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9 あたしが彼をいやしてあげる

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「大山《おおやま》さん、悪いね。巻田まきたさんは開発に戻ることになったから、サーマルカメラの運用は二人でやっていこう」

 砂尾すなおさんの声が、狭い部屋に静かに響いている。あたしの左の耳はしっかり聞いているよ。また夜の七時だ。いつも遅くにしか会えないね。

「リーチさん、マキちゃんのどこが駄目なんすか?」

 刈り上げ兄さんが眉を寄せている。マキちゃんって、砂尾さんに振られたダマスカラちゃんのことね。

「……巻田さんから聞いたのか? 君らは仲よかったから私はてっきり……いや何でもない……仕方ないよ」

「一応聞きますけど、リーチさん、もしかしてゲイっすか?」

「バカにするな! そんなわけないだろ!」

 砂尾さん、最近怒ってばかりだ。眼鏡の奥が真っ赤に燃えてるよ。

「意外っすね。リーチさん、ゲイをバカにしてるんすか。差別はいけないとか言ってるのに」

 なに言ってんの! デブのクセに砂尾さんをいじめないで!

「大山さん、ハハ、キツイな。バカにしているつもりはなかったが……気をつけないといけないね。私はただ、会社の人と必要以上に関わりたくないんだ」

「本当に理一郎って名前のとおりっすね。真面目っつーか律儀っつーか。でもこの会社、自由っすよね。美樹本さんは日比野さんの奥さんだし、不倫してるやつもいるっしょ?」

「おい! うちの会社で不倫なんてあるのか?」

「リーチさん、そういうの知らなそうっすね。見てればなんとなくわかるっす」

「不倫なんかどーでもいいから、巻田さんの分も仕事しないと……あ……え!?」

 靴の音が鳴った。ああ、あの子だ! 嘘、もう戻ってきたの!?

「うわ、マキちゃん……だよね?」

 砂尾さんも大山さんも、目が点になっている。大分、顔が変わっちゃったよね。
 マスカラが消えた。アイシャドーも薄い。目が半分ぐらいになっちゃった。肌色も前みたいな不自然な白じゃなくて焼けた小麦色。
 胸の谷間も見せなくなった。紺色のゆったりしたシャツにグレーのパンツ。
 もっとも変わったのが髪型。ピンク色のゆるふわロングヘアをばっさりショートに切って、黒く染め直してる。
 でも巻田さんに間違いない。マスクをしていようが化粧をしていようが髪型変えようが、あたしにはわかるんだ。あたし、一度見た人の顔は忘れないの。

「……大山さん、これ、今までエクス・システムさんからいただいた資料です。よろしくお願いします」

 どさっと、ダマスカラでなくなった巻田さんが、分厚いファイルを机に置いた。その振動であたしはブルっと震える。

「あたし、開発に戻るので失礼します。今までお世話になりました」

 ペコっと巻田さんが頭を下げた。
 砂尾さんが、悲しそうな顔で彼女を見つめている。

「巻田さん、本当に君のおかげでカメラは順調だよ。今までありがとう。開発でもがんばるんだよ」

「あなたに言われなくたって、もうがんばってますから!」

 巻田さんは叫んで靴音をパタパタ鳴らして、去っていった。
 この前と違って、砂尾さんの方が泣きそうな顔をしている。

「……俺、こんなファイル読めないっすよ」

「私がなんとかするよ。わからないところは、エクスの小佐田おさださんに事情を説明して、聞いてみるよ」

「お! それなら俺、がんばるっすよ。小佐田ちゃんとのトークなら、任せろって感じです」

 刈り上げ兄さん、いきなりドヤ顔になった。

「すごいね。打合せはウェブ会議だけで一度も直接会ったことないのに、あっという間に打ち解けて」

「へへへ、小佐田ちゃんタイプなんで。いざとなったら遠隔操作やってもらいますよ」

「ちゃんと覚えて、総務に引き継げるよう、マニュアル補強しておくんだよ」

 おや、刈り上げポッチャリお兄さん、ドヤ顔が暗くなる。

「……美樹本みきもとさん、覚える気あるんすかね? 全然、こっちの機械室、来ないっすよ」

「アプリは総務課のパソコンからも操作できるし……わかった。課長に言っておくよ」

「リーチさん、美樹本さんに弱いっすよね。ま、俺も、ああいうできる風のオバサマには弱いんで、おんなじっすか、ははは」

 やめて! 砂尾さんをバカにしないで、ガキのクセに!
 ほら……砂尾さん、腕を組んで寂しそうに目を細めている……そんな顔、しないで。

「正常温度です」

「うわあ! なにコイツ、勝手にしゃべってるんすか!」

「あ、これね、ロビーと同じ音声が出るモードなんだ。ほら、人が通っただろ?」

「うるさくないっすか? 音、消しちゃいましょうよ」

 大山さんの丸っこい指が、マウスをいじりだした。やめてよ! 気持ち悪いじゃない! 触んじゃねーよ!
 あ……マウスの動きが止まった。砂尾さんが大山さんの手首をつかんでいる。

「へ? どーしたんすか?」

「いーんだ、そのままで。ちゃんとカメラが動いているってわかるだろ?」

 砂尾さんが目を閉じて、耳を澄ませている。

「いい声なんだ……ずっと、聞いていたくなる……」

「……リーチさん、そーとーお疲れっすよ」

 大山さんが目を丸くして固まっている。
 砂尾さんが疲れたら、あたしがいやしてあげる。だから……ポッチャリ刈り上げは、よけーなことするんじゃねーよ!
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