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一章 出会い

10 タイムスリップ

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 夜の九時──鈴木ひみこが深い眠りに陥っている間、アレックス・ダヤルは、秘書フィッシャー・エルンストにモニターを通して指示を出す。

「さて僕は、可哀相な女の子を養育することになった。日本政府から委託されている」
「それもタスマニア担当から聞いてますよ。あなたは恵まれない子を育ててきたと。私の仕事は、その子を立派な地球人にすることですよね」

「素晴らしい! 君は、僕がチャンと体験した今日の出来事、知っているだろ?」
「あなたの脳チップの記録はセンターのサーバーに出力して圧縮しました……あなたの新しい娘は、鈴木ひみこさん、ですね?」

 アレックスは満足げに大きく頷いた。秘書の優秀さに。
「そうだ。彼女は国際共通語ができない。彼女の腕時計が通訳アプリになっているが恐ろしく原始的だ。アプリを解析してほしい。本体は、東京の鈴木家にあるだろう」

「わかりました。明け方、東京のスタッフに依頼します」
「明け方? 僕はひみこが目覚める前に何とかしたい。アーン、AIにやらせればいい」
「何でもかんでもAIですか、まあいいでしょう。さっそくダヤル本社の研究所に依頼します」

 アレックスは、秘書の不満を知りつつ、横やりを入れる。
「いや、アプリの解析はダヤルの本社ではなく『情報科学博物館』に依頼するといい」
「情報科学博物館?」

「古いアプリだ。本社の研究所ではアクセスできないだろうね。博物館の方が手がかりがあるだろ?」

 ダヤル財団が運営する『情報科学博物館』では、情報科学史を学べる。大昔の計算尺やアジアの算盤からはじまり、ENIACといった世界初のコンピューターや、最初に実用化された量子コンピューターなど、貴重な計算機が展示してある。
 アレックスが子どもの頃、まだダヤル財団が施設を買収する前、母によく連れてってもらった思い出の場所だ。

「どちらにしろ明け方までとなると、解析費がバカにならないかと……この研究センターは予算がないんです」
 予算がない? 同じダヤル財団の施設でなぜそのようなことになるのか、そもそも財団同士でなぜ金銭授受が発生するのか、御曹司のアレックスにはよくわからない。
「わかった。その件は、僕のプライベートカンパニーに請求書を回してくれ」

「ありがとうございます」
 フィッシャーはクールに答えつつ(よし! これで発掘用の地中探査機、最新バージョンにアップデートできるぞ!)と喜ぶ。

「僕は、ひみこのための出費なら、いくらでも惜しまない」
「アレックス、あなたのその姿勢、頭が下がります……で、実は……」
 よしよし、と秘書は表情を変えず、次の言葉を切り出そうとする。

「早く手配を頼むよ……そうそうアーン、君は優秀だから理解していると思うが、研究センターの事業は、予算内で回すんだよ。僕の寄付だけで足りないなら世界中にPRするよ」
「い、いえ、アレックス。あなたが支部長で、本当に心強いです」
 フィッシャーは静かに微笑みつつ、ちっ! と心の中で舌打ちした。


 日付が回り、夜中の二時。アレックスは、キングサイズのベッドに横たわっていたが、音もなく目が覚めた。
 彼の脳チップに、部下フィッシャーから直接、覚醒信号が入ったからだ。何時だろうと信号を送るよう、彼は部下に指示していた。
 素肌にガウンをまとってから、壁際のモニターに瞬きを送る。と、モニターの表面を覆う大きなシートが剥がれフワフワと浮かび、ヘッドボードに背中を預けている男の前で静止する。
 浮遊するディスプレイシートに、フィッシャーの顔が現れた。

「アレックス、東京のスタッフに、鈴木家を訪問調査させました」
「ははは、そうか。大変だったね。チャンに鈴木家調査の許可を取ってよかったよ」
 こいつ、AIにやらせればと言ったくせに! フィッシャーはゴーグルの下で顔を歪ませ報告を続ける。

「ひみこさんの腕時計アプリは、鈴木家にあるサーバーと通信しています。そこに、日本語族を教育するプログラムが入っていました」
「チャンが言うには、日本語族には独特の文化があるらしい。学校にも行ってないようだね」

「ええ、その日本語族教育プログラムですが、百年前、無名のアマチュアプログラマーが作ったものでした。政府から正式に採用されています」

「なぜそんなものを政府が採用したんだ?」
「私は百年前の人間ではないのでわかりませんが、本気ではなかったんでしょうね」
「……少数民族保護は、国際的に要請されているからね。民族虐待が明らかにされれば、銀行口座凍結など経済措置を受けるからな」

 アレックスには、政府の方針が見えてきた。
 この国に、日本語族を保護し活性化させる気はない。そういうポーズを取って国際的非難をかわしているに過ぎない。
 時代遅れのプログラムを走らせ彼らの文化を保護する、という名目で放置しておけば、予算もさほどかからない。
 どうせ残るはあと三人──日本政府の誰もが口にしないが。

「そのプログラムで、可哀相なひみこは、何を学んだんだ」
 ディスプレイシートに、日本文字とそれらを国際共通語に訳した文字列が表示された。


・禁断の姉弟
・胸きゅんのハイスクールラブ
・愛しのポリスメンに撃ち抜かれて
・どこまでも過激に
・私のすべてを奪って


 レトロで煽情的な言葉が並んでいる。フィッシャーが補足した。

「プログラムは百年前ですが、すでに日本語コンテンツ……映像もテキストもほぼ消滅していました。なのでもっと前、二十一世紀初めより過去のコンテンツが、教育教材として採用されたのです」

 アレックスは、試しに『禁断の姉弟』に触れてみた。

『姉さん、もう僕は我慢できない! 姉さんをあんな奴に渡すもんか!』

 誰にもわからない言葉で激しく絡み合う男女の姿が、映し出された。

「な、こ、これが教育コンテンツというのか!」
 反射的に男は手を振って、映像を消した。

「はい。日本語族の教育に使われたコンテンツの多くが、ロマンスを主題にしています」
「ロマンス!? これはただのポルノだ!」
「似たようなものですが、この無名プログラマーは、性欲を刺激するコンテンツを見せれば、結婚・妊娠・出産……つまり人口増加につながると考えたのでしょう」

 性欲さえ刺激すれば人が増える?
 ポルノコンテンツを見せることが教育?

 途端、アレックスは、カラカラと笑いこけた。あまりのバカらしさに。
 ひとしきり笑い、一つの結論を得た。

 鈴木ひみこは、二十一世紀初めからタイムスリップしたようなものだ。
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