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五章 選ばれた花婿
76 メッセージアプリの使い方
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『やめてください!』
タブレットに表示されたのは、先ほど全力で逃げた相手、フィッシャー・エルンストの顔だ。
「やだあああ! あたしは結婚しないの! アレックスはいいって言ってくれたの! お金ならがんばって返します!」
ショッピングセンターのバックヤードに、甲高い日本語の絶叫が響いた。
「ひみこさん、落ち着いてください。もうわかってます」
少女は「いやだあ!」「あっちいってえ!」とぎゃあぎゃあ騒ぐが、フィッシャーに宥められて、何とか自分を取り戻した。
「いいんですか? フィッシャーさん、私とアレックスが結婚しないと意味がないって……」
「……アレックスは、あなたよりもずっと相応しい相手を見つけました。仕方ありません」
ひみこの顔がパッと明るくなった。
「やっぱりアイーダさんと結婚するんだ」
ひみこは結婚式の直前、教会の控室で、アレックスの元恋人のアイーダと言葉を交わした。
女優はひみこよりずっと背が高く一七五センチはある。お互いの頬にキスをしていた二人は……似合いのカップルに見えた。
『彼の妻が存在するなんて許せないの』
アイーダは意地悪そうに笑っていた。彼女に悪意は感じられなかったが、その様子は寂しげで、ひみこは(この人、本当にアレックスが好きなんだ)と、切なくなった。
四年前、アレックスから、恋人と正月を過ごすと聞いた時、気持ち悪く感じたが、大分、嫌悪感は薄れた。
二人が結婚するのは素敵なことだと、ひみこは思う。
が、フィッシャーは否定した。
「結婚するとは聞いていません! それはどうでもいいことです!」
なぜかひみこは怒られた。アレックスがアイーダと結婚するかしないかは、確かに今はどうでもいいことだ。
「ひみこさん、そんなことより、公式サイトのメッセージ送信設定を勝手にいじらないでください」
まとめてメッセージに返信する仕組みは、フィッシャーたちが考えたようだ。
彼の目的はわかったが、ひみこは納得できない。
「ま、待ってください! 私はちゃんとみんなに返事がしたいんです」
「何万件来ていると思ってるんですか! 全部に返事していたら、何日徹夜したって終わりませんよ」
「そ、そうだけど……私は、自分がやったことは最低と思ってます。でも……先祖の日本語族全てが最低とは思われたくないんです」
「それは、あなたが戻ってから伝えたらどうでしょう?」
「戻ってから?」
ひみこは、ショッピングセンターのスタッフが届けてくれたパイナップルジュースを飲み込んだ。
「『近いうちにちゃんとみなさんの前に出て、話します』と言いましたよね」
「はい。そのつもりですが……」
「……とりあえず、あなたが余計なことしないように設定を変えます」
タブレットの画面から湧き出るメッセージが消え、人の名前が表示された。
アレックス・ダヤル
チャン・シュウイン
フィッシャー・エルンスト
グエン・ホア
カン・シフ
リー・ジミー
モーガン・ベス
「あ! みんな私の知っている人だ」
「両親に会うなら、まずチャン局長にアクセスすべきです」
ひみこは、アレックスが『保護局からのメッセージは先に見た方がいい』と言ったことを思い出す。
「それと邪馬台国についてもっと勉強したいんですよね?」
ひみこはコクンと頷く。確かに教会で宣言した。現実には厳しいと思っているが。
「ひみこさんが両親と面会できたら、我々に知らせてください。アジア文化研究センターの職員に採用します。あなたの日本語講座を再開しましょう」
「え、ええええ!」
ひみこは口に含んだパイナップルジュースを吹き出しそうになった。
「ただしあなたの給料は、アレックスのいたホテルの一泊料金よりずっと少ないので、注意してください」
ひみこにとって夢のような話だ。が、気がかりなこともある。
「アレックスは、私が戻っても大丈夫なんですか?」
元婚約者が支部長というのは、結婚式をあのように逃げ出した身としては、いくら和解したとはいえ気まずい。
「彼は、ネパールに異動になりました……安心しましたか?」
ひみこは首を振るが、内心ほっとする。
「フィッシャーさん、何でこんなに良くしてくれるんですか?」
金髪の中年男は生唾を飲み込み、ゴーグルを外した。義眼が埋め込まれた顔をひみこに晒す。
グラスの奥に隠された目は、ロボットのフィッシャーと同じで茶色いが、もっと小さく目尻が垂れていた。
ひみこは、ロボットに転送されたフィッシャーの顔には見慣れていたが、ロボットの彼はもっと目つきが鋭かった。
彼は頭を無言で垂れ、その後、ゴーグルを装着した。
「見苦しい物を見せて失礼。今までのこと、本当に申し訳ない」
「あ、それはいいんです。でも見苦しくないですよ。フィッシャーさんって、可愛いんですね。ゴーグルない方がイケてます」
「はあ!? 可愛い!? やめてください! この義眼は安物で何も見えません」
「そうだったんですか? 全然わからなかった」
言われなければ気がつかないぐらい、義眼はフィッシャーに馴染んでいた。人の好いおじさんの顔だ。ひみこはここに来て、彼のゴーグルの意味を理解した。
「へへ、フィッシャーさんって優しいんだ」
しかしフィッシャー・エルンストは、またロボットに戻ってしまった。
「優しさではありません。ひみこさんの雇用はセンターの利益になります。あなたの配信料は重要な収入源です。就職希望者も増えます」
ロボットの言葉でますますひみこは顔をほころばせる。
「そうなんだ! 私、みんなの役に立てるんだ!」
ひみこは、可哀相と言われるより、利益になると言われる方が嬉しくなる。可哀相な日本語族ではなく、普通の日本人として認められた証だから。
フィッシャー・エルンストはゴーグルをクイっと上げた。
「これは私の意志ではなく、アレックス・ダヤルの希望です」
フィッシャーとの通信を終え、ひみこは再び公式サイトのメッセージ管理画面に向き直る。
嫌なメッセージも見るべきだとひみこは思ったが、この場はフィッシャーたちに甘えることにした。
また画面にポツポツと新たなメッセージが表示される。フィッシャーがセレクトしたひみこの知り合いからではなく、一般人からだ。
『ひみこちゃん、グッジョブ!』
『変態じじいから逃げられてよかった~』
『ひみこちゃん、じーさんより、俺と結婚しよ~』
『日本語講座、待ってるね』
『ひみこ、クールだよ』
『ひみこのヤバイ歌、クセになる、どーしてくれる?』
──あれ? 何かさっきと違う。もしかしてこの人たちって、応援してくれるの?
ひみこがポカンと見つめていると、メッセージはまとめられ移動する。
『ありがとうございます。鈴木ひみこをこれからもよろしくお願いします』
自動的に返事が送信された。
ひみこの目にうっすら涙がにじみ出た。
結婚式をひどいやり方で逃亡したのに、それでも味方がいるのだ。
「ごめんね。もう少しだけ待っててね」
親のことが決着したら戻るから。
次のステップに進もう。アレックスの言葉を思い出す。
『保護局からのメッセージは先に見た方がいい』
「じゃあ、タマ、次は……」
ひみこが知っている数少ない人たち……この中でまず見るべきはチャン・シュウイン保護局長からのメッセージだ。
「タマあのね……ベス! ベスからメッセージ来てない?」
ひみこが選んだのは──モーガン・ベスだった。
保護局からのメッセージを読めば、両親の手がかりにつながる。
だが、今のひみこには、そこまでの勇気がなかった。
タブレットに表示されたのは、先ほど全力で逃げた相手、フィッシャー・エルンストの顔だ。
「やだあああ! あたしは結婚しないの! アレックスはいいって言ってくれたの! お金ならがんばって返します!」
ショッピングセンターのバックヤードに、甲高い日本語の絶叫が響いた。
「ひみこさん、落ち着いてください。もうわかってます」
少女は「いやだあ!」「あっちいってえ!」とぎゃあぎゃあ騒ぐが、フィッシャーに宥められて、何とか自分を取り戻した。
「いいんですか? フィッシャーさん、私とアレックスが結婚しないと意味がないって……」
「……アレックスは、あなたよりもずっと相応しい相手を見つけました。仕方ありません」
ひみこの顔がパッと明るくなった。
「やっぱりアイーダさんと結婚するんだ」
ひみこは結婚式の直前、教会の控室で、アレックスの元恋人のアイーダと言葉を交わした。
女優はひみこよりずっと背が高く一七五センチはある。お互いの頬にキスをしていた二人は……似合いのカップルに見えた。
『彼の妻が存在するなんて許せないの』
アイーダは意地悪そうに笑っていた。彼女に悪意は感じられなかったが、その様子は寂しげで、ひみこは(この人、本当にアレックスが好きなんだ)と、切なくなった。
四年前、アレックスから、恋人と正月を過ごすと聞いた時、気持ち悪く感じたが、大分、嫌悪感は薄れた。
二人が結婚するのは素敵なことだと、ひみこは思う。
が、フィッシャーは否定した。
「結婚するとは聞いていません! それはどうでもいいことです!」
なぜかひみこは怒られた。アレックスがアイーダと結婚するかしないかは、確かに今はどうでもいいことだ。
「ひみこさん、そんなことより、公式サイトのメッセージ送信設定を勝手にいじらないでください」
まとめてメッセージに返信する仕組みは、フィッシャーたちが考えたようだ。
彼の目的はわかったが、ひみこは納得できない。
「ま、待ってください! 私はちゃんとみんなに返事がしたいんです」
「何万件来ていると思ってるんですか! 全部に返事していたら、何日徹夜したって終わりませんよ」
「そ、そうだけど……私は、自分がやったことは最低と思ってます。でも……先祖の日本語族全てが最低とは思われたくないんです」
「それは、あなたが戻ってから伝えたらどうでしょう?」
「戻ってから?」
ひみこは、ショッピングセンターのスタッフが届けてくれたパイナップルジュースを飲み込んだ。
「『近いうちにちゃんとみなさんの前に出て、話します』と言いましたよね」
「はい。そのつもりですが……」
「……とりあえず、あなたが余計なことしないように設定を変えます」
タブレットの画面から湧き出るメッセージが消え、人の名前が表示された。
アレックス・ダヤル
チャン・シュウイン
フィッシャー・エルンスト
グエン・ホア
カン・シフ
リー・ジミー
モーガン・ベス
「あ! みんな私の知っている人だ」
「両親に会うなら、まずチャン局長にアクセスすべきです」
ひみこは、アレックスが『保護局からのメッセージは先に見た方がいい』と言ったことを思い出す。
「それと邪馬台国についてもっと勉強したいんですよね?」
ひみこはコクンと頷く。確かに教会で宣言した。現実には厳しいと思っているが。
「ひみこさんが両親と面会できたら、我々に知らせてください。アジア文化研究センターの職員に採用します。あなたの日本語講座を再開しましょう」
「え、ええええ!」
ひみこは口に含んだパイナップルジュースを吹き出しそうになった。
「ただしあなたの給料は、アレックスのいたホテルの一泊料金よりずっと少ないので、注意してください」
ひみこにとって夢のような話だ。が、気がかりなこともある。
「アレックスは、私が戻っても大丈夫なんですか?」
元婚約者が支部長というのは、結婚式をあのように逃げ出した身としては、いくら和解したとはいえ気まずい。
「彼は、ネパールに異動になりました……安心しましたか?」
ひみこは首を振るが、内心ほっとする。
「フィッシャーさん、何でこんなに良くしてくれるんですか?」
金髪の中年男は生唾を飲み込み、ゴーグルを外した。義眼が埋め込まれた顔をひみこに晒す。
グラスの奥に隠された目は、ロボットのフィッシャーと同じで茶色いが、もっと小さく目尻が垂れていた。
ひみこは、ロボットに転送されたフィッシャーの顔には見慣れていたが、ロボットの彼はもっと目つきが鋭かった。
彼は頭を無言で垂れ、その後、ゴーグルを装着した。
「見苦しい物を見せて失礼。今までのこと、本当に申し訳ない」
「あ、それはいいんです。でも見苦しくないですよ。フィッシャーさんって、可愛いんですね。ゴーグルない方がイケてます」
「はあ!? 可愛い!? やめてください! この義眼は安物で何も見えません」
「そうだったんですか? 全然わからなかった」
言われなければ気がつかないぐらい、義眼はフィッシャーに馴染んでいた。人の好いおじさんの顔だ。ひみこはここに来て、彼のゴーグルの意味を理解した。
「へへ、フィッシャーさんって優しいんだ」
しかしフィッシャー・エルンストは、またロボットに戻ってしまった。
「優しさではありません。ひみこさんの雇用はセンターの利益になります。あなたの配信料は重要な収入源です。就職希望者も増えます」
ロボットの言葉でますますひみこは顔をほころばせる。
「そうなんだ! 私、みんなの役に立てるんだ!」
ひみこは、可哀相と言われるより、利益になると言われる方が嬉しくなる。可哀相な日本語族ではなく、普通の日本人として認められた証だから。
フィッシャー・エルンストはゴーグルをクイっと上げた。
「これは私の意志ではなく、アレックス・ダヤルの希望です」
フィッシャーとの通信を終え、ひみこは再び公式サイトのメッセージ管理画面に向き直る。
嫌なメッセージも見るべきだとひみこは思ったが、この場はフィッシャーたちに甘えることにした。
また画面にポツポツと新たなメッセージが表示される。フィッシャーがセレクトしたひみこの知り合いからではなく、一般人からだ。
『ひみこちゃん、グッジョブ!』
『変態じじいから逃げられてよかった~』
『ひみこちゃん、じーさんより、俺と結婚しよ~』
『日本語講座、待ってるね』
『ひみこ、クールだよ』
『ひみこのヤバイ歌、クセになる、どーしてくれる?』
──あれ? 何かさっきと違う。もしかしてこの人たちって、応援してくれるの?
ひみこがポカンと見つめていると、メッセージはまとめられ移動する。
『ありがとうございます。鈴木ひみこをこれからもよろしくお願いします』
自動的に返事が送信された。
ひみこの目にうっすら涙がにじみ出た。
結婚式をひどいやり方で逃亡したのに、それでも味方がいるのだ。
「ごめんね。もう少しだけ待っててね」
親のことが決着したら戻るから。
次のステップに進もう。アレックスの言葉を思い出す。
『保護局からのメッセージは先に見た方がいい』
「じゃあ、タマ、次は……」
ひみこが知っている数少ない人たち……この中でまず見るべきはチャン・シュウイン保護局長からのメッセージだ。
「タマあのね……ベス! ベスからメッセージ来てない?」
ひみこが選んだのは──モーガン・ベスだった。
保護局からのメッセージを読めば、両親の手がかりにつながる。
だが、今のひみこには、そこまでの勇気がなかった。
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