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二章 一人ぼっちの少女

21 三度目のがっかりスポット

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 左手には燃える太陽、右手には白い月、前方にはきらめく天の川、そして足元には青い地球──少女は宇宙を走る。銀河の中心ブラックホールを目指して。
 ──ひみこが毎日課せられている、ジムのトレーニングメニューの一つだ。

 ランニングルームの壁面と天井に投影する映像は、厳島神社、皇居跡地、グランドキャニオン、火星のオリンポス山といった現実の風景のほか、恐竜の大地、エルフの森といった過去や空想の世界が選べる。
 が、ひみこは、没入感の高い映像に囲まれると動けなくなる。心と心をつなぐ技術=ウシャスの力を利用した映像への耐性がないから。
 彼女がトレーニングする時は、星空に田園風景、抽象図形の群れなど、シンプルな映像を使っていた。
 ジムのトレーナーに促されるまま、今日もトレッドミルの上で走る。

「すごいですねえ。もう少しで五km達成ですよ!」

 単調な景色の中、ひたすら脚を運ぶ。東京にいたときも、椰子に囲まれた道をよく走っていた。諍いの絶えない両親に嫌気がさした時、飛び出すように駆けていった。

(あたし、何やってるんだろ? こんな苦しい思いしたって、意味ないじゃん)

 少し前までは、意味があった。有名になり両親を見返すため。苦しいランニングにも、単調な語学講座にも、耐えられた。
 しかしその道は断たれた。
 二十二世紀では、心と心をつなぐ技術、ウシャスの脳チップが着けられない人間は生きてはいけるが、それだけだ。ひみこを見捨てた親たちが悔しがる存在にはなれない。

「ニセモノの星はウンザリなんだよ!」

 少女はランニングルームを飛び出した。


 ジムのトレーナーが後ろで叫んでいるが、おかまいなしに彼女はトレーニングマシーンの間をぬって飛び出した。
 と、ホテルのスタッフが呼び止めるが、その静止を振り切り、ロビーを出る。
 代わり映えしない札幌の市街地が、眼前に広がる。
 様々な肌の色をした人々。魔法使い風のローブを着た人もいる。人だけではなく、スーツケース状の箱もガタガタと動いているが、それらは変身するロボットだ。
 通り向かい側のビルの群れの上で、南中を目指す太陽が燃えている。
 人やロボットの間をすり抜け、太陽を目指して歩道を走る。十五分ほど走ったところで、少女は足を止めた。

「がっかりちゃんだあ!」

 久しぶりにひみこは笑った。
 白い壁の時計台は、三百年前と変わらず時を刻んでいた。


 札幌の時計台を見るのはこれで三度目だ。が、一人で来たのは初めてだ。
 ひみこは、入り口に立てかけられた看板に目を止めた。札幌に移って半年近く共通語を学んだため、読めるようになった。
 中は展示施設になっている。吸い寄せられるように入った。

 奥へつながる通路の手前に、古い西部劇に登場する木目のスイングドアが取り付けられている。
 そのドアを開けようと押すが、ビクともしない。手前の壁の注意書きに入館料が必要、と書いてある。

 ひみこは、金など持っていない。生まれてこの方、持ったことがない。東京にいたときは、両親がモニターを通じて物資の支給を頼んでいた。
 こちらに来てからは、必要な物はクローゼットに用意されていた。

「……今更アレックスに、お金ちょーだい、なんて言えないよ……」

 ウシャスの脳チップが着けられず親を見返せない、と知らされた日、ひみこの保護者は追い打ちをかけた。彼女が消滅する民族の最後の一人だと。
 怒りを散々ぶつけた夜から数日経つが、アレックスとはほとんど口を聞いていない。彼は何事もなかったかのように微笑むが、ひみこは何も返さなかった。

 時計台を出ようと踵を返す。と、目の前に馴染みの「人」がいた。

「フィッシャー先生!」

 ロボット・パーラに転送されたフィッシャーのアバターが、目深なローブをかぶっている。
 まさか、ホテルからあとを着けてきたのか? いや、アレックスに教えてもらったが、このロボットは普段はスーツケース状に折りたたまれ、あちこちに潜んでいるのだ。フィッシャー先生も、時計台近くに設置してあったケースに転送されてきたのだろう。

「ここの展示室に入りたいのですね」

 フィッシャーのアバターは、ひみこの左の掌を広げさせ、スキンデバイスを操作した。少女の人差し指の付け根が光る。
 ロボットは、ひみこの侵入を阻んだ西部劇風スイングドアに手をかざした。
 音もなく木枠のドアがスーっと開いた。

「ロボットもお金持ってるんですね」

 ひみこはフィッシャー先生に悔しさをにじませる。人間の自分が無一文なのに、この世界ではロボットの方がお金を持っているのだ。

「私の財産はフィッシャー・オリジナルの管理にあります。ひみこさんがお金を使えるようアレックスに頼みます。彼は対処してくれるでしょう」

 アレックスとは話したくないのに……気まずさを抱えたままフィッシャー先生に促され、ひみこは展示室に入った。
 旧石器時代から現在──札幌が首都になるまでの歴史を描いたパネルが、壁に張り付けてある。
 文字解説といった地味な展示が「がっかりちゃん」っぽいなと、共通語の読解がおぼつかないひみこは、不満をこぼしつつ、妙に納得する。

 フィッシャーのロボットは辺りを見回した。
「ここもウシャスのVR展示対応ですね」

「ウシャス」と聞き、ひみこはビクッと身体を震わせる。

「失礼しました。展示施設の多くが、ウシャスによる歴史の疑似体験コーナーを主としていますから」

「エジプトみたいな映像が、普通の人は見られるんですね」

「はい……でもこの施設は、あなたのようなウシャス障害にも対応していますよ」
 先生は、パネルの年表を指さした。

「ウシャス障害」……ひみこは、自分が「可哀相な障害者」だとは思っていなかった。プレゼンコンテストに出た視覚障害者や聴覚障害者に対して、ひみこは同情していた。しかしこの世界では、彼ら彼女らより自分の方が可哀相な人間らしい
 ……ひみこは、憂鬱な気持ちに蓋をした。せっかく入れた展示場で落ち込んでは勿体ない。未熟な国際共通語力を駆使して、年表をたどった。

「えーと……アイヌ?」

 日本の北部にいた先住民族アイヌは、日本語族とは別の民族だ。ひみこもドラマで名前は聞いたことがあるし、パネルの写真にある渦巻模様の着物に見覚えがあった。
 その他、日本列島にあった別の言語に書かれている。
 この国には、日本語以外の言語があった。北海道のアイヌのほか、沖縄列島では琉球諸語が話され、琉球王国があった。
 アイヌも沖縄の人々も、本土による差別に長年苦しめられてきた……と、フィッシャーが、パネル解説を日本語に訳す。

「……もういいよ!」

 ひみこは展示室を飛び出し、時計台を背にして再び走り出した。

 三人になった日本語族。が、かつてはこの列島のほとんどを支配し、少数言語者を差別する側だった──その事実は、最後の日本語族をますます追い詰める。
 少女は太陽を目指す。プレゼンコンテストの会場となったホールをを通り過ぎて、東へ走る。

 自分が一人になったのは、先祖が悪いことをしたから? では、アレックスが金持ちなのは先祖がいいことをしたから?
 ひみこは、高層ビルに囲まれた時計台に漠然とした救いを求めた。が、入ってみたら、そこに救いはなかった。
 逃げるように十分ぐらい走ったところ、右手の視界が開けてきた。

「こんなところに川があるんだ!」

 ひみこは通りを外れ草むらに脚を踏み入れた。晩秋の土手はまだ緑に覆われている。

「多摩川より小さいけど、似てるなあ」

 この川──豊平川は、札幌市街地を北東に流れ、石狩川に合流する。
 川岸の近くに腰を下ろした。対岸には超高層ビルが立ち並ぶ。向かいの建物群は、ひみこが知っている多摩川と比べて都会的だが、西から東へ流れる川は、故郷を思い出させる。

 多摩川は、東京の西の端、奥多摩湖から東京湾に向かって流れている。
 父親の釣りに付き合うため、親子三人で河川敷に出かけた。が、大抵、釣果は芳しくなく、父は女二人から小馬鹿にされ笑われていた……。
 この川で魚は釣れるのだろうか?
 半年も経っていないのに、家はひみこから彼方へ消えてしまった。

「ひみこさん、帰りましょうか?」

 振り返るまでもなく、少女は声の持ち主を知っていた。
「フィッシャー先生、どこでも見かけますね。川の中に隠れていたんですか?」

 フードを目深にかぶったロボットは、微笑んだ。
「すごいです、ひみこさん。共通語でジョークが言えるとは」

 ひみこは冗談ではなく、本当にそう思っただけだが……それでも褒められるのはいい気分だ。

「大分、遠くまで来ましたね。タクシーを呼びましょう」

「先生はロボットです。タクシーに変身できないんですか?」

「ひみこさんは、本当にジョークのセンスがある。しかし、私の中身は空気です。重い荷物は運べません」

 いや……それも思ったことを言ったんだけど……。
 ひみこにとってロボットとは、変身して戦う存在だった。その手のアニメやドラマを、タマは勧めなかったが、それでも「二十一世紀の日本人」としてその程度の「教養」は嗜んでいた。
 目の前の先生ロボットの知識は相当なものだ。日本語族のひみこより日本のことを知っている。しかも神出鬼没だ。実際、ロボットの箱があるところなら、一瞬で移動できる。まさに瞬間移動能力がある。
 が、今日の働きは、ひみこの代わりに博物館の入場料を払うぐらいだ。それと戦闘能力はゼロに近い。今、ひみこがポカスカ叩けば、すぐログアウトするだろう。

「……走って帰ります。乗り物はよくない、とアレックスが言ってます」

 ひみこは立ち上がり、寂しげな微笑を浮かべ、流れる川に手を振り「さよなら」と呟いた。友と出会えたことを喜び、友と別れることを惜しむかのように。
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