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四章 花嫁

59 真意

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「いやああああ!」

 ひみこは勢いよくホテルの部屋を飛び出した。
 唇をグイグイこする。うう! ファーストキスだったのに、よりによって、あんなゴムロボット、偽者アレックスに奪われてしまった。
 では、本物だったら? もっとあり得ない!

 彼女は無我夢中で走った。目指すははアレックスのいるオフィス、アジア文化研究センター日本支部。
 予定外の訪問だったが、オフィスのゲートが難なく開く。廊下に人の足の形をした赤い光が点滅し、ひみこを支部長室まで誘導してくれる。
 オフィスのシステムが、アレックスのフィアンセである彼女を認識する。

 アレックスは、勢いよく支部長室に入ってきた婚約者を熱い抱擁で迎えようとする。
 が、少女は男の腕を拒絶した

「やめろ! それどころじゃないんだ」

「僕の天使、落ち着くんだ」

 男はなお、ひみこの肩を抱こうとするが、彼女はそれをはねつけた。

「ロボットが暴走した! 修理はどこに頼むの?」

 男の目から優しい微笑が消えた。

「……ロボットは正常だよ。ダヤルの息子が故障したロボットを置いておくと思うのか?」

 少女は俯くしかなかった。ロボットの暴走は間違いないが、詳しく男に言いたくない。

「アレックス、昔教えてくれたよね。ロボットに力を入れると通信が遮断されログアウトするって。ロボットと人間の両方を守るためにって……でも、あれは暴走して、私がどんなに嫌がってもログアウトしなかったんだ」

 男の口がゆがんだ。

「ひみこ……あれほどポルノコンテンツを楽しんでいたのに、キスも知らないんだね」

 インタラクティブムービーで古代エジプト軍の戦車に引かれた時と同じ衝撃がひみこを襲った。

 目の前の男……アレックスは、両親に捨てられた自分を拾い、国際共通語と二十二世紀のルールを教えてくれた人だ。
 苦手な面もあったが、ひみこは彼に感謝をしていた。
 婚約だって、あくまでも自分を守るための契約に過ぎない、今まで通りの生活がずっと続くはずだった。

「当たり前だ! 私は、男と付き合ったことない。付き合うどころか、同じ年の子の知り合いもいない。学校に行けないから」

 男は長い指をひみこの頬に滑らせた。

「当然だよ。婚約者を他の男に取られたくないからね」

 若すぎる婚約者の震えが止まらない。

「や、やだ! 私たちは今まで通り暮らせるんでしょ? 契約結婚だよね?」

「女たちが昔から好きなドラマだよね。契約結婚からスタートした二人が、結ばれるって」

 ひみこは一歩退き、頬に触れる男の指から逃げ出した。

「そんなのドラマだけだよ! 私とアレックスじゃ絶対に無理だって!」

 逃げる少女を男が捕まえる。小さな体はすっかり大男の腕に絡めとられた。

「ちゃんと僕は君に伝えてなかった。僕はね、ひみこを心の底から愛しているんだ」

「散々聞いたよ! 私は父と母に愛されてなかった! だからその代わり親切にしてくれたんでしょ! それよりロボット直して!」

 男の腕の中で若い娘はもがく。

「言っただろう? 故障した装置を僕がそのままにしておくものか。ロボットは僕の命令通り動いてくれたよ」

 その言葉が、暴れるひみこを停止させた。

「……うそ……命令通り? なんで?」

「僕はね、神の教えは守りたい。だから結婚するまで僕自身は君の唇にキスはしないよ。でも、何も知らない君のバージンを奪うのは可哀相だから、少しずつ結婚について教えるつもりだ」

 これは偽りの結婚、契約結婚、今までと何も変わらない──そう言い聞かせていたが、アレックスの告白がとどめを刺す。ロボットは……強引にキスを押し付けた機械は、アレックスそのものだった!

「……やめよう……」

 ひみこはぼそっと呟き、男の腕の中で顔を上げた。

「結婚やめる! あたしはアレックスとそんなことしたくない!」

 男の青い眼がギラギラと見開かれ、まなじりが吊り上がった。まるでそれは、ひみこが以前学んだ日本芸術の彫刻……鎌倉時代の仏師、運慶の仁王像そのものだった。
 が、仁王像は途端、微笑を湛える弥勒菩薩像に変わった。

「君は僕が出会う前、まだ十三歳だったのに、すでに散々ポルノコンテンツを楽しんでいた」

「やめて! それは別! 私はあんなことしたくない! ねえ、今からなら、やめられるよね?」

「やめてどうする? ここを出て君はどうやって生きていくんだ?」

「今までみたいに、日本講座の先生やるよ」

「君はわかってないようだが、講座だって会場や通信の手配が必要なんだよ。それらを告知する宣伝費だってかかる。君にそんなことできるのか? 今まで君の講座に人が集まったのは、ダヤル財団あってのことだ」

「じゃあ、ホテルで働きたい。掃除とかベッドメーキングとか教えてもらう」

「僕はひみこにそんなことをさせたくないけどね、そこまで言うなら、やってみるがいい……」

 アレックスはデスクの引き出しから、VRのゴーグルを取り出した。
 古代エジプトの戦車に轢かれたことを思い出し、途端、少女はガクガクと震えた。

「何も能力のない娘が一人で生きていけるか、シミュレーションをしてみよう……これに耐えられるなら、婚約破棄を認めよう」

 ひみこの額に冷たい汗が流れ落ちる。
 ウシャス障害者の自分は、サイバーな世界に放り込まれても、身動き一つできない。

「わかった」

 ひみこは頷いた。
 アレックスにされるがまま、ゴーグルを装着する。目を閉じても無意味だと知っても、彼女は身を固くし縮こまった。


 十分後──。

「やだやだやめて!! 助けて!!」

 ひみこの敗北宣言だった。
 ゴーグルの下から涙と涎を垂らした少女は、日本語を叫んだ。
 アレックスは笑った。観世音菩薩のように。彼の母方の祖先の国で生まれた超越する存在のように。

「ひみこ、僕はよく知らないが、一部の心無い男は、VRの中で君のような可愛い女の子に酷いことをするらしい。性的行為を金銭で贖うことは、重罰に値する。でもバーチャルはグレーゾーンだ……ダヤル社は認めてないけど」

 アレックスが顔を近づけていた。

「僕にはそういう趣味はないけど、残酷なVRコンテンツを可愛い娘にやらせて苦しむ姿を楽しむという、ひどい奴がいるんだよ」

 少女は、支部長室の床でうずくまっている。

「ごめんなさいごめんなさい!」

「君に体験してもらったのは、ひどいコンテンツではないよ? 何も知らない女の子にはちょうどいい教育だ。せいぜい、キスして胸を触られるぐらい」

「い、いやあああ! あたし結婚するからもうやめて!」

 ひみこはずっと日本語で訴える。訴えは、アレックスの外耳のスピーカーで、共通語に通訳される、

「愛しているよ。何も知らない君が僕から離れひどい奴の餌食になるなんて、耐えられない。わかってほしい。僕は君を守るために結婚するんだ」

 男に促されるまま、ひみこは立ち上がる。そのまま、彼がいつも眠っているソファに寝かされた。

「さて、せっかく君が来てくれたんだ。もう少し待っててくれないか? 一緒に帰ろう」

 ふかふかのソファで、ずっとひみこは丸くなって震えていた。
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