魔法少女~春夏秋冬

めけめけ

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花鳥風月

雪積る街の女たち

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 その日、予報よりも早く雪が降り出し、夕方には都心の交通網がすっかり麻痺してしまった。
 紆余曲折、やっとの思いで自宅の最寄り駅に着いたのは夜の11時を回っていた。いつもならここから自転車で帰るところだが、さすがにこの雪では無理である。

 タクシー乗り場に向かうと案の定、長蛇の列ができている。歩いて帰れない距離ではないが、雪の中を転ばずに帰るだけの体力も気力も私には残っていなかった。

 妻には遅くなるから先に寝ているように連絡を入れてある。駅前で一杯ひっかけてからならタクシーも拾いやすいだろう。

 いや、そうじゃない。
 妻はたぶんまだ起きている。
 ちょうど今から始まるバラエティ番組を見て、寝るのは12時半か、そんなものだろう。

 私は妻の顔を見たいとは思っていなかった。
 だからこの雪を口実にして、今日はせめて妻が眠ってしまってから帰ろうと、そんなことを安易に考えていた。
 いや、願っていた。

 そう願いながら、私はやはりタクシー乗り場に並んでいる。あと30分の辛抱だ。

『家に帰って熱いシャワーを浴びて……』

 それからどうする。妻が何か温かい物でも食べさせてくれるというのか。
 何かやさしい言葉をかけてくれるのか。
 いや、私は妻に、何か言葉を掛けられるのか。

『何か、あったかいものでも作ってくれよ』

 そうじゃない。
 そうならないし、そうしてこなかった。

「すごい行列ね。これじゃ、何時になるかわからないわね」
 私の背後で声がする。振り返るとそこには見知らぬ若い女性が立っている。それはそうなのだ。こんなところで若い知り合いの女性などいやしない。しかし、彼女は親しげに私に話しかけているようだった。

 親しげに――とは、声のトーンもそうなのだが、何よりもその距離である。
 近すぎる。
 きっと誰かと間違えたのだろうと、私は振り返りざまに「なんでしょうか?」とか「どちら様でしょうか?」くらいの言葉をかけるつもりでいたのだが、それを果たすことはできなかった。

 なぜなら彼女は、とても美しく、とてもきれいで、そしてどんどん近づいてきたからである。

 言葉を失った私に、彼女はこう告げる。
「寒くないですか? お疲れでしょう? どこかで温かい物でも食べていきませんか。それよりお酒の方がよかったかしら」
 これはもう、本当に何かの間違えに違いがなかった。
「あのぉ、すいません、どこかでお会いしたことが……どうにも思い出せなくて、申し訳ありません。私は――」
 自分の名前を告げると、彼女は不思議そうな顔をして私をじっと見つめる。
 私は自分の体温が上昇するのをはっきりと感じた。うっかりすると汗が吹き出してしまいそうである。
「そういうことは別にどうでもいいのですけど、いけませんか?」

 調子がつかめないまま、彼女は私の腕を取り、タクシー乗り場から繁華街の方へと私を引きずるように歩きはじめる。

 どうにも恰好がつかない。

 白い傘、白いコート、白いセーターにホワイトデニム、白のブーツ。彼女の存在は雪に溶け込んでしまいそうに白かった。黒髪は長く、胸のあたりまで伸びている。肌の色は白く、細い目にすっと通った鼻筋。唇はピンクで薄いが、しゃべる時に時折見える真っ赤な舌が妙に印象に残る。

 いくら思い出そうとしても、やはり彼女と私は知り合いではない。

 このままどこかの店に連れて行かれるのなら、これは何か裏があると思うのだが、そうではないようだった。
「どこか行きつけのお見せとかあります? あまり騒がしいところは苦手。でもカラオケは好きよ」
 一件目はこちらが主導で二件目に「私、ここに行きたい」とか言い出すのだろうか。しかしそれにしてもわからない。彼女は確かに誰かに似ているような気がするが、しかしこんなに若い女性の知り合いはいない。

「ねぇ、教えてくれるかなぁ。君は――」
「私、ユキ。都会でまさかの大雪でしょう。めったにないことだから、どうしていいかわからなくて、私、困っていたところなの」
 何をいっているのかさっぱり、わからない。
「いや、そうでなく……前にどこかでお会いしていましたか?」
 彼女は不思議そうな顔をして私の顔を覗き込んだ。
「道を尋ねるのに、知らない人に話しかけちゃいけないって言ったら、みんな迷子になっちゃうわ」
 そういうことではないと思いながら、なぜか彼女の声は耳に心地よく、抗うことのできない説得力のようなものを持っている。そして、もっと彼女の声を聴きたいという衝動が、じわじわと湧いてくる。

 彼女ともっと会話がしたい。

「よくわからないが、そう、そういうことなら、いい店を知っている」
 私は何度か立寄ったことがあるバーに彼女を誘った。彼女はお酒が飲めればどこでもいいと言って着いてくる。何年か前にふらっと立ち寄ったその店は、30代前半の若いマスターが一人で切り盛りしている。なんでも母親から店を受け継いだそうなのだが、別に母親が亡くなったというわけでも、引退したというわけでもなく、親父さんのやっている中華料理屋を畳んで小料理屋に改装し、そっちの手がかかるようになったので、息子にバーを託したのだと聞いている。

 値段も手ごろで、もともと中華料理屋の手伝いをやっていたこともあり、料理の腕も立つ。しかし物事なかなかうまくいかなものである。店の前にくると張り紙が貼ってある。

"本日、諸事情により、臨時休業いたします"

「まぁ、残念。他を当たりましょう」
 私が謝るよりも先に私の腕を引いて歩き出した。彼女はこの状況を楽しむかのように溌剌としていて、なんだか羨ましかった。これが若さなのかとそんなことを思いながら、彼女と二人、適当に店に入ろうとしたが、どこもやっていないか、満席か、もう閉店しますといった具合になかなか落ち着くことができない。

 だが、なぜだかそれが楽しい。
「なんかこうなると大手のチェーン店とかにすればいいんでしょうけど、なんか、意地になって探しちゃいますね。なんか楽しくないですか。こういのう」

 普段から手袋をしない私は、両手をズボンのポケットに入れたまま歩く。彼女は僕の左腕にしがみつき、寄り添って歩く。彼女が持っていた白い傘はささず、私の大き目の傘に二人、まるで恋人のように夜の街を歩き回っている。路面には雪が降り積もり、静寂の中に、雪を踏みつける音が妙に心地いい。子供の用に踏みなさられたところではなく、誰もまだ歩いていない道を選んでいるうちに、繁華街から少し離れた人通りの少ない場所にたどり着いた。

「この辺りには店はないか。引き返そうか?」
 立ち止まって振り返ると、当たりの風景はまるで見覚えがない。いったいどこに居るのかだいたいの場所もわからないというのは、さすがに変だと思った。
「随分と歩いてきてしまったのか、どうにもここがどこだかわからないな」
 彼女はどういうわけだか黙りこくってしまっている。これはもしかすると彼女を怖がらせてしまったのではないかと、慌てて弁明をする。
「いや、本当にここがどこだかわからないんだ。冗談じゃなく。本当に。もちろん何か企んでいたりはしない。とりあえず足跡をたどって行けば元の位置に戻れるだろう」

 私は引き返そうと来た道を指差し、そして路面を見る。真っ白に積もった雪が街頭に照らされ銀色に光っている。雪の勢いはまし、どうにも先が見にくい。街灯の数が少ないせいもあるが、ここに来るまでに何度か細い路地をまがったような気もするし、ずっとまっすぐ歩いたような気もする。

 なんで記憶が曖昧なんだ。それにいくらなんでも周りに灯りがなさすぎる。いや、それだけじゃない。足跡が少し先で途切れていないか。それはいくらなんでもおかしい。どれだけ雪が激しく降っても、数メートル先の足跡が消えて無くなるということはないだろう。

 私は少しばかり怖くなり、そして今まで感じていなかった寒さを急に感じるようになった。情けなく身体がぶるぶると震えている。
「寒いの?」
「ああ、さむいね」
「心細い?」
「ああ、心細いね」
「帰りたい?」
「……」
「帰りたくないのね」
「そうだね。帰りたくは……ないかもね」
「そう」
「ああ」
「じゃあ、このままで」
「ああ、このままで」
「私と一緒に居てくれる?」
「ああ、君と一緒にいたい」
「ずっと?」
「ああ、ずっと一緒だ」

 私はどういうわけだか満たされていた。心のつかえが取れたような安堵感なのか、彼女の天使が囁くような美しい声に酔ってしまったのか。そして急激に疲れを感じ、身体が思うように動かない。

 眠い

「疲れたのでしょう?」
「ああ、とても疲れたよ」
「いいわよ。私が癒してあげる」
「ああ、とても安心する。君の声を聴いていると……なんだか気持ちよくて眠くなる」
「いいのよ。さぁ、私の胸の中でお眠りなさいな」

 彼女は白いコートのボタンを外し、コートを両手で広げた。白いセーターの胸のふくらみを見た瞬間、私は無力になり、彼女の目の前にひざまずき、身体を預けた。

 だが、私は彼女に求めていたぬくもりにたどり着くことができなかった。
 どういうわけだかコートの中の彼女のセーターはふわふわとして気持ちがいいのに、温度がまるでなかった。外気よりも冷たいのではないかと思うくらいに、彼女の体温は冷え切っていた。

 いや、正しくない。凍り付いていると言っていいほどに、冷たくなっていた。

「君はいったい……だれ……なんだ」
「私はユキ。雪の中で迷える者に、私は取り憑くの」
 ああ、これが雪女ってやつか。都会に出るとは、知らなかった。
「私は死ぬのか」
「それはあなた次第よ。あなたの本当の望みは何?」
「私の望み……それは」

 凍えるような寒さに耐え、私は唇を震わせながら呟いた。
「妻を……」

"お客さん、お客さん、そろそろ閉店ですよ"
 誰かが肩を叩く、その手にはぬくもりが感じられる。
"お連れのお客さん、帰っちゃいましたよ"
 頭ががんがんする。男の声がぐるぐると回る。
"そろそろ始発が動き出しますよ"
 始発……なんのことだ。いや、それよりこの声、どこかで聞いたことのある声だ。

 どうやら眠ってしまったらしい。それもお店で。ここは知っている。マスターじゃないか。今日は臨時休業じゃなかったのか。

 そこは私が最初の立寄ろうとしたバーのカウンターであった。どうやら酔いつぶれ、この時間まで寝かして置いてくれたようだ。そういえば"連れが帰った"と言っていた。だれだ。何のことだ……誰と一緒にここに来た。
 私は――。
 頭が痛い。
 寒気がする。風邪でも引いたのであろうか。

 夢か。
 夢なのか。
 頭だけじゃない。
 体中痛い。
 身体が重い。

"お題はお連れさんからいただいていますから、どうかもうお帰り下さい"
 連れとは誰のことなのか。私はいつこの店に来たのか。そもそも今日は臨時休業ではなかったのか。いろいろと聞きたいことはあったが、それほどなじみでもない店で、こんな醜態をさらしてしまっては、どうにも恰好がよくなかった。

 私はマスターに促されるまま、店を後にした。

 雪は止んでいた。
 10センチ以上の積雪は久しぶりだろう。去年は雪を観なかったのではなかったか。
 ともかく寒い。
 早く家に帰ろう。
 駅のロータリーには人がまばらで、タクシー乗り場には数台客待ちのタクシーが止まっている。
 私はタクシーを拾い、雪がどうの、寒さがどうの、駅前で人が倒れ、救急車で運ばれたとか、そんな世間話をしているうちにマンションの前に付いた。
 タクシーを降り、真新しい雪の上を歩く。
 雪を踏みつける音が心地いい。それで私はようやくユキと言う女性の名前を思い出した。

「ユキ……、確か、そんな名前だった。変わった娘だった。悪いことをした。また会うことがあったら、食事でもおごってやろう。また逢えたら、の話だが……」
 明け方5時。まだ外は真っ暗だ。彼女とどんな会話をしたのか、そもそもあの店での記憶はまるでないが、歳を取るとこんなものなのか。楽しいことはすぐに忘れてしまう。そういえば今日は燃えないごみの日だったか。そういうことは、覚えているものだ。
"ゴミ、忘れないでね"
 妻と最近かわした言葉と言えば、確かにそんなことくらいしか思い出せない。起こさないようにそっと玄関を開けないと、こんな時間から妻の不機嫌な顔は見たくない。

 嫌だ。

"あなたの本当の望み、叶えてあげる"
 ふと、脳裏の彼女の言葉が浮かび上がる。私の本当の望み――それは。

 郵便受けを覗く。さすがにこんな日はチラシも入っていない。
 エレベーターで4階に上がる。なぜか妙な胸騒ぎがしてきた。そんなことはあるはずはないと思っても、その不安はぬぐいきれなかった。
 私はズボンのポケットからカギを取り出そうと手を突っ込むが、おかしい。鍵がない。まさかどこかで落としたのか。いや、そんなはずはない。雪の中を彼女と歩いているとき、確かに鍵はポケットの中に入っていた。

 まさか、あの店に落としてきたのか。
 玄関のドアノブに手を掛け、ゆっくりと回す。回った。
 鍵は、かかって、いなかった。

 鍵を掛け忘れたのか。それとも私の為に鍵を開けておいてくれたのか。いや、そんなはずはない。いつも妻はしっかりと鍵を掛けて寝る。一度たりとも、鍵が開いていたことなど、なかったではないか。

 ゆっくりとドアを開けて中を覗きこむ。真っ暗で、そして寒い。おかしい、まるで窓を開けていたかのように寒い。妻は寒いのは嫌いで、寝る直前まで、暖房をつけている。こんなに寒いのはおかしい。いや、それよりも、これは……。

 玄関が濡れていた。
 誰かが濡れた靴で歩いた跡がある。妻が夜中に出かけるはずもない。
 こんな雪の日に誰か訪ねて来たのか。
 下駄箱の上に、あってはならない物を私は見つけてしまう。
 それは私の鍵だ。
 私が持っているはずのものが、どうしてここにある。誰かがこの鍵を使って、ここに入ったということなのか。

 誰が……

"あなたの本当の望み、叶えてあげたわ"

 耳元で囁く声。そんなはずはない。僕の後ろには誰もいないはずだ。
 私は玄関からマンションの渡り廊下を覗く。誰もいない。ドアを締め、鍵を掛ける。そして雪のかかった靴を脱ぎ、真っ暗な部屋の廊下を歩きはじめる。寝室は一番奥だ。

 私はポケットに鍵をしまい、コートを脱ぐ。習慣と言うのは恐ろしいもので、こんなときでもコートは必ず玄関で脱いで、部屋に上がる。そうしないと、妻はいつも怒るのだ。鞄を書斎に置き、コートをハンガーにかけ、ネクタイを外す。上着を脱ごうとしたが、さすがに寒い。私はそのまま、寝室へ向かった。

 結婚した当初はベッドで一緒に寝ていたが、今は、ベッドを処分して、別々の布団を敷いて寝ることにしている。寝室を覗くと布団は二組敷いてある。それは私の為に敷いてくれているのではない。"別々の布団で寝ましょう"と言う、妻の意志表示なのだと理解したとき、私たち夫婦は、どこかよそよそしい存在になったのかもしれない。それでも喧嘩はしたことはなかった。私は争い事が嫌いだったし、妻の小言を聞き流すことは、どうということはなかった。
 私の両親がそうだった。それでも二人は晩年、仲良く旅行に行ったり、食事をしに出かけたりしていた。私たちもいずれ、そうなるのだろう。これはそうなるまでの過程なのだと、私は思い込むようにしていた。

 妻は布団の中で眠っている。目が覚めると。妻は向こうを向いて寝ている。妻の寝顔を見ることは少ない。だが、今日の彼女は仰向けに寝ている。顔は暗くて見えないが、身体の麦が仰向けになっているのは判る。しかしよくもこんなに寒い中で眠れるものだ。自分の吐く息が白い。何かがおかしい。いや、ちがう。

 何もかもがおかしいじゃないか。

 私は、妻の枕元に立ち、そしてぐるりと一週、布団の周りを歩いた。妻は人の気配に敏感なのか、こんなことをすればすぐに目を覚ます。とくに明け方はトイレに立つことが多く、そういう時に目が合うと睨み返される。だから私は、いつも寝たふりをしている。

 やはりおかしい。

 私は妻に怒られることを覚悟して、その寝顔を見ようとゆっくりと顔を近づける。身体が寒さで震えているのか、恐ろしさで震えているのか、或いはその両方なのか。ともかく、もし妻が目を覚ましたなら――

"あなた、私をどうにかするつもりなの?"と言わんばかりの目で睨まれるだろう。

 馬鹿な。
 私が、そんなことするわけないじゃないか。
 私が、自分の妻を……どうにかしようなんて。

 私はすっかり気がふれて、気が付けば自分の両手を前にかまえ、思いっきり妻の首筋に手を掛けようとしていた。そしてそこまできてようやく気付いた。

 何がおかしいのか――妻は呼吸をしていない。

 妻の両手は布団の端をがっしりと掴んだまま、硬直している。パジャマから見える肌は霜が降りたように真っ白になっている。目は空いていないのではなく、白目をむいて苦悶の表情で歪んだまま、妻は絶命していたのである。

「私の望み……それは、妻を、殺してほしい」
 そうだ、あの時私は、そういった。そう望み、そう願ったのだった。

「あなたの本当の望み、叶えてあげたわ」
 誰かいる。私は確信をもってゆっくりと振り返る。そこに一人の女性が佇んでいる。

「君はあのときの……」
 私は声を殺しながら尋ねた。目の前にいるその女性は、あのタクシー乗り場で出会ったユキだ。

「あなたはずっと迷っていた。帰りたくないと望んでいた。だから私は、あなたと出会ったのよ。あなたに道を示すために、私は雪と共に現れたのよ。さぁ、あなたも眠りなさい」
 ユキはゆっくりと私に近づき、私の耳もとで息を吹きかけた。

 それはとても冷たい息だった。
 私はどうしようもない眠気に襲われ、そして意識が遠のいていく。

「そうか、君は……、私の……」

 嗚呼、そうなのだ、ユキは若い頃の妻の姿にそっくりだ。
 妻をこんなふうに変えてしまったのは、私なのかもしれない。

「すまない」
 
 声、また声が聞こえる。暗闇の中で声が聞こえる。

「あなた、あなた……」
 妻の声だ。身体を誰かが激しくゆすっている。
「気が付いたの……あなた、聞こえる?」
 どうしたというのだ。私は死んだのではないのか。ならば、妻に言わなければならないことがある。
「すまない、私がいけなかった。すまない」
「何を言っているの。しっかりしてちょうだいな」
 また激しく身体をゆする。体中が痛い。身体を起こそうと思っても思うように動かない。目を開ける。眩しい。真っ暗なトンネルから抜け出したような感覚。そして前に妻の姿が見える。
「よかった。気づいたのね。今、お医者さんよんできますから」
 どうやらここは病室のようだ。私はどうやら病院のベッドの上に居るらしい。

 なぜだ――なぜ私はここにいる。

「私はミサ。黒き望みをかなえる者。悲しき想いを見つめる者。深き闇をさ迷う魂の叫びに、耳を傾ける者よ」
 誰だ。女の声――聞き覚えがある。カーテンの向こう側に人の気配がある。
「お目にかかるのは初めてよ。直接はね。でもずっとあなたを見ていたわ。そしてあなたの望みを、願いを、声を聞いていたわ」
 彼女の声には聴き覚えがある。そうこの声だ。ユキの声だ。

「黒き望み……、私の、望み」
「まずは、あなたは、あなた自身のことを知る必要があるわね」
 そう言って彼女は私の前に姿を現した。


 彼女はまるで、フランス人形のような透き通った白い肌をしている。
 髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としている。
 目はパッチリとしていて、どことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしている。


 確かに私の知っているユキではなかった。声は同じだが口調が違う。
 ユキはもっと若々しくて、生命力に溢れていた。
 だが彼女は違う。彼女には永遠に失われることのない不滅の魂のような永劫と、いつも死と隣り合わせでいるような危うさ、儚さ、そして絶対的な闇が横たえていた。

「あなた、あの雪の夜、どうして家に帰りたくなかったのか。いい加減に思い出すべきよ」
 そうなのだ。
 私は何もかもがすっかり嫌になっていた。
 妻との関係はすっかり冷え込み、憎しみさえ持っていた。だからあの雪の夜――タクシー乗り場で待つ間中。どうやって妻を殺すかということをずっと考えていたのだ。

「私にはそういう声が、黒き望みがわかるのよ。だからあなたの望みをかなえてあげようと、姿を変えて近づいたの。あなたの理想とする女性の姿でね。まさかそれがあなたの奥様の若い頃だなんてね。人の本当の望みって自分自身でもわからないものなのよ。まったく迷惑な話よ。おかげで私は、らしくないことをさせられたわ。骨折り損のくたびれもうけとは、このことね」

 何が何だかさっぱりわからなかった。どこからが夢でどこからが現実なのか。

「奥様のこと、大事にするのね。でもいいこと。"私のこと、誰かにしゃべったら、殺すわよ"」

 カーテンの向こう側の影がすっと消えた。入替に妻と看護師がやってきた。そのときにことの顛末を聞くことができた。

 私はタクシー乗り場で気分を悪くし、意識がもうろうとしたまま、私が最初に行こうとした店にたどり着いたらしい。店の前で倒れ込んでいた私を、たまたま忘れ物を取りに来た店のマスターに発見され救急車で運ばれたらしい。

 つまりユキは幻か何かだった。その幻の中で、私は妻の死を願い、その夢を見たということなのだろか。

「むしの知らせっていうのかしら。不思議なことがあったのよ」
 医師の診断を受け、体力が回復するまで、もう一日入院するように進められた。ベッドに横になった私に、妻が妙な話をしてくれた。

 帰りが遅くなるって聞いていたけど、12時頃だったかしら。
 玄関のドアが開いたの。
 私、てっきりあなたが返ってきたものかと思って……
 でも、なんだか雰囲気がおかしくて。
 部屋に入って来た感じがしないし、それに部屋の空気が急に冷たくなってきたから、もしかしたら玄関が空きっぱなしになってやしないかと思って、様子を見に行ったのよ。
 とても寒かったわ。
 凍え死んじゃうかと思ったわよ。
 でもね。誰もいなかったの。
 おかしいなぁと思って、玄関の電気をつけたらあなたの鍵が下駄箱に置きっぱなしになっているじゃない。
 私、大変、家に入れないと思って、心配で眠れなかったのよ。
 そしたら病院から電話がかかってきて……
 これってなんかよく聞く話じゃない?
 死んでしまった人の魂だけが家に帰ってきたみたいな。
 不思議なこともあるものよね。
 でも違うかしらね。あなたは無事だったわけだし……おかしなことも、あるものね。

 私は背筋に寒い物を感じた。
 なぜ、こうも妻は楽しげに話をしているのだろう。
 私が助かったことが、そんなにうれしいのだろうか……
 それとも

 私はミサという女の言葉を思い出していた。

"まずは、あなたは、あなた自身のことを知る必要があるわね"
"人の本当の望みって自分自身でもわからないものなのよ"

 私は妻に何を望み、妻は私に何を望んでいるのか。

「そういえば、あなた、ずいぶんとうなされていたわよ。雪がどうの、願いがどうのって」
 私はうっかり、ユキやミサのことを口に出しそうになり、戦慄した。
「そうか。よく覚えていないな……」
 こころなしか、妻が残念そうな顔をした気がした。
 それきり妻はいつものように黙りこくってしまった。

 降り積もった雪は、簡単には解けないのだろう。

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