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四章 花嫁
73 暁の女神ウシャス
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アレックスとアブリエットが出会ったばかりの2134年に、ハレー彗星が接近した。
子供のアブリエットと学生のアレックスは、既にロボット・パーラの発明で財を成したダヤルの力で、ハレー彗星ツアーに参加する。
五十年近く経った2182年4月3日、結婚式騒動の二日後、アレックスは一人、エジプトの皆既日食を見に行った。
ほぼ一日でアレックスの認証登録を済ませ、エジプトへのジェットが手配できたのは、フィッシャー・エルンストらスタッフの尋常ではない努力の賜物だった。
エジプトで見る皆既日食。アレックスは念願を叶えた。できれば誰かを連れてきたかったが、たまには一人で見るのも悪くはない。
乾いた風と青空、朝日を受けオレンジ色に輝く建物の群れがアレックスの心を沸き立たせる。
ルクソールから北西百キロに位置する街ギルガ。船着き場で、彼は、太陽観望仕様のサングラスを掛けて、ナイル川の向こうから昇った太陽に顔を向けた。
ギルガは、ギザやルクソールほど知られてはいないが、エジプト王朝発祥の地と言われる。そこから西十キロにある田舎の村、ベイト・ハラフには、ピラミッドの原型と言われる王の墓マスタバがある。日食が終わったら足を運んでみようかと、アレックスは太陽と逆の方向を向く。
川の船着き場には、彼と同様に、世紀の天体ショーを楽しむ人が十人ほど、集まってきた。
この中には、彼を知る者はいない。二日前、最後の日本語族の少女と結婚するはずだった老人は、恰好のスキャンダルの的だが、エジプトまで彼を追う者はいないようだ。
朝八時。太陽の西側が欠けてきた。あと一時間ほどですべて隠される。
彼は子供のように夢中になって、天体ショーを楽しんでいた。
だから背中にナイフを押し付けられるまで、人の悪意に気がつかなかった。
彼はウシャスの力を失った。人の善意も悪意もわからない。以前の彼なら殺意に気がついただろう。
物理攻撃から守ってくれるウィザードローブでも、ここまで接近されてはナイフを完全に食い止めることはできない。
「みんな日食を楽しんでいるんだ。ここで物騒なことは止めてほしいな」
ナイル川に目を向けたまま、アレックスは呟いた。
「そのまま我々に着いてきてください」
左右から別の人間が現れ、両腕を取られ、強制的に振り向かされた。
見ると、白い乗用車が停まっている。
相手が二人ぐらいなら脱出できようが、十人ほどの人間に囲まれてはどうにもならない。
「一時間以内に済ませてほしいな。日食を見たいんだよ」
そのまま白い車に乗せられる。十分ほどで、ギルガの高級ホテルに到着した。
ホテルの一室に連れていかれる。
奥のソファに、男が座っていた。アレックスはその男を良く知っていたので、自然、微笑がこぼれた。
「やあ、ルドラ。こんなに早く君に会えるなんて思ってもみなかったよ」
ダヤル社の現CEOが険しい顔を向けていた。
ルドラはアレックスに、結婚式が中止となった日、電話でネパールの保養所への異動を指示した。
あれから二日しか経ってない。
「ルドラ、穏やかではないね。こんなやり方をしなくても、普通に呼んでくれれば駆け付けたのにさ……君は僕の雇用主だからね」
アレックスは、二人の男に両肩を押さえつけられたまま、ソファに座らさた。ルドラと向きあう。
ダヤルのCEOは重々しく切り出した。
「アレックス……すまない。君の脳を、ダヤルのために提供してほしい」
一瞬、老人は口を歪ませるが、すぐ微笑を取り戻した。
「知っているだろう? 僕の脳は、もう空っぽだよ」
「だからだ……ラニカが君に授けたウシャスの特別なチップを、私たちにくれないか?」
男は笑ったまま首を傾げ、ゆったりと脚を組んだ。
「なるほどね。僕の脳からチップを取り出し……第二の僕を作り、ダヤルの脅迫者を黙らせる、というわけだね」
「地球の平和のためなんだ。私たちがいなくなれば、テロリストたちに支配された悪夢の世紀が蘇る!」
「そのために、この僕に死ね、と?」
「死、とは言ってない! 君の大脳に埋め込まれたチップを取り出すだけだ! ラニカと同じようなものだろ?」
偉大な母の息子は、ククと喉を鳴らす。
「ラニカはウシャス以後の記憶を失った。僕のチップは特別製で、さらに大脳に深く組み込まれている。チップを取り出したら、僕は人間ではいられなくなる。生命の維持すら危うい。だから君は『脳』をくれ、と言った」
「むごいことを頼んでいるのは承知だ! 君だって、ラニカの作り上げた世界が崩壊することに、耐えられないはずだ! このままではダヤル社は終わりなんだ!」
途端、アレックスは、笑い出した。
「あーっはっはっはっはっはっ!! ここでラニカの名を出せば、僕が喜んで命を差し出すと思ってるなんて、ルドラ! 本当に君は幸せな人生を送ってきたんだね!」
CEOは右手をゆっくりあげた。
「……私の良心として、できれば君には納得の上、選んで欲しかったが、それなら仕方ない」
「初めから僕に選択肢はなかったんだろ? 楽しみにしていたエジプトでの皆既日食を、台無しにしたぐらいだしな、が……僕が死んだら、世界はどうなると思う?」
青い眼光がCEOを鋭く突き刺す。が、ルドラはその光を跳ね返した。
「アレックス、わかっているだろうが、偉大なのはラニカ・ダヤルで、君はダヤルの一社員に過ぎない。君の持つダヤルの株は微々たるものだ」
「ははは! ルドラ、君はわかってない! 特別な力を持つこの僕が死ねば、太陽系中に散らばるウシャスは、どうなるだろうね?」
ホテルの空気が凍り付いた。
「……ま、まさか、ラニカがそんなことを? そんなはずがない!」
「僕は可能性を示しただけだ。でも、ラニカは僕にだけ特別な力を授けたんだよ。僕に何かあれば、報復措置が作動するかもしれない。一切のウシャスが停止する? 装着者の精神を破壊する? ……試せばいいよ、今すぐここで」
凍り付いた空気にヒビが入る。緊張感の中、男同士の視線が絡み合う。
数秒経過し、CEOが大きくため息をついた。凍った空気は融けて元に戻る。
ルドラは右手をゆっくり下げ、項垂れたまま首を振った。アレックスの両肩を抑えていた手が離れ、男たちは一歩退く。
「……私の負けだ、アレックス。ダヤルは今後、君の一生の安全を約束しよう」
「ありがとう、ルドラ。わかってくれて嬉しいよ……と、もういいかな? 太陽のダイヤモンドリングを見たいんだ」
アレックスは軽やかに立ち上がり、ホテルのドアへ向かう。
「まっ! 待ってくれ!」
ダヤルのCEOが立ち上がり、大男の袖に縋りついた。
「君が生きている限り、私たちは君を守ろう! しかし、君を永遠に生かすことはできない。もし……本当に君がいなくなったら……ウシャスは……この世界はどうなる?」
「さあ……まあ、僕は君よりずっと年上だが、それでもしばらくは生きるつもりだよ」
「君の見た目は私と変わらない。あと三十年、いや五十年は生きられるかもしれない……でもその後は?」
アレックスは顔を崩し、CEOの腕を振り払った。
「簡単だろ? ウシャスをなくせばいい」
ウシャスの申し子は、心の底から嬉しそうに笑った。
「バ、バカな……君がそれを言うのか?」
「ウシャスをなくせば、僕が生きようが死のうが世界は関係ないだろ? ダヤル社が脅されるのも、ウシャスを使ってマインドコントロールをするからだ」
「ありえない! ウシャスがあってのダヤルだ!」
アレックスはドアにもたれかかって腕を組む。
「五十年前に開発された技術にいつまでも頼るのは、企業として怠慢じゃないか。せいぜい僕は長生きに努めるよ。その間、ウシャスのない世界を作ればいい」
ルドラは涙を浮かべてひざまずく。アレックスは、CEOの涙で濡れた頬をそっと拭った。
「心配しなくても、刺激に飢えた大衆と、彼らの欲を満たそうとするジャーナリストが、新しい世界を作ってくれるよ」
ナイル川沿いのホテルのドアが、ゆっくり閉ざされた。
子供のアブリエットと学生のアレックスは、既にロボット・パーラの発明で財を成したダヤルの力で、ハレー彗星ツアーに参加する。
五十年近く経った2182年4月3日、結婚式騒動の二日後、アレックスは一人、エジプトの皆既日食を見に行った。
ほぼ一日でアレックスの認証登録を済ませ、エジプトへのジェットが手配できたのは、フィッシャー・エルンストらスタッフの尋常ではない努力の賜物だった。
エジプトで見る皆既日食。アレックスは念願を叶えた。できれば誰かを連れてきたかったが、たまには一人で見るのも悪くはない。
乾いた風と青空、朝日を受けオレンジ色に輝く建物の群れがアレックスの心を沸き立たせる。
ルクソールから北西百キロに位置する街ギルガ。船着き場で、彼は、太陽観望仕様のサングラスを掛けて、ナイル川の向こうから昇った太陽に顔を向けた。
ギルガは、ギザやルクソールほど知られてはいないが、エジプト王朝発祥の地と言われる。そこから西十キロにある田舎の村、ベイト・ハラフには、ピラミッドの原型と言われる王の墓マスタバがある。日食が終わったら足を運んでみようかと、アレックスは太陽と逆の方向を向く。
川の船着き場には、彼と同様に、世紀の天体ショーを楽しむ人が十人ほど、集まってきた。
この中には、彼を知る者はいない。二日前、最後の日本語族の少女と結婚するはずだった老人は、恰好のスキャンダルの的だが、エジプトまで彼を追う者はいないようだ。
朝八時。太陽の西側が欠けてきた。あと一時間ほどですべて隠される。
彼は子供のように夢中になって、天体ショーを楽しんでいた。
だから背中にナイフを押し付けられるまで、人の悪意に気がつかなかった。
彼はウシャスの力を失った。人の善意も悪意もわからない。以前の彼なら殺意に気がついただろう。
物理攻撃から守ってくれるウィザードローブでも、ここまで接近されてはナイフを完全に食い止めることはできない。
「みんな日食を楽しんでいるんだ。ここで物騒なことは止めてほしいな」
ナイル川に目を向けたまま、アレックスは呟いた。
「そのまま我々に着いてきてください」
左右から別の人間が現れ、両腕を取られ、強制的に振り向かされた。
見ると、白い乗用車が停まっている。
相手が二人ぐらいなら脱出できようが、十人ほどの人間に囲まれてはどうにもならない。
「一時間以内に済ませてほしいな。日食を見たいんだよ」
そのまま白い車に乗せられる。十分ほどで、ギルガの高級ホテルに到着した。
ホテルの一室に連れていかれる。
奥のソファに、男が座っていた。アレックスはその男を良く知っていたので、自然、微笑がこぼれた。
「やあ、ルドラ。こんなに早く君に会えるなんて思ってもみなかったよ」
ダヤル社の現CEOが険しい顔を向けていた。
ルドラはアレックスに、結婚式が中止となった日、電話でネパールの保養所への異動を指示した。
あれから二日しか経ってない。
「ルドラ、穏やかではないね。こんなやり方をしなくても、普通に呼んでくれれば駆け付けたのにさ……君は僕の雇用主だからね」
アレックスは、二人の男に両肩を押さえつけられたまま、ソファに座らさた。ルドラと向きあう。
ダヤルのCEOは重々しく切り出した。
「アレックス……すまない。君の脳を、ダヤルのために提供してほしい」
一瞬、老人は口を歪ませるが、すぐ微笑を取り戻した。
「知っているだろう? 僕の脳は、もう空っぽだよ」
「だからだ……ラニカが君に授けたウシャスの特別なチップを、私たちにくれないか?」
男は笑ったまま首を傾げ、ゆったりと脚を組んだ。
「なるほどね。僕の脳からチップを取り出し……第二の僕を作り、ダヤルの脅迫者を黙らせる、というわけだね」
「地球の平和のためなんだ。私たちがいなくなれば、テロリストたちに支配された悪夢の世紀が蘇る!」
「そのために、この僕に死ね、と?」
「死、とは言ってない! 君の大脳に埋め込まれたチップを取り出すだけだ! ラニカと同じようなものだろ?」
偉大な母の息子は、ククと喉を鳴らす。
「ラニカはウシャス以後の記憶を失った。僕のチップは特別製で、さらに大脳に深く組み込まれている。チップを取り出したら、僕は人間ではいられなくなる。生命の維持すら危うい。だから君は『脳』をくれ、と言った」
「むごいことを頼んでいるのは承知だ! 君だって、ラニカの作り上げた世界が崩壊することに、耐えられないはずだ! このままではダヤル社は終わりなんだ!」
途端、アレックスは、笑い出した。
「あーっはっはっはっはっはっ!! ここでラニカの名を出せば、僕が喜んで命を差し出すと思ってるなんて、ルドラ! 本当に君は幸せな人生を送ってきたんだね!」
CEOは右手をゆっくりあげた。
「……私の良心として、できれば君には納得の上、選んで欲しかったが、それなら仕方ない」
「初めから僕に選択肢はなかったんだろ? 楽しみにしていたエジプトでの皆既日食を、台無しにしたぐらいだしな、が……僕が死んだら、世界はどうなると思う?」
青い眼光がCEOを鋭く突き刺す。が、ルドラはその光を跳ね返した。
「アレックス、わかっているだろうが、偉大なのはラニカ・ダヤルで、君はダヤルの一社員に過ぎない。君の持つダヤルの株は微々たるものだ」
「ははは! ルドラ、君はわかってない! 特別な力を持つこの僕が死ねば、太陽系中に散らばるウシャスは、どうなるだろうね?」
ホテルの空気が凍り付いた。
「……ま、まさか、ラニカがそんなことを? そんなはずがない!」
「僕は可能性を示しただけだ。でも、ラニカは僕にだけ特別な力を授けたんだよ。僕に何かあれば、報復措置が作動するかもしれない。一切のウシャスが停止する? 装着者の精神を破壊する? ……試せばいいよ、今すぐここで」
凍り付いた空気にヒビが入る。緊張感の中、男同士の視線が絡み合う。
数秒経過し、CEOが大きくため息をついた。凍った空気は融けて元に戻る。
ルドラは右手をゆっくり下げ、項垂れたまま首を振った。アレックスの両肩を抑えていた手が離れ、男たちは一歩退く。
「……私の負けだ、アレックス。ダヤルは今後、君の一生の安全を約束しよう」
「ありがとう、ルドラ。わかってくれて嬉しいよ……と、もういいかな? 太陽のダイヤモンドリングを見たいんだ」
アレックスは軽やかに立ち上がり、ホテルのドアへ向かう。
「まっ! 待ってくれ!」
ダヤルのCEOが立ち上がり、大男の袖に縋りついた。
「君が生きている限り、私たちは君を守ろう! しかし、君を永遠に生かすことはできない。もし……本当に君がいなくなったら……ウシャスは……この世界はどうなる?」
「さあ……まあ、僕は君よりずっと年上だが、それでもしばらくは生きるつもりだよ」
「君の見た目は私と変わらない。あと三十年、いや五十年は生きられるかもしれない……でもその後は?」
アレックスは顔を崩し、CEOの腕を振り払った。
「簡単だろ? ウシャスをなくせばいい」
ウシャスの申し子は、心の底から嬉しそうに笑った。
「バ、バカな……君がそれを言うのか?」
「ウシャスをなくせば、僕が生きようが死のうが世界は関係ないだろ? ダヤル社が脅されるのも、ウシャスを使ってマインドコントロールをするからだ」
「ありえない! ウシャスがあってのダヤルだ!」
アレックスはドアにもたれかかって腕を組む。
「五十年前に開発された技術にいつまでも頼るのは、企業として怠慢じゃないか。せいぜい僕は長生きに努めるよ。その間、ウシャスのない世界を作ればいい」
ルドラは涙を浮かべてひざまずく。アレックスは、CEOの涙で濡れた頬をそっと拭った。
「心配しなくても、刺激に飢えた大衆と、彼らの欲を満たそうとするジャーナリストが、新しい世界を作ってくれるよ」
ナイル川沿いのホテルのドアが、ゆっくり閉ざされた。
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