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二章 一人ぼっちの少女

23 ホワイトクリスマス

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 アレックスとひみこは、クリスマスミサが開かれる教会へ向かった。
 あの時計台を通り過ぎる。ひみこは時計台に「じゃあねえ、がっかりちゃん」と手を振った。
 十分ほど進み、目的の教会についた。
 茜色の屋根が目立つ大きな教会だ。入り口には大きな欅が生え、枝には紅葉が残り、落ち葉が積もっている。

 アレックスが語った。
「建てられて三百年だそうだ。日本では古い部類になる。神の教えが許されたのもそれぐらいだからね」

 ひみこは大人しく説明を聞いている。

「僕は日本に来てから、毎週、ミサに通っている。なぜかミサは、VRよりリアルが好きなんだ。ミサだけではないな。ほら」

 コートの中からアレックスは、小さな辞書のような本を取り出した。

「バイブルだけはね、紙がいいんだ」

 パラパラとアレックスが、聖書のページをめくって見せる。共通語に文字の感じは似ているが、共通語ではない。

「私は読めない」

「父からもらったんだ。これは僕の父の国の言葉だよ」

「アレックスのお父さん?」

 ひみこは、彼の偉大な母のことは何度も聞かされていたが、父親のことは聞いていない。
 男を見上げる。青い目がどこか寂しそうだ。

「今日は、付き合ってくれるよね?」

 大きな手が小さな背中をさすった。


 教会の聖堂で、アレックスが勤務するセンターのスタッフに出会った。ひみこは彼らに紹介され「フィッシャーさんからよく聞いてますよ」と言われる。何を聞いているんだか、と少女は不安になってくる。
 ミサどころか、ひみこは教会そのものに入ったことがない。
 奥の席にアレックスと並んで座った。静まり返った聖堂に、パイプオルガンの音が響き渡る。

 あ、これ──
 ひみこの心は、また東京に戻った。


 ──パイプオルガンの音が響く教会でこれから結婚式が始まる。
 ウェディングドレスの花嫁とモーニングの花婿。
 神父が「この結婚に異議ある者は?」と参列者に問いかける。
 一人の若者が立ち上がり「異議あり!」と叫ぶ。
「姉さん! 僕と行くんだ!」


 少女は、故郷を出る直前まで見ていたドラマの場面を思い出した。
 禁断の愛から逃れられない姉と弟。
 姉と弟はついに駆け落ち。気の毒な姉の結婚相手は──

 ひみこは唐突に思い出した。
(あのあと、姉の彼氏はショックのあまりビルから飛び降りちゃう……そうだ! あたし、あのドラマの続き、見てないんだよ!)


 暗がりの中、ゆらめくキャンドル。祈る人々。
 ミサの儀式は粛々と進む。ときおり全員が立ち上がり讃美歌を歌う。アレックスの歌声が響き渡る。ひみこは知らない歌ばかりなので、立ってぼさっとしているしかない。
 少女は、厳かな空気に圧倒されつつも、神父の説教があまりに長いので、例のドラマを頭の中で再生している。

(お姉さんの彼氏、どうなっちゃうんだろう? ビルから落ちて死んじゃった? それとも生きてる? あああ、続きが気になってきた!)

 ひみこがそんなことでモヤモヤしているとは知らない隣のアレックスが立ち上がった。
「これから聖体拝領だ。僕は行ってくるが、君はそのまま待っていて」
 少女にはよくわからないことを告げ、男は祭壇の前で並ぶ人々の列に加わった。

(アレックス、目立つなあ)

 教会に集まる人の中で、彼が最も背が高いようだ。
 先頭の人に神父が、遠くからは見えない小さな何かを渡している。受け取るとその人は列から外れ、小さな何かを口に入れた。

(アレ、おいしいのかな? あたしはヨソモノだから、あそこに並んで貰っちゃダメなんだよね)

 席に戻ってきたアレックスはどこか恍惚としている。「おいしかった?」とは聞いちゃいけないんだろうな、と、ひみこは思った。


 儀式の後、ホテルへの帰り道、アレックスがミサとは何か説明してくれた。
「聖体拝領というのはね、儀式によって救い主の肉となったパンを、信者が分け合うことなんだ」
 そう言われても、ひみこにはよくわからなかった。
 クリスマスイルミネーションで輝く夜の札幌を、並んで歩く。
 ひみこは、東京で見たドラマから抜け出せない。
 あの教会の結婚式では雪が降っていた──。

「雪、降らないのかな?」

 札幌の冬は東京に比べると厳しい。故郷では肌寒いと感じる程度だったが、こちらでは足元から凍り付くような痛みを感じる。
 しかし期待していた雪を、ひみこは一度も見たことがない。
 アレックスが悲しそうに首を振った。

「……僕の生まれたトロントと同じだ。昔はよく降っていたが今ではほとんど見ない。スタッフに聞いたら、誰も自然の雪は見たことないそうだ」

 少女は項垂れる。札幌での期待がまた一つ裏切られた。
 と、唐突に男が腕を夜空に突き上げた。

「ヘイ! ヴァルナ!」

 東の空、ちょうどひみこたちが進む方から、ドローンが現れ、アレックスの頭上一メートルでホバリングして止まった。

「ヴァルナ頼むよ。この可愛らしい天使に夢を見せてくれ」

 ドローンの端から何本もの細い脚が伸びる。白い半透明な布が伸びた脚の上に広がり、大きな傘を作った。
 すると傘から、大量の小さな氷の粒がフワフワと降りてきた。
 できたばかりの結晶はキラキラ輝き、ひみこの鼻に、睫毛に、指先に落ちては消える。

「うわあ、これが雪!? すごい、雪って作れるんだ!」

 クリスマスイルミネーションで輝く街。夜空には惑星と一等星だけが頼りない光を放っている。ひみことアレックスの周りだけが、雪の札幌に変わった。
 雪の傘の下で、少女は目を輝かせ、雪を受け止めようと手を広げる。
 男は、青い目を細めて微笑んだ。

「君の笑顔が見られてよかった。僕にとって何よりのクリスマスプレゼントだ」

 アレックスの視線に気がつき、ひみこははしゃぐのをやめた。

「え? あ、あの……ありがとうございます」

 ペコっと、日本人らしくお辞儀をした。

「お礼なら、キスが欲しいな」

 即席の雪を被ったアレックスが、自分の頬を指さす。

「あ、いや……それは……ごめんなさい!」

 少女は日本人らしく詫びた。
 共に暮らして半年。彼のキスには慣れてきた。が、自分からする気にはなれない。

「ははは、わかっているよ。君は日本語族だ。さあ、ケーキを食べに帰ろうか」

 男は、少女の黒髪と肩をさすり、雪をはらった。


 リビングの夕食はいつもより豪華だった。
 カリカリに焼けたローストチキンは、味付けがしっかりしている。
 ひみこが鶏肉を食べるのは人生で二回目。半年ぶりだ。
 ディナーが終わり、ケーキが運び込まれる。
 それは、ドラマで見たケーキにそっくりだった。
 ホイップクリームでコーティングされたスポンジケーキ。色とりどりのフルーツが盛られている。

「おいしい!」

 ああ、これがケーキって奴なんだ。フワフワのクリームとしっとりしたスポンジ。
 へへへ、父ちゃん、母ちゃん、あたしが一人でこんなに美味しいもの食べてると知ったら、すごい悔しがるだろうなあ──

 口の周りをクリームで一杯にしてガツガツとケーキを平らげる少女を、アレックスは優しく見つめる。

「本当に安心したよ。これで心置きなく、地球を出発できる」

「地球? じゃあ、宇宙へ行くんですか?」

 ひみこは、クリームを口につけたまま、尋ねた。
 宇宙へ行く……やっぱりここは「未来」世界だと、前世紀の世界で生きた少女は思う。

 アレックスはナプキンを持って立ち上がり、ひみこの前に座った。
 男は微笑みを浮かべ、少女の口元のクリームをナプキンで拭う。

「恋人と日食を見に行くんだ。次に君に会うのはニューイヤーだよ」

 アレックスに恋人?
 少女は、男が何を言っているのか理解できず、青い虹彩を見つめる。
 この親切で偉そうな金持ちの男に、恋人?
 その生々しい単語は、アレックスにおよそ似合わない──ひみこはそう思っている。
 恋人というのは、先ほどのミサでずっと思い出していた、ドラマの世界の姉と弟──つまり、アレックスには「そういうことをする」相手がいるということで──

 甘いケーキの味はどこかへ消えてしまった。ひみこの目があっという間に吊り上がる。

「嘘! 間違ってる! あり得ない!!」

 少女は余りのショックで、日本語で叫んだ。

「僕だって男だ。妻もいない。問題はないだろう? 彼女、アイーダは素晴らしい女優なんだ」

 ひみこは立ち上がり、自分のベッドルームのドアの前で叫んだ。

「気持ち悪い!!」

 アレックスが近づき、ひみこに触れようと腕を伸ばす。が、彼女はその腕を勢いよく振り払った。

「怒るぐらい元気になって嬉しいよ。僕がいなくてもいい子で……」

「触るな、出てけ!」

 彼の言葉が終わる前に、ひみこは自室に引きこもった。
 鈴木ひみこにとって、アレックス・ダヤルに恋人がいることは、あり得ない、生理的に受け付けられない事実だった。
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