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二章 僕は彼女を離さない

33 半年ぶりの対面

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 桑原さんには、奥さんと子供がいる――篠崎あいらの「父親」に?

「母さん! 何言ってんだ!」

「あの子の地元では、ちょっとした騒ぎになったみたいよ」

 母は調査報告書のページをめくり、問題の箇所を見せた。あいらが生まれ育った家、祖父母、あいらの父の家族、あいらの母の高校などの写真と共に、地元関係者のコメントが載っている。
 僕は、テーブルの角を見るでもなく視界に写し、半分眠ったかのように意識を飛ばしていた。
 母は、淡々と滑らかに言葉を紡いだ。


 桑原さんの高校の関係者や親せきの話をまとめると、次のようなことがあったようだ。

 あいらの母となった女子生徒は、妊娠のため退学した。当時、生徒の担任だった桑原さんは責任を感じ、退学後も生徒をサポートしていた。
 長い間教師として、元教え子である母子を助けていた。が、桑原さんの息子が大学に入ったころ、彼とあいらの母は、教師と生徒の関係を超えてしまったらしい。
 あいらの中学卒業を目前に、二人の仲は明るみになった。同居していたあいらの祖父母は激怒し、母を家から追いだす。祖父母はあいらを引き取るつもりだったが、彼女は母を選んだ。
 不倫の発覚で桑原さんは高校退職を余儀なくされる。彼は、妻と息子を田舎に置いて、あいら母子と共に上京した。

 現在、桑原さんは、補習塾で数学講師のアルバイトを務めている――


「わかったでしょう? あの子と付き合ってはいけない理由が」

 僕は無言でテーブルの角を眺めていた。

「お母さんが高校生で未婚の母になるのも恥ずかしいのに、不倫しているのよ! デパートの掃除ぐらいなら我慢できるけど、略奪女の血を引いて育てられたなんて……まともな子じゃないわ!」

 母がヒステリックに怒鳴り散らす。怒鳴り声は、僕の脳を覚醒させた。

「それなら僕もまともな子ではありませんね。不倫男の息子ですから」

「お父さんは全然違うわ! ただの浮気だもの! 今は反省して家に帰っているもの」

「あいらが不倫したとか、略奪したとかあるんですか?」

 それは絶対ない。彼女は僕が最初の男で、ずっと僕のことを想ってくれている。

「そういうことではないの。問題ある家の子を、三好に入れるわけにいかないのよ!」

「結婚するわけじゃないから、関係ないだろ!」

「あの子に子供ができたらどうするの? あちらの両親が怒鳴り込んで結婚迫るかもしれないのよ!」

「子供は作らないように気をつけてる! 彼女は結婚を迫る女じゃない!」

 それは大丈夫だ。僕が付き合うつもりはないと知っているのに、彼女はマンションに来るのだから。

「目を覚ましなさい! とにかく今日は、家に帰るの」

 うるさい母に根負けし、母と共に実家に帰った。
 四か月ぶりの我が家。
 母が玄関のインターフォンを押すという、珍しい行動に出た。
 もっと信じられないことに、父がドアを開け迎えに来たのだ。


 普通の家なら当たり前の光景だろうが、僕にとってこれは異常事態だ。

「あ、ただいま……帰りました」

 先日、テストのことで揉めて以来、父とはLINEのやり取りすらない。気まずさで俯いた。この人も、母が手にしている調査報告書の内容を知っているに違いない。

「少し話すか」

 父に促され、僕はリビングに入り、L字コーナーソファの一辺に腰を下ろした。父は、L字のもう一つの辺に座った。僕と父の間には、二人分の空間ができた。
 母は例の青いファイルをテーブルに置いて、出ていった。父に僕を託した、ということなのだろうか。

「お前、本気で篠崎さんと付き合ってるのか?」

 面と向かって話すのは半年ぶりなのに、いきなりこれだ。そもそも僕とあいらの関係を、この男に報告する義務はない。

「答えないということは、やはり遊びだな。なら、あの子は止めた方がいい」

「彼女のお母さんが不倫してるからって関係ないだろ!」

「それはそれでやっかいだが、篠崎さんの素行が問題だ」

 あいらの素行? この男は何を言ってるんだ? 彼女に問題はない……はずだ。

「お母さんから聞かなかったのか? まああの人は、家柄や血筋の方に拘るからな……雅春、気になるか?」

 父の問いに答えられない。彼女の素行なんて知る必要はない……いや、僕の知らないところで彼女が何をしている?
 貧しい彼女は、家庭教師のバイトだけでは稼ぎが足りないのだろうか? まさか、パパ活でもしているのか? 滑らかな肌を僕の物ではない指が触れ、掠れた喘ぎ声を僕の物ではない耳が捉えているのか?
 僕の沈黙を父は肯定と受け取ったのか、テーブルの調査書を手に取ってページを開いた。

「二週間の調査を頼んだ。週に三回は家庭教師のアルバイトで、帰宅前にスーパーで食料品を購入か。その間一度、二人の女友達とカラオケに行ってるな。男と出かけた形跡はない……雅春、安心したか?」

「え?」

 バイトと家事手伝いが彼女の日課。一緒にカラオケに行った友達は、彼女がよく口にする「イッサとユイ」だろう。僕が知っている篠崎あいらそのものだ。

「父さん、彼女の素行のどこが問題なんです?」

「問題だらけだ。大学生らしいバイトをして、働く両親の代わりに買い物をする。しかもお前以外の男はいない。お母さんは、服は地味で化粧はしていないと言ってたな。報告書の写真の通りだ」

 地味で化粧をしていないと言われると腹が立ってくる。彼女はあれでいいのに。

「あいら……篠崎さんは、両親の期待に応えるためにがんばってます」

「ますます問題だ」

 父が「ったく」と舌打ちをした。こんな父の顔も久しぶりだ。

「お前は母さんに似て顔は悪くない。女の方から寄ってくるだろう。遊ぶのも人生勉強だ。が、相手は選べ」

 この男に『顔は悪くない』と言われても、全く嬉しくない。なお、この男も客観的に見れば、顔は悪くないのだろう。五十歳になったが髪はふさふさで黒々している。お腹は出ていないし背は僕より少し低いぐらい。若い時の写真を見ると、腹立たしいが『顔は悪くない』。

「彼女はすごいいい子です」

「だから問題なんだろ! 地味で男の影がないということは、お前に本気ということだ」

 父は何を主張している? あいらの気持ちは僕が一番わかっている。

「本気の子で遊ぶのは危険だ。いつか刺されても知らねーぞ」

「彼女はそんな子じゃない! そんなことするわけない!」

 あいらは『彼女になれないのはわかってる』

「お前は女の怖さをわかってない! 『結婚』なんて一切顔に出さなかった女が、突然『騙しやがって!』と詰め寄るんだぞ!」

 誰が父に『騙しやがって!』と言ったのか知らないが、彼のことだ。ひどく不誠実な対応をしたのだろう。
 でも、篠崎あいらはそういう女ではない。彼女は、レポートの仕上げは僕に頼るが、プラネタリウムは割り勘だ。奢るからと店に誘っても乗ってこない。彼女は僕に何も求めてこない。僕と過ごしたいから傍にいるだけだ。

 父が「早く手を切れ」と詰め寄っていると、母がリビングに現れ、僕と父の間に割って入った。

「マーちゃん! お父さんもそう言ってるでしょ! 今からでも遅くないわ。星佳ちゃんに謝るのよ! 私、星佳ちゃんに三好のお嫁さんになってほしいわ。ねえ、お父さんもそう思うでしょう?」

 なぜここで、青山星佳が出てくる?

「そうだな。雅春、青山さんとは真面目に付き合ってたからな」

「どういう意味です?」

 反射的に僕は、母の向こうに座る父に問い直した。まるであいらとは真面目に付き合ってないみたいだ……事実だが。

「篠崎さんの素行調査では、お前と会っているのはマンションだけだ。外に出かけた様子はない。お前、青山さんとはよくコンサートに行ってたじゃないか」

 僕は何も言い返せなかった……事実だから。が、一つ思い出した。父は、僕が星佳と別れたとき『よくやった』と褒めたのだ。信じられないことに。

「お父さん、僕が星佳と別れたとき、青山社長に貸しができた、と喜んでましたよね?」

「あなた、そんなひどいこと言ったの!?」

 母が父の腕をつねった。が、彼は「ああ、あれか」と、母の手を除ける。

「お前、あのとき落ち込んでいたからな。全くの無駄ではないことにしてやりたかったんだ」

 父が何を言いたいのか、さっぱりわからない。
 それから二人とも、あいらをマンションに入れるな、星佳と復縁しろ、と、しつこく迫った。

 青山星佳と復縁? 何も説明せず一方的に別れを宣告した彼女に、頭を下げろというのか? そんなことであの星佳が戻ってくれるのか? 戻ったとしても、僕は彼女に引け目を感じて付き合うことになる。
 失敗した。もともと僕は、今度付き合うなら星佳よりいい女、そう決めていた。信念を曲げ、篠崎あいらの誘いに乗ったのが、失敗だった。

 しかし。
 両親に発覚したぐらいで、あいらとのつながりを断ち切るのは、納得できない。
 彼女との付き合いは、物理学実験が続く一年生の間だけ。二年になり別の学科に所属すれば、僕と彼女の絆は自然に消えるだろう。
 が、まだその時ではない。後期実験は、二月いっぱいまである。
 篠崎あいらとの関係をいつ止めるか――決めるのは両親ではない。この僕だ。
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