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四章 花嫁
72 羨ましい若さ
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フィッシャー・エルンストは、ホテルの廊下で所在なくウロウロしていた。
『アレクが目覚めたら知らせるから』
そう言ってアイーダはドアを閉めた。
それからフィッシャーは、マスコミ対策に追われた。未だに研究センターのスタッフは問い合わせに対応している。
鈴木ひみこの公式サイトは、メッセージに溢れ返っている。内容に即した返信がされるよう、自動化した。
まだまだ油断はできないが、スタッフに指示し人心地着いたところ、彼は上司の様子が気になってきた。
フィッシャーはウロウロしながら考える。アレックスはなぜ、鈴木ひみこを見逃したのか? 上司は、倫理観の欠片もなく彼女を手に入れようとした。なのに、彼はひみこを解放した。
考えるまでもない。とてもシンプルな理由で、彼は鈴木ひみこを手放した。もう彼に彼女は必要ないのだ。
が、そのシンプルな理由は、フィッシャー・エルンストのささやかな望みを阻害するものだ。
もういいのではないか。ダヤルのためではなく、自分の望みのために行動しても……だから秘書は行動に移した。
フィッシャーは、アレックス・ダヤルの部屋のインターフォンを押した。
笑顔の上司が、迎え入れてくれる。
「アーン、ありがとう。少しは落ち着いたかい?」
フィッシャーが部屋に入ると、リビングのソファでアイーダがくつろいでいた。
結婚式で腕を組んで並んだ大女優が、穏やかに微笑んでいる。
「はい。マスコミ対応は済んでいます。ですが……鈴木ひみこさんが心配です。あなたは彼女に全てを解放しましたが、公式サイトに来たメッセージをひみこさんが見たら、ひどく傷つくでしょう」
秘書は俯いて声を低く落とした。上司が愛した少女を心の底から心配している風に。
ポンと、アレックスはゴーグルの男の肩を叩いた。
「君は優しいね。その優しさに甘えていいかい? 彼女を正式にアジア文化研究センターの広報と研究担当のスタッフとして雇用し、これからも助けてほしい」
フィッシャーはパッと顔を上げる。
「それはいい案です! 財団は、鈴木ひみこさんと協力関係にあることをPRできます。今回の騒ぎは、ひみこさんが若すぎたからにすぎない。彼女が大人になったら、もう一度、結婚に向けて話し合ってはいかがでしょう?」
アレックスは秘書の言葉に首を振る。
「結婚はもうないよ。シュウが提案した彼……カン・シフの方が、彼女の相手に相応しい。年も近く、見どころがある若者だ」
「しかし、彼は鳥取の大学生です。札幌までは来られません」
「彼は、北海道大学を志望していた。成績は全く問題なかった……でも入学はできず、今、地元の大学に通っている。優秀だから北大に編入してもいいし、卒業してから札幌で働いてもいい」
彼が入学できなかったのは……が、フィッシャーは言葉を飲み込み、何とか励ます言葉を探した。
「アレックス。あなたは鈴木ひみこさんを妻にしようと、イタリアのパレオロゴ本家まで出向いて、ティアラの宝石を譲り受けたではありませんか」
フィッシャーの熱弁にアレックスは寂しげに答えた。
「残念ながら、僕は、彼女を、いや、どんな女も幸せにはできないよ……ウシャスがなくなったんだ……君にもわかるだろ?」
ウシャスがなくなる? フィッシャーにはわからなかった。鈴木ひみこのように生まれつき装着できない、というのはわかるが、ウシャスの申し子で違法なハッキングを散々やってきたこの男から、力がなくなる?
しかし、フィッシャーのゴーグルから得られる情報に、アレックスの姿はあるが……彼自身が感じられない。
「いいんじゃないアレク。あなた充分、楽しんできたでしょ?」
アイーダが立ち上がってアレックスの腕を取った。
女優のトロンとした目つきが、秘書を奮い立たせる。
「あ、あのウシャスのことはわかりませんが、あなたとの贅沢な暮らしに慣れた彼女が、財団の給与と政府の保護費だけで生活できるでしょうか?」
「ひみこは大丈夫だよ。あの子は賢いし君たちがいる。僕はもう、彼女を守れない。ネパールの保養所に異動になった」
ネパールの保養所? フィッシャーは、タスマニアの前任者から聞いたことを思い出す。アレックスはおおむね五年ごとに異動している。
「異動の前にエジプトの皆既日食を見に行くよ。一人でハネムーンは寂しいなあ。アブリエット、付き合わないかい?」
フィッシャーの耳がピクっと動く。アイーダの本当の名を知る者は少ない。
「あなたわかってないのね。私、エジプトもエチオピアも大っ嫌い! あいつらが私の生まれた国をグチャグチャにしたのよ! エジプトには一人で行きなさい!」
アイーダがアレックスの袖越しに腕をつねった。
「大丈夫だよ。一人旅は慣れている。アーン、よろしく頼むよ」
「ホテルの精算、あなたのオフィスの片づけ、ジェットの手配、保養所へ必要物資の手配依頼、それと向こうのあなたの新しい秘書へ引き継ぎですね!」
「さすがだ。いや、その前に、ウシャスがなくなった僕には、新たな認証登録が必要だな。このままではジェットに乗るどころか、買い物もできない」
「認証登録ですか……ではエジプト行きは諦めてください。時間がかかります」
「君は優秀な秘書だ。大丈夫だよ」
優秀!? フィッシャーはアレックスの笑顔に殺意を覚えた。認証登録をするのは札幌特別区役所の担当者であって、申請者が「優秀」でもどうにもならない。
フィッシャーが殺意で拳を握りしめていると、アイーダが割り込んだ。
「こんな素敵な秘書さんにわがまま言って、アレクって最低よ! ひみこが逃げ出せてよかった」
ベテラン女優が、子供のように男の頬をつねる。
「いたたた、君はちっちゃい時から、いたずらっ子だねえ。悪い子には罰を与えないと」
瞬間、フィッシャーは背中を向ける。彼のグラスにはホテルのドアが映ったが、耳は濃厚な口づけの音を拾ってしまった。
「あ、ダメって、アレク……ほら、そこの真面目な秘書さんが困ってるじゃない」
「君がさっきから僕に悪いことをするからだろ?」
聞きたくない音なのに、フィッシャーの聴覚は聞き取ってしまう。二人が抱き合い唇を重ねる音を。
耐え切れず秘書は、ドアのノブに手を掛けた。が、上司の言葉に手を止める。
「アーン、心配しなくていいよ。僕は、ダヤル社の経営にタッチするつもりはない」
それは、フィッシャーがひみこを強引に引き留めようと口走ったことへの答え。
『ダヤル社としては、ラニカの一人息子には趣味に没頭してもらえるのが、一番ありがたいんです。本社の経営には口出ししてほしくありませんからね』
あれを聞かれていたのか!
慌ててフィッシャーは振り返る。そこには大女優を抱きしめ、ソファでくつろぐマハラジャがいた。
「『ニルヴァーナ』は、ほどほどにするんだよ。理想の死者と関わるのは危険だから」
死者との交流サイト『ニルヴァーナ』は、フィッシャーが五歳の時に死んだ両親に会えるVR空間だ。会員データを削除すると脅した上司から説教されても、フィッシャーは面白くないだけだ。
「それと、ウシャスのゴーグルがなくても生きていけるよう、力をつけた方がいい」
「どういうことです?」
「僕は君が好きだから警告しておく。ダヤル社は創業六十年だ。いつまでもあると思わないことだ」
秘書は上司の言葉が理解できない。心と心をつなぐウシャスの力によって保たれている、地球の平和。対抗する企業は見当たらないのに。
もうすぐ別れる上司に、フィッシャーは餞別を贈った。
「……たまには起きて仕事をしていただけると、助かったんですがね」
「はは、君たちが優秀だから僕の出番はなかった」
アイーダが、またアレックスの頬をつねった。
「アレクって仕事しないで迷惑ばかりかけてどうしようもない人! でも女の才能はわかるみたいね。ひみこはきっと、大きな仕事を成し遂げるわ」
「アブリエット、誰も君には叶わないよ」
「当たり前でしょ!」
老人カップルは、秘書の目前でまたキスを始めた。
フィッシャーはわざとらしく大きな音を立ててドアを閉める。
ホテルの別室に待機していたスタッフに、アレックスの認証登録や異動にまつわる諸事を指示した。
フィッシャーは、アレックス・ダヤルが、あそこまで執着した少女を手放した理由を理解していた。アイーダがいたからだ。
大女優アイーダには二回の結婚を含め恋の噂が絶えない。相手は各界の著名人が多い。しかし、別れと復縁を繰り返すのは、アレックス・ダヤルだけ。
フィッシャーは、結婚式で初めて本物のアイーダに会った。腕を取られ結婚式では隣り合って座った。
彼のささやかな望み。自分が大女優の恋の相手になる……というのは、さすがにおこがましすぎる。が、せめて彼女には、フィッシャーが納得できる相手と結ばれ幸せになってほしい。
アレックス・ダヤルの秘書を務めて五年近くになる。フィッシャー・エルンストは確信した。この男はアイーダの相手に相応しくない。
だから何が何でも鈴木ひみこと結婚させたかったが……ささやかな望みは叶いそうもない。
「ざけんじゃねー! あのクソじじい! 俺のアブリエットちゃんを、おもちゃにしやがって!!」
赤いカーペットが敷き詰められたホテルの廊下で、フィッシャーは母語で叫ぶ。亡き父母に会える『ニルヴァーナ』でしか使わない言葉に、幼い時から孤独な人生を支えてくれた大女優への思いを乗せる。
フィッシャーの父が生きていたらアレックスと同い年になるはずだが、彼のゴーグルが伝える情報によると、五十歳前後に見える。四十代後半の自分とさほど変わらない。
鍛えられた身体。難しいVRゲームをこなす瞬発力。
そして大女優アイーダの心をとらえて離さない不可思議な魅力。
フィッシャー・エルンストは、アレックス・ダヤルの若さが羨ましかった。
『アレクが目覚めたら知らせるから』
そう言ってアイーダはドアを閉めた。
それからフィッシャーは、マスコミ対策に追われた。未だに研究センターのスタッフは問い合わせに対応している。
鈴木ひみこの公式サイトは、メッセージに溢れ返っている。内容に即した返信がされるよう、自動化した。
まだまだ油断はできないが、スタッフに指示し人心地着いたところ、彼は上司の様子が気になってきた。
フィッシャーはウロウロしながら考える。アレックスはなぜ、鈴木ひみこを見逃したのか? 上司は、倫理観の欠片もなく彼女を手に入れようとした。なのに、彼はひみこを解放した。
考えるまでもない。とてもシンプルな理由で、彼は鈴木ひみこを手放した。もう彼に彼女は必要ないのだ。
が、そのシンプルな理由は、フィッシャー・エルンストのささやかな望みを阻害するものだ。
もういいのではないか。ダヤルのためではなく、自分の望みのために行動しても……だから秘書は行動に移した。
フィッシャーは、アレックス・ダヤルの部屋のインターフォンを押した。
笑顔の上司が、迎え入れてくれる。
「アーン、ありがとう。少しは落ち着いたかい?」
フィッシャーが部屋に入ると、リビングのソファでアイーダがくつろいでいた。
結婚式で腕を組んで並んだ大女優が、穏やかに微笑んでいる。
「はい。マスコミ対応は済んでいます。ですが……鈴木ひみこさんが心配です。あなたは彼女に全てを解放しましたが、公式サイトに来たメッセージをひみこさんが見たら、ひどく傷つくでしょう」
秘書は俯いて声を低く落とした。上司が愛した少女を心の底から心配している風に。
ポンと、アレックスはゴーグルの男の肩を叩いた。
「君は優しいね。その優しさに甘えていいかい? 彼女を正式にアジア文化研究センターの広報と研究担当のスタッフとして雇用し、これからも助けてほしい」
フィッシャーはパッと顔を上げる。
「それはいい案です! 財団は、鈴木ひみこさんと協力関係にあることをPRできます。今回の騒ぎは、ひみこさんが若すぎたからにすぎない。彼女が大人になったら、もう一度、結婚に向けて話し合ってはいかがでしょう?」
アレックスは秘書の言葉に首を振る。
「結婚はもうないよ。シュウが提案した彼……カン・シフの方が、彼女の相手に相応しい。年も近く、見どころがある若者だ」
「しかし、彼は鳥取の大学生です。札幌までは来られません」
「彼は、北海道大学を志望していた。成績は全く問題なかった……でも入学はできず、今、地元の大学に通っている。優秀だから北大に編入してもいいし、卒業してから札幌で働いてもいい」
彼が入学できなかったのは……が、フィッシャーは言葉を飲み込み、何とか励ます言葉を探した。
「アレックス。あなたは鈴木ひみこさんを妻にしようと、イタリアのパレオロゴ本家まで出向いて、ティアラの宝石を譲り受けたではありませんか」
フィッシャーの熱弁にアレックスは寂しげに答えた。
「残念ながら、僕は、彼女を、いや、どんな女も幸せにはできないよ……ウシャスがなくなったんだ……君にもわかるだろ?」
ウシャスがなくなる? フィッシャーにはわからなかった。鈴木ひみこのように生まれつき装着できない、というのはわかるが、ウシャスの申し子で違法なハッキングを散々やってきたこの男から、力がなくなる?
しかし、フィッシャーのゴーグルから得られる情報に、アレックスの姿はあるが……彼自身が感じられない。
「いいんじゃないアレク。あなた充分、楽しんできたでしょ?」
アイーダが立ち上がってアレックスの腕を取った。
女優のトロンとした目つきが、秘書を奮い立たせる。
「あ、あのウシャスのことはわかりませんが、あなたとの贅沢な暮らしに慣れた彼女が、財団の給与と政府の保護費だけで生活できるでしょうか?」
「ひみこは大丈夫だよ。あの子は賢いし君たちがいる。僕はもう、彼女を守れない。ネパールの保養所に異動になった」
ネパールの保養所? フィッシャーは、タスマニアの前任者から聞いたことを思い出す。アレックスはおおむね五年ごとに異動している。
「異動の前にエジプトの皆既日食を見に行くよ。一人でハネムーンは寂しいなあ。アブリエット、付き合わないかい?」
フィッシャーの耳がピクっと動く。アイーダの本当の名を知る者は少ない。
「あなたわかってないのね。私、エジプトもエチオピアも大っ嫌い! あいつらが私の生まれた国をグチャグチャにしたのよ! エジプトには一人で行きなさい!」
アイーダがアレックスの袖越しに腕をつねった。
「大丈夫だよ。一人旅は慣れている。アーン、よろしく頼むよ」
「ホテルの精算、あなたのオフィスの片づけ、ジェットの手配、保養所へ必要物資の手配依頼、それと向こうのあなたの新しい秘書へ引き継ぎですね!」
「さすがだ。いや、その前に、ウシャスがなくなった僕には、新たな認証登録が必要だな。このままではジェットに乗るどころか、買い物もできない」
「認証登録ですか……ではエジプト行きは諦めてください。時間がかかります」
「君は優秀な秘書だ。大丈夫だよ」
優秀!? フィッシャーはアレックスの笑顔に殺意を覚えた。認証登録をするのは札幌特別区役所の担当者であって、申請者が「優秀」でもどうにもならない。
フィッシャーが殺意で拳を握りしめていると、アイーダが割り込んだ。
「こんな素敵な秘書さんにわがまま言って、アレクって最低よ! ひみこが逃げ出せてよかった」
ベテラン女優が、子供のように男の頬をつねる。
「いたたた、君はちっちゃい時から、いたずらっ子だねえ。悪い子には罰を与えないと」
瞬間、フィッシャーは背中を向ける。彼のグラスにはホテルのドアが映ったが、耳は濃厚な口づけの音を拾ってしまった。
「あ、ダメって、アレク……ほら、そこの真面目な秘書さんが困ってるじゃない」
「君がさっきから僕に悪いことをするからだろ?」
聞きたくない音なのに、フィッシャーの聴覚は聞き取ってしまう。二人が抱き合い唇を重ねる音を。
耐え切れず秘書は、ドアのノブに手を掛けた。が、上司の言葉に手を止める。
「アーン、心配しなくていいよ。僕は、ダヤル社の経営にタッチするつもりはない」
それは、フィッシャーがひみこを強引に引き留めようと口走ったことへの答え。
『ダヤル社としては、ラニカの一人息子には趣味に没頭してもらえるのが、一番ありがたいんです。本社の経営には口出ししてほしくありませんからね』
あれを聞かれていたのか!
慌ててフィッシャーは振り返る。そこには大女優を抱きしめ、ソファでくつろぐマハラジャがいた。
「『ニルヴァーナ』は、ほどほどにするんだよ。理想の死者と関わるのは危険だから」
死者との交流サイト『ニルヴァーナ』は、フィッシャーが五歳の時に死んだ両親に会えるVR空間だ。会員データを削除すると脅した上司から説教されても、フィッシャーは面白くないだけだ。
「それと、ウシャスのゴーグルがなくても生きていけるよう、力をつけた方がいい」
「どういうことです?」
「僕は君が好きだから警告しておく。ダヤル社は創業六十年だ。いつまでもあると思わないことだ」
秘書は上司の言葉が理解できない。心と心をつなぐウシャスの力によって保たれている、地球の平和。対抗する企業は見当たらないのに。
もうすぐ別れる上司に、フィッシャーは餞別を贈った。
「……たまには起きて仕事をしていただけると、助かったんですがね」
「はは、君たちが優秀だから僕の出番はなかった」
アイーダが、またアレックスの頬をつねった。
「アレクって仕事しないで迷惑ばかりかけてどうしようもない人! でも女の才能はわかるみたいね。ひみこはきっと、大きな仕事を成し遂げるわ」
「アブリエット、誰も君には叶わないよ」
「当たり前でしょ!」
老人カップルは、秘書の目前でまたキスを始めた。
フィッシャーはわざとらしく大きな音を立ててドアを閉める。
ホテルの別室に待機していたスタッフに、アレックスの認証登録や異動にまつわる諸事を指示した。
フィッシャーは、アレックス・ダヤルが、あそこまで執着した少女を手放した理由を理解していた。アイーダがいたからだ。
大女優アイーダには二回の結婚を含め恋の噂が絶えない。相手は各界の著名人が多い。しかし、別れと復縁を繰り返すのは、アレックス・ダヤルだけ。
フィッシャーは、結婚式で初めて本物のアイーダに会った。腕を取られ結婚式では隣り合って座った。
彼のささやかな望み。自分が大女優の恋の相手になる……というのは、さすがにおこがましすぎる。が、せめて彼女には、フィッシャーが納得できる相手と結ばれ幸せになってほしい。
アレックス・ダヤルの秘書を務めて五年近くになる。フィッシャー・エルンストは確信した。この男はアイーダの相手に相応しくない。
だから何が何でも鈴木ひみこと結婚させたかったが……ささやかな望みは叶いそうもない。
「ざけんじゃねー! あのクソじじい! 俺のアブリエットちゃんを、おもちゃにしやがって!!」
赤いカーペットが敷き詰められたホテルの廊下で、フィッシャーは母語で叫ぶ。亡き父母に会える『ニルヴァーナ』でしか使わない言葉に、幼い時から孤独な人生を支えてくれた大女優への思いを乗せる。
フィッシャーの父が生きていたらアレックスと同い年になるはずだが、彼のゴーグルが伝える情報によると、五十歳前後に見える。四十代後半の自分とさほど変わらない。
鍛えられた身体。難しいVRゲームをこなす瞬発力。
そして大女優アイーダの心をとらえて離さない不可思議な魅力。
フィッシャー・エルンストは、アレックス・ダヤルの若さが羨ましかった。
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