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二章 僕は彼女を離さない
36 きみから世界をはじめよう
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篠崎あいらは去っていった。
僕の知らない間に、母があいらを責めたてたらしい。電話で母を問い詰めたところ、あっさりと「念のためよ。素直な子で良かったわ」と認める。
いくつかのやり取りのあと、母は泣き出した。と、信じられないことに父が電話に出た。まだ夜の七時なのに、家にいたのだ。
「女を泣かせるな。母さんも女だぞ」
よく言う! お前こそ散々母さんを泣かせた元凶だろ! 僕は何も返さず『通話終了』をタップした。
文化祭まで、あと一か月に迫った。
アンサンブルサークルの発表会まで時間がない。音大の子もゲスト参加するから、下手な演奏はしたくない。
サークルの練習室で、三年生の前坂由奈さんが歌う、グノーの『アヴェ・マリア』に合わせてピアノを弾く。
僕と青山星佳の出会いの曲。はじめ、この歌の伴奏するのは抵抗があった。
が、四か月も練習していれば抵抗は消える。前坂さんの歌は、聴ける歌になってきた。ゆるい音楽サークルの女子としては、上出来だ。クラシックをあまり知らない人なら、普通に上手だと思うだろう。
「三好くーん、彼女と別れちゃったんだぁ。じゃあさあ」
練習の合間に先輩が、椅子に座る僕の肩に触れてきた。このサークルでは、練習中は他のメンバーが入ってこないので、二人きりになることが多い。
何かと近づいてくる先輩を避けるため、篠崎あいらと付き合っていることにした。が、僕を守ってくれたバリアは破壊された。
あいらとのことは誰にも話していない。なのに先日、友人の堀口宗太から「あいらちゃんのどこが駄目なんだよ」と突っ込まれた。
どうも、実験中の僕ら二人の様子が激変したので、実験教室の連中全員が「別れた」と認定したらしい。
前坂さんにも、謎のルートで知られたのだろう。
かといって、この先輩に近づくつもりはない。僕は立ち上がって、彼女の手を振り払った。
「別れていません。親と揉めて距離を置いているだけです」
以前、僕があいらに使った付き合えない言い訳と同じだ。言い訳ではなく本当のことだが。
「うわあ、親が反対ってなんかカッコい~わぁ。実験パートナーの子、地雷ちゃんだったんだ」
「彼女は、地雷じゃありません!」
この女を突き飛ばしたくなる衝動を堪えようと、拳を握りしめる。
「やだ~、ごめんごめん。三好君、怒んないで~。ほら、文化祭のプログラムできたんだ~。この前、文化祭の実行委員会があったから、貰ったのお」
前坂さんは、窓際の棚に置いてあるA4サイズの冊子の束から二冊取り出し、一つを僕に渡した。
「表紙が現代アートっぽいですね」
未来都市と縄文時代の村落がミックスされた風景が描かれている。めくると何社もの企業広告ページが続き、特集ページに文化祭実行委員主催の大きなイベントが載っている。大学の春の名物、桜の広場も紹介されている。今の季節では赤く色づいた葉が茂っているが。
「うちのサークルですね」
冊子の中ほどのタイムテーブルに、サークル名と会場が掲載されている。
「そりゃそーだよ。参加費払ってるもん」
文化祭のメインイベントもたくさんあり、カラオケ大会や腕相撲、ロボットバトルなどが開かれる予定だ。
「有名人も呼ぶんですね」
YouTuberと声優のミニライブが開かれる。どちらも見たことがある。
「こういうオタク受けするアイドルって、あたし趣味じゃないけどね」
僕もそれほど趣味ではない。初めて前坂さんと嗜好が一致した。
「あたしは、この人がいいな~」
パラパラと先輩がめくったページには、長髪を束ねたあごひげの中年男が載っていた。
「すごい年上ですよ」
中年男の名は『四条リュー』。ニュース番組でよく見かけるコメンテーターだ。CMでも知っている。
「『きみから世界をはじめよう』って、指さしポーズするおじさんですよね」
何のCMか覚えていないが、胡散臭い親父の雰囲気は印象に残っている。
「この人ねえ、人生相談のYouTubeやってて、渋い声なんだあ」
テレビで時々見るから有名人なのだろうが、なぜ有名なのか良く知らなかった。
このプログラムによると、学生起業をサポートする会社の社長らしい。会社のCMがバズり、ニュースやワイドショーのコメンテーターとして呼ばれるようになったらしい。
これも知らなかったが、四条リューはうちの大学の情報工学科卒だ。なぜ文化祭に呼ばれたかはわかった。OBとしてトークショーを演じるらしい。
「リューちゃんはねえ、独身なんだよ。ほら、指輪ないでしょ?」
前坂さんはスマホで検索し、四条リューの講演会の写真を見せた。
「結婚して指輪しない人、いますよ」
「違うよお。バツイチなの。ふふ、カッコい~」
やはり僕と前坂さんの嗜好は一致しない。この人、若っぽく見せているが、僕の父より年が上だ。こういう親父は趣味ではない。
「そろそろ練習始めましょう」
「う~ん、あたしはもういーや。喉、疲れちゃうし。それより三好君のピアノソロ、聴きたいなあ」
「ピアノは、一人で練習できますから」
「でもさあ、実際に使うピアノでも練習して、人前で弾くの慣れた方がいいよお。あたし聴いたげる」
言われてみるとその通りな気もする。僕は先輩に従った。
曲は決まった。ショパンの「革命のエチュード」だ。
篠崎あいらと顔を合わせるのは、物理学実験のときだけ。LINEも途絶えた。
今は、葛城先生の研究室に通い、講義や他の実験、演習に集中するときだ。後期の成績を上げなければ、希望の学科に進めない。
ショパンの「革命のエチュード」。彼の祖国ポーランドがロシアの支配に抵抗し反旗を翻すが、ロシア軍に制圧されてしまう。ショパンは、遠く離れたパリで、祖国の敗北を知らされた。
この曲は左手の練習のために書かれた。曲に「革命」と名付けたのは、ショパン本人ではなく、友人のピアニスト、リストだ。
が、左手の畳みかけるアルペジオと右手の力強いオクターブの和音に、ただの練習曲とは思えない、やりきれない怒りや悲しみ情熱を感じる。そう感じるのは、僕だけではないだろう。
練習室のピアノは、調律されていないため弾きづらかったが、何とか止まることなく弾けた。
篠崎あいらが去ってから、僕は毎日、自宅の電子ピアノで練習した。今の僕には、これが精一杯だ。
「きゃ~、三好君すご~い~。何で音大行かなかったのお~」
前坂さんが拍手してくれた。狭い練習室に一人だけの拍手が響く。
久しぶりに耳にする賛辞だが、悪い気持ちではない。
一人だけの拍手……いや?
一人の拍手ではない。
サークルの他の人が聴いていたようだ。僕と前坂さんに割り当てられた練習時間は終わっていないが、早めに来たのだろう。
「前坂さん、そろそろ終わりにしましょう」
「終わらせないで。マサのピアノ、もっと聴かせてくれないの?」
――マサ――
声は目の前の先輩ではなく、練習室の入り口から高らかに響く。
僕の脳は事態を把握するのに精一杯で、ほかの機能はストップした。
「……な、なぜ君が?」
「遅くなりましたが、私も参加させてくださいね」
背の高い女が真っすぐな黒髪をたなびかせて、つかつかと入ってくる。
「マサ、情熱的な革命ね」
目の前に、以前と変わらない微笑みを湛えた青山星佳がいた。
僕の知らない間に、母があいらを責めたてたらしい。電話で母を問い詰めたところ、あっさりと「念のためよ。素直な子で良かったわ」と認める。
いくつかのやり取りのあと、母は泣き出した。と、信じられないことに父が電話に出た。まだ夜の七時なのに、家にいたのだ。
「女を泣かせるな。母さんも女だぞ」
よく言う! お前こそ散々母さんを泣かせた元凶だろ! 僕は何も返さず『通話終了』をタップした。
文化祭まで、あと一か月に迫った。
アンサンブルサークルの発表会まで時間がない。音大の子もゲスト参加するから、下手な演奏はしたくない。
サークルの練習室で、三年生の前坂由奈さんが歌う、グノーの『アヴェ・マリア』に合わせてピアノを弾く。
僕と青山星佳の出会いの曲。はじめ、この歌の伴奏するのは抵抗があった。
が、四か月も練習していれば抵抗は消える。前坂さんの歌は、聴ける歌になってきた。ゆるい音楽サークルの女子としては、上出来だ。クラシックをあまり知らない人なら、普通に上手だと思うだろう。
「三好くーん、彼女と別れちゃったんだぁ。じゃあさあ」
練習の合間に先輩が、椅子に座る僕の肩に触れてきた。このサークルでは、練習中は他のメンバーが入ってこないので、二人きりになることが多い。
何かと近づいてくる先輩を避けるため、篠崎あいらと付き合っていることにした。が、僕を守ってくれたバリアは破壊された。
あいらとのことは誰にも話していない。なのに先日、友人の堀口宗太から「あいらちゃんのどこが駄目なんだよ」と突っ込まれた。
どうも、実験中の僕ら二人の様子が激変したので、実験教室の連中全員が「別れた」と認定したらしい。
前坂さんにも、謎のルートで知られたのだろう。
かといって、この先輩に近づくつもりはない。僕は立ち上がって、彼女の手を振り払った。
「別れていません。親と揉めて距離を置いているだけです」
以前、僕があいらに使った付き合えない言い訳と同じだ。言い訳ではなく本当のことだが。
「うわあ、親が反対ってなんかカッコい~わぁ。実験パートナーの子、地雷ちゃんだったんだ」
「彼女は、地雷じゃありません!」
この女を突き飛ばしたくなる衝動を堪えようと、拳を握りしめる。
「やだ~、ごめんごめん。三好君、怒んないで~。ほら、文化祭のプログラムできたんだ~。この前、文化祭の実行委員会があったから、貰ったのお」
前坂さんは、窓際の棚に置いてあるA4サイズの冊子の束から二冊取り出し、一つを僕に渡した。
「表紙が現代アートっぽいですね」
未来都市と縄文時代の村落がミックスされた風景が描かれている。めくると何社もの企業広告ページが続き、特集ページに文化祭実行委員主催の大きなイベントが載っている。大学の春の名物、桜の広場も紹介されている。今の季節では赤く色づいた葉が茂っているが。
「うちのサークルですね」
冊子の中ほどのタイムテーブルに、サークル名と会場が掲載されている。
「そりゃそーだよ。参加費払ってるもん」
文化祭のメインイベントもたくさんあり、カラオケ大会や腕相撲、ロボットバトルなどが開かれる予定だ。
「有名人も呼ぶんですね」
YouTuberと声優のミニライブが開かれる。どちらも見たことがある。
「こういうオタク受けするアイドルって、あたし趣味じゃないけどね」
僕もそれほど趣味ではない。初めて前坂さんと嗜好が一致した。
「あたしは、この人がいいな~」
パラパラと先輩がめくったページには、長髪を束ねたあごひげの中年男が載っていた。
「すごい年上ですよ」
中年男の名は『四条リュー』。ニュース番組でよく見かけるコメンテーターだ。CMでも知っている。
「『きみから世界をはじめよう』って、指さしポーズするおじさんですよね」
何のCMか覚えていないが、胡散臭い親父の雰囲気は印象に残っている。
「この人ねえ、人生相談のYouTubeやってて、渋い声なんだあ」
テレビで時々見るから有名人なのだろうが、なぜ有名なのか良く知らなかった。
このプログラムによると、学生起業をサポートする会社の社長らしい。会社のCMがバズり、ニュースやワイドショーのコメンテーターとして呼ばれるようになったらしい。
これも知らなかったが、四条リューはうちの大学の情報工学科卒だ。なぜ文化祭に呼ばれたかはわかった。OBとしてトークショーを演じるらしい。
「リューちゃんはねえ、独身なんだよ。ほら、指輪ないでしょ?」
前坂さんはスマホで検索し、四条リューの講演会の写真を見せた。
「結婚して指輪しない人、いますよ」
「違うよお。バツイチなの。ふふ、カッコい~」
やはり僕と前坂さんの嗜好は一致しない。この人、若っぽく見せているが、僕の父より年が上だ。こういう親父は趣味ではない。
「そろそろ練習始めましょう」
「う~ん、あたしはもういーや。喉、疲れちゃうし。それより三好君のピアノソロ、聴きたいなあ」
「ピアノは、一人で練習できますから」
「でもさあ、実際に使うピアノでも練習して、人前で弾くの慣れた方がいいよお。あたし聴いたげる」
言われてみるとその通りな気もする。僕は先輩に従った。
曲は決まった。ショパンの「革命のエチュード」だ。
篠崎あいらと顔を合わせるのは、物理学実験のときだけ。LINEも途絶えた。
今は、葛城先生の研究室に通い、講義や他の実験、演習に集中するときだ。後期の成績を上げなければ、希望の学科に進めない。
ショパンの「革命のエチュード」。彼の祖国ポーランドがロシアの支配に抵抗し反旗を翻すが、ロシア軍に制圧されてしまう。ショパンは、遠く離れたパリで、祖国の敗北を知らされた。
この曲は左手の練習のために書かれた。曲に「革命」と名付けたのは、ショパン本人ではなく、友人のピアニスト、リストだ。
が、左手の畳みかけるアルペジオと右手の力強いオクターブの和音に、ただの練習曲とは思えない、やりきれない怒りや悲しみ情熱を感じる。そう感じるのは、僕だけではないだろう。
練習室のピアノは、調律されていないため弾きづらかったが、何とか止まることなく弾けた。
篠崎あいらが去ってから、僕は毎日、自宅の電子ピアノで練習した。今の僕には、これが精一杯だ。
「きゃ~、三好君すご~い~。何で音大行かなかったのお~」
前坂さんが拍手してくれた。狭い練習室に一人だけの拍手が響く。
久しぶりに耳にする賛辞だが、悪い気持ちではない。
一人だけの拍手……いや?
一人の拍手ではない。
サークルの他の人が聴いていたようだ。僕と前坂さんに割り当てられた練習時間は終わっていないが、早めに来たのだろう。
「前坂さん、そろそろ終わりにしましょう」
「終わらせないで。マサのピアノ、もっと聴かせてくれないの?」
――マサ――
声は目の前の先輩ではなく、練習室の入り口から高らかに響く。
僕の脳は事態を把握するのに精一杯で、ほかの機能はストップした。
「……な、なぜ君が?」
「遅くなりましたが、私も参加させてくださいね」
背の高い女が真っすぐな黒髪をたなびかせて、つかつかと入ってくる。
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