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一章 出会い

11 初めて過ごす朝

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 朝七時。シナモンの香りが脳を覚醒させる。
 アレックスは、カプチーノを味わいながら、今か今かとその時を待っていた。
 そろそろ目覚めるはずだ。チャンの報告によるとそろそろ彼女の起床時間。彼女の生育環境はいいとは言えないが、起床時間はノーマルらしい。

 昨晩、秘書のフィッシャーをリーダーにホテルのスタッフや運搬ロボットが入り、ひみこのベッドルームで作業を進めた。
 彼らは慎重に静かに作業を行ったが、ひみこが目覚める心配はなかった。バスルームで睡眠効果のあるソープをたっぷりこすり付け、ベッドルームでミストを浴びたのだから。
 アレックスは、自分の思い付きに胸を躍らせた。
 日本語族の少女に相応しく、無機質なホテルのベッドルームをジャパネスクなインテリアで飾り付けるのだ。

 ひみこは目覚めと同時に驚くだろう。部屋の壁面には絶えず「日本らしい風景」が映し出されている。雪に覆われた富士山・千鳥ヶ淵の桜……今では見られない光景だと、フィッシャーは言っている。
 アレックスは、桂林や万里の長城も映したらどうか? と提案したが、それは中国だと言われ、諦めた。

 調度品は、美濃焼のコップに皿。西陣の着物。フィッシャーは、ひみこは着物を一人では着られないだろうと言うが、日本のモチーフである鶴と富士山を日の丸を刺繍した着物は、見ているだけでファンタスティックだ。
 前世紀の文化のまま生きているひみこは、シルクでないことに落胆するかもしれないが、アレックスとしては動物性繊維の服を認めるわけにはいかない……でも、彼女はきっと目覚めると同時に、感謝のハグとキスをプレゼントするだろう……

 ドアが勢いよく開かれ、顔を真っ赤にした少女が現れた。
「あたしのタマをどこに隠したんだ!!」

 アレックスの期待は、あっさり裏切られた。


 ひみこは、アレックスの用意した豪奢な着物ではなく、ホテルのパジャマのままだった。細い目を吊り上げ頬を赤く染め喚き、左のてのひらをアレックスの眼前に突き出している。

「こんな変なペラペラの気持ち悪い紙、すぐ取って!」

 アレックスは、昨晩、フィッシャーを通して『情報科学博物館』のスタッフ、およびダヤル本社の研究所に指示し、鈴木家のサーバーにある日本語通訳機能を、彼の脳チップに転送させた。
 彼女の言葉は、自動的に共通語に通訳され、電気信号となり言語中枢に伝播する。おかげで、まどろっこしいやり取りが、スムーズになった。
 だから、ひみこが怒っていることはわかる。

「落ち着くんだ。これがないと僕の言うことがわからくなるよ」
 男は少女が突き出した手を取り、てのひらのスキンデバイスをさすった。

「……やだ……耳の中で、アレックスが日本語しゃべってる……気持ち悪い……」
 少女は両耳を抑え、その場でしゃがみ込んだ。
 合わせてアレックスも座り込み、ひみこの耳たぶにそっと指をそえた。

「僕のことばを、このてのひらのデバイスが通訳し、君の耳につけたスピーカーが音声に変換するんだ……昨日のあの猫よりずっと自然な声、そう……僕の声に近いはずだよ」

 昨晩は本当に大変だった。ひみこが使える通訳システムを一晩で作ったのだから。情報科学博物館とダヤル社研究所の連携によって成しえた。掌に張り付けたスキンデバイスが聞き取った音声を通訳し、外耳に着けたマイクロスピーカーに転送する。
 多くの人は、脳チップで直接通訳をさせるが、日本語のようなマイナー言語の場合や脳チップを装着できない場合に使われる。

「じゃあ、この声は……あたしの耳に何か着けた? やだ! 何で変なことするの!?」
「ひみこ、大丈夫だ、すぐ慣れる。とりあえず、今、僕らが話すのに適切な方法だよ」
「いらない! タマ、ちゃんと話してたよ。タマを戻してよ!」
「……わかったよ」

 アレックスは奥のクローゼットから、タマが眠っている時計、そして一辺が二十センチメートルほどの金属の黒いボックスを取り出した。
 ひみこはお馴染みの黒いリストバンドを手に取る。

「タマ! 起きてタマ! ねえ、何でもいいから話して!」
 しかし、三毛猫が表示されていた時計のモニターは黒いままだ。

 ひみこはパッと顔を上げた。
「そうだ! 昨日言ったけど、家に戻ってテレビ運ぶんだ。あたし一人じゃできないし、どこに家があるかわからないから……ダメ?」

 少女のすがるような眼差しに圧され、男はクローゼットから取り出した金属のボックスを見せた。
「『テレビ』ならもう持ってきた。このサーバーが君の『タマ』の本体だ」

 ひみこはその無機質な箱の存在を知らなかった。
「これがタマ? でも、どうして起きないの?」

 アレックスは悲しそうに眉を寄せた。
「百年前のプログラムだ。ハードウェアも五十年前からアップデートされていない……スリープ状態になったようだ」

「何で? まさかタマに何かした?」
「何もしていないよ。僕らは、日本語通訳ツールを作るためコピーしただけだ」

 実は、何もしていない、と断言する自信はなかった。こちらの解析作業に対し、古いAIが反応しスリープした可能性があるのだ。
 しかし、今やどうでもいいことだ。これから彼女には、低俗な化石AIより、遥かに優れた教育をしてあげるのだから。

「君の『タマ』はね、君だけのものではなかった。君たち日本語族のために百年間も働いてきたんだよ。そろそろ休ませてあげよう」

「な……なんだよ、それ……タマは死んじゃったの?」
 ひみこの目から涙がポロポロと流れ落ちる。
 黒髪のプリンスは、少女を抱きしめた。

「ひみこ、泣くことはない。君の大好きなタマは一つの役目を果たした。生物に寿命があるように、機械にもシステムにも寿命があるんだよ。百年も動いていたなんて、素晴らしい奇跡じゃないか」

 アレックスの腕の中で、ひみこはもがき泣き叫ぶ。

「嘘だ嘘だ! あんたがタマに何かしたんだ! だって、こっちに来る前は、元気だったんだよ!」
 確かに元気だった。おとといまで、姉と弟がイチャイチャするドラマを見せ、ピンぼけな突っ込みを入れていたのだ。

「僕らが君の大好きな友達にそんなことするわけないだろ? さあ一緒にモーニングを過ごさないか? 僕の朝はカプチーノだけど、日本人なら日本茶かな?」

 ひみこはアレックスに抱えられ、ダイニングの椅子に座らされた。
 テーブルには、パンと柑橘類、そして大豆ミートのソテーが並んでいる。
 が、今の彼女の怒りは、どんなご馳走でも静めることができない。

「こんなまずそうなメシ、いらないよ! ステーキ食わせて!」

「そういう発想から改めないとね。哺乳類や魚類の摂取は制限されているんだよ。地球の九十億人が生きていくために牛や豚を育てるのは、著しくエネルギー効率が悪いからね」

 アレックスの言葉が、ひみこの耳元のスピーカーで通訳される。耳元で音が鳴ること自体煩わしいし、第一彼の言葉は、日本語になっても意味不明だ。

「ゴチソウサマ!」

 水の一滴も口をつけず、ひみこは椅子を蹴り飛ばし、自分の部屋に引きこもった。


 アレックスは、ひみこを追うことはせず、いつも通り『アジア文化研究センター日本支部』へ向かった。
 オフィスは歩いて三十分ほどだ。健康維持にちょうどいい距離。輸送車に頼らないことは環境に良い。
 彼は、少々ひみこが気がかりだったが、ホテルと特別契約を結び、彼女のケアを依頼してある。

 小さな少女を育てるのは久しぶりだ。
 それも、前世紀からやってきた原始的な少女。
 彼は、これまでにないほどエキサイトしていた。
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