに、馴れ馴れしく星佳の腕を取った。腕を取られた音大生はマリア像のように微笑む。

「遅れてすみません。私も文化祭の発表に参加させていただきますね」

 彼女が文化祭に参加する?
 忘れていた。サークルの発表会にゲスト参加する音大は、星佳のいる大学なのだ。

「練習は三十分よ。今日はあなたで最後だからね。青山ちゃんは声楽科だから独唱? 伴奏の人は、これから来るのかなあ?」

 僕は未だに事態が呑み込めないが、前坂さんは把握しているようだ。先輩は三年生でサークルの中心メンバーだ。
 と、星佳はピアノの前で硬直している僕に顔を向けた。

「伴奏なら、彼がいるわ」

 先輩は僕らを見比べ「え、えっ、やだ~、面白すぎる~」と騒ぎ立てた。

「だって二人ってさあ、付き合ってたんでしょ?」

 僕は絶対零度に冷却された。すべての運動が停止する温度。この情報通の先輩は、僕の高校時代の彼女が音大生だと知っている。

「ふふ、マサったらお喋りだったのね」

 やめてくれ! 僕は誰にも話していないのに、噂が勝手に広がったんだ!

「青山ちゃん、完璧じゃん。あたし完全に負け。こーなったら、ファンとして三好君ウォッチしちゃう」

 冗談じゃない! いつまでも絶対零度ではいられない!

「前坂さん、いい加減にしてくれませんか!」

「実験パートナーの彼女、頭いーんだろーけど、あたし、顔は負けてないから、嫌だったんだよねー。でも、青山ちゃんなら仕方ないや」

 僕の抗議を無視して先輩は気持ち悪いことを主張し「じゃ、三好君、終わったらピアノ閉じて、これ、サークル棟に返しといてね」と、ピアノの鍵を僕の手に握らせた。

「面白すぎ~。今カノと別れた途端、元カノだよ~。じゃあ青山ちゃん、練習頑張って~」

 僕らは練習室に置き去りにされた。
 ピアノのある部屋で、青山星佳と二人きり。これは、嫌いなシチュエーションだ。
 高校卒業の日、僕は音楽室で彼女に別れを告げられたのだ。魔の日と同じ状況に、僕は閉じ込められた。

「マサ、大学でもモテるのね」

「星佳、君もやめてくれないか」

「怒っているのかしら?」

 彼女の白い指が僕の頬を突いた。未知の香りが漂ってくる。ボディソープでも制汗デオドラントでもない……コロンだ。高校時代の彼女とは違う。
 星佳の顔をじっと見つめた。ちゃんとメークしている。白い肌は艶やかに、切れ長の目はシャープに、リップは上品なローズに染められ、光り輝いている。
 以前と変わらず清楚だが、彼女は高校生ではなく大学生なのだ。
 ――あいらは、化粧とか全然していなかった。でも髪を伸ばして、眉毛をそろえるようになったなあ……今は、あいらのことを思い出している場合ではない。

「僕がサークルにいるのは知ってたのか?」

「当然でしょう。声楽の子から聞かされていたわ。すごいイケメンがいるって」

「知っているなら、なぜ来たんだ?」

 彼女に背を向け、僕はピアノの椅子に座った。
 と、細い指が背中をツツっとなぞる……久しぶりの感触だ。

「どうしてもマサのピアノで歌いたくなったのよ」

 僕は背中を向けたまま首を振った。

「発表までひと月しかない。僕は先輩の伴奏と自分のピアノソロでいっぱいだ。君の大学には、初見で素晴らしく弾けるピアノ科の学生が、いくらでもいるだろ?」

 トサッっと、ピアノの譜面台に楽譜が置かれた。

「マサ、これなら弾けるでしょ?」

 それは、懐かしいオペラアリアだった。

 高校二年の秋、僕らは誰もいない放課後の音楽室で、はしゃいでいた。
 僕は『この歌は、さすがの星佳も歌えないだろ?』とオペラアリア集の楽譜を彼女に見せ、挑発した。彼女は『そうね、難しそうね』と涼しい顔をして、見事に歌い上げたのだ。

 彼女がこなした難曲は、モーツァルトのオペラ『魔笛』夜の女王のアリア。正式なタイトルは『復讐の心は地獄のように胸に燃え』とおどろおどろしい。女王は、自分の娘に仇を殺すよう脅迫する歌だ。
 ハイF(上のファ)という高音を軽やかに出さなければならない。有名なオペラアリアの中ではもっとも高い音で、これを歌えるソプラノ歌手は限られる。

「な、なぜ、この歌を?」

「私たちの定期演奏会のことは知っているわよね?」

 音大生が僕らのサークルの発表会にゲスト参加するのは、彼女らの定期演奏会の宣伝のためだ。僕らサークルのメンバーも、チケットを購入するのだ。
 僕は、二枚買うつもりだった。篠崎あいらと行くつもりだった。

「声楽科の一年生は、オペラ『魔笛』のアリアをダイジェストで発表するの。私は夜の女王よ」

『魔笛』で夜の女王の出番は少なく、二つのアリアを含めて三回だけ。が、この二つのアリアは難曲だ。役柄はいわゆるラスボスで、少ない出番にも関わらず、圧倒的な存在感でオペラを支配する。
 夜の女王を歌うということは、星佳は声楽科の中でトップクラスの実力を持っているのだろう。

「発声練習するか?」

「喉は出来上がっているわ」

「テンポはどれくらい?」

 軽く弾いて、速さを確認する。

「もう少しゆっくり……女王の威厳を見せつけたいの」

「悪いが一年以上弾いていない。止まっても知らないぞ」

 断るつもりだったのに、僕は、夜の女王のアリアの伴奏を弾いた。
 星佳の歌を、もう一度聴きたかった。音大に進んだ彼女の声がどう進化したのか、知りたくなった。


 夜の女王は復讐に駆られ、世界の支配をたくらむ……僕のつたない伴奏はともかく、半年ぶりの星佳の声は、高らかなスタッカートでありながら、豊かな深い響きを保っていた。彼女は女王そのものだった。
 誰もが喜んで女王にひれ伏し奴隷になり、闇の支配者の手先となって、悪の限りを尽くすだろう……僕は、伴奏が終わっても、女王に支配されたまま、動けなかった。

「ホールではないから、響きはこの程度かしらね。でもピアノは調律した方がいいわ」

 ハッと星佳の呼びかけで我に返る。

「……すごいよ。ハイF余裕があった」

 こんな陳腐な言葉でしか、僕は彼女に賛美を贈れない。

「マサ、ありがとう。あなたの伴奏も味があっていいわね」

 味がある……僕の伴奏がボロボロなのは、明らかだ。

「星佳、今からでもピアノ科の誰かに頼んだ方がいい」

 グイっと両頬を掴まれた。

「私はね、今、マサのピアノで歌いたいのよ」

 額に突然、冷ややかな唇が押し当てられた。半年ぶりの彼女の唇。あいらのふっくらした唇とは違う感触。

「なっ! どういうつもりなんだ!」

 かつての恋人は楽譜をしまい込み、僕に背を向け扉に向かう。

「僕らは別れたんだろ!」

 と、真っすぐな背中は止まる。くるっと振りかえって僕に見せたのは、マリア像と同じ微笑み。

「マサ、怒っているのかしら?」

「当たり前じゃないか! 君が別れたいと言うから望み通りにしたんだぞ!」

「安心したわ。あなたは人間だったのね」

 マリアの目尻に何かが光った……ように見えたのは気のせいだ。
 再び青山星佳は僕に背を向け、練習室から消えた。
 鼻をすする音が聞こえたような……気のせいに決まっている。
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