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三章 国民のアイドル

48 生家の母ラニカ・ダヤル

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 ──アレク、アレク、起きなさい。お寝坊さんね。

 マンマだ。この家に戻ると必ず見るマンマの夢。いつも『カレーが冷めてしまうわ』って叱られた。僕が、いつも徹夜してムービーゲームを作ってたから、ちゃんと眠らないとダメよって、マンマは怒るんだ……

「アレク、起きるのよ」

 パチっとアレックスは瞼を開いた。
 夢ではない。ラニカ・ダヤルがアレックスの頬に触れている。
 がばっと男は身を起こす。彼は、生家の自分のベッドで眠っていた。

「ラニカ!」

 日本に来てから彼女とはモニター越しの会話しかしてない。
 目の前のラニカは、流行りのフード付きローブを被っている他は、モニターと全く同じだ。
 アレックスも、母の頬を指でなぞった。

「マンマは若いね。会うたびに若返っているよ」

 みずみずしく張りがある肌。
 ラニカ・ダヤルは六十代半ばでダヤルのCEOから降り、今は本社の相談役を務めている。

「アレク、あなたが育てた日本の女の子、あっという間に美しくなったわね。いつも見ているわ」

「さすがマンマだ。日本の配信番組まで欠かさずチェックしているんだね」

「私はあなたの母親よ。でも、アレク、いくらあの子が可愛くても、いつも傍でじっと付きまとうのは止めなさい。あなたはどこから見ても目立つから」

「ひみこは普通の子ではないから心配なんだよ……マンマ……いいかな? 僕はまた眠くなってきた……ウシャスの力を使ったら眠らなければならない……マンマがそうしてくれたんだろう?」

 アレックスは目を閉じた。

 この家でラニカに会えるとは思ってもみなかった。ルドラにしては気が利くな。ラニカはダヤルの相談役として忙しいのに……。
 そう、眠らないと大変なことになるんだ。
 あの時もそうだった。

 彼は、ひみこが時計台の前で男たちに絡まれたときのことを思い出した。
 ひみこの身はそれほど心配していなかった。フィッシャー・エルンストが守るから。ダヤル社の安全のため、ロボット・パーラはビルごとに配備されている。
 しかし彼は、ひみこの周囲にこれまでにないほど全神経を傾け、見守っていた。

 あの時、アーンは怒っていたな。
『……ただ眺めているのも心配でしょうし、疲れますよね』

「そうだよ。アーン、見ず知らずの他人何十人も眺めるのは大変だった」

 アレックスは目を閉じたまま、その場にいない秘書に語り掛ける。

「善意の通行人がひみこを助けるため警察へ通報したらまずいだろ? 遠巻きに眺めている人間が余計なことしないよう、ちょっとした信号を送った。さすがの僕も疲れたよ。遠隔操作で何十人もの脳チップにアクセスするのはね」

 男は、秘書とかわした言葉を思い出す。

「アーン。君は勘違いしているが、警察など怖くないよ。僕が怖いのは……ひみこが僕以外の人間とアクセスすることだ」

 ラニカ特性のチップを装着したアレックスでも、時計台の見知らぬ群衆をコントロールするのは困難を極めた。
 それに比べれば、ダヤルを脅迫してきたジャーナリストの戦意を喪失させることは、さほど難しくはない。

「あのジャーナリストに真のジャーナリズムが宿っていれば、どんな映像を脳に送ろうが立ち向かっただろうけどね……あの彼のように……」

 アレックスは、プレゼンテーション・コンテストでひみこを救った少年の、まっすぐな眼を思い出す。

「彼の行動に迷いはなかった。彼の意志は揺るがない。ウシャスの力を使って干渉しても、人の強固な意志には叶わないんだ」

 アレックスは、少年が中国地方居住と知り、安堵した。中国地方から北海道といった長距離移動はコストがかかる。一般家庭では、そうそう来られないはずだ。

「アーン、君は調べてくれたね。彼は、あの時、選抜されて首都研修旅行に参加したそうだね。素晴らしく優秀な学生だ。また札幌に来るかもしれない。わかるよね? 彼が札幌に来ることがないよう頼むよ」

 目を閉じたまま、アレックスは左手の拳を握りしめる。
 ウシャスの力……他人の脳を覗き込むだけならともかく、脳チップに干渉し相手の行動に影響を与えるとなると、莫大なエネルギーが消費される。
 眠りによって身体は回復するが、失われたウシャスのエネルギーは戻らない。
 彼は、自らの欲望を満たすため、そしてダヤル社をスキャンダルから守るため、この力を使ってきた。偉大な母、ラニカ・ダヤルが愛する息子だけに与えた強大な力を。
 彼は知っていた。
 自分に残されたウシャスのエネルギーは、間もなく尽き果てることを。

 エネルギーが尽きれば……ウシャスのすべてが使えなくなる。アレックスだけの特権、人の心を覗き込むことはもちろん、通常の意思疎通も、VRなどあらゆるコンテンツに参加することもできなくなる。
 彼にとっては、暗闇に放り込まれることに等しい。
 アレックスは、札幌に置いてきた少女を思い出す。


 ひみこ、君は強く美しい。
 君は闇の中にいるのに、それをものともせず、輝いている。日本が、そして太陽系に散らばる日本マニアが、君の輝きに魅せられている……君が気にしているあの少年もね……。

 だけど、何よりもこの僕が君の美しさを知っている。
 君の愚かな親のことは忘れるがいい。君は健気にも彼らを恋い慕っている。だが、彼らが君に近づけば、君が堕落するだけだ……アーンは、親子を引き離すのはどうかとしつこいが、彼にはわからない。子供にとって毒にしかならない親がいることを。
 彼も僕と同じように、親の愛に恵まれて育ったのだろう。

 僕ももうすぐ、君と同じように闇の世界に入る。
 でも、怖くないよ。
 ひみこ、君がいるから──そうだろう?
 僕らは家族だ。永遠に家族なんだ。
 僕はずっと君の傍にいて、君を守ってあげるよ……。


 再び目覚めた時、母ラニカ・ダヤルの姿はどこにもなかった。
 新鮮な空気が彼の肺を満たす──ルドラはちゃんと、ハウスキーパーを派遣してくれたんだ。
 慣れ親しんだ小さなダイニングに足を運ぶ。大きなロブスターにローストビーフ。選ばれた人間しか口にできない料理が、テーブルに並んでいた。
 ──気が利くな、今度のダヤルのCEOは。

 アレックスは一人ロブスターの味をかみしめ、しっかりチップに味覚を記録した──まもなくこの記録が失われることを知りながら。
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