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しおりを挟む加賀美が朔の荷物を引き取りに来る日。俺は大学の授業を全部休んだ。
約束は午後だから、午前の授業には出席できたけど、どうしても家から出る気になれなかったのだ。
午後から休みを取ってくれていた親父は、正午過ぎに駅前で買った牛丼を持ってやってきた。
「どうせ、メシ食ってないんだろ?」
普段適当なくせに、こういうときに限って変に気が効くから嫌になる。
あまり食欲はなかったけど、せっかく買ってきてくれたのに食べないのも悪い。
お茶を入れて、親父とふたりで無言で牛丼を食べた。
部屋のインターホンが鳴ったのは、午後3時を少し過ぎた頃。
いつ加賀美が来るかと意識を張り巡らせていた俺は、インターホンの音に過剰に反応して持っていたスマホを床に落とした。
立ち上がった親父が、腰を屈めてスマホを拾う。
「落ち着け」
スマホを手渡しながら、親父が俺の手をぎゅっと強く握る。
それだけのことで少し気持ちが落ち着いて、あぁやっぱりこの人は俺の父親なんだと思った。
先に歩いていった親父がドアを開けると、にこやかに微笑む加賀美が立っていた。
「こんにちは」
加賀美はまず俺の顔をちらりと見てから、親父と視線を合わせて会釈した。
「さっそくですが、上がらせてもらってもいいですか? 手っ取り早く済ませたいので」
加賀美が開いたドアの隙間から身体を滑り込ませてくる。その隣にも後ろにも、朔の姿はなかった。
「朔は?」
「車で待ってます」
加賀美が少し面倒臭そうに俺に視線を向ける。
「あなたが待ってるように指示したんですか?」
つっかかる俺を見下ろして、加賀美がため息を吐いた。
「私は何も指図はしていません。付いてきてもいいし、車で待っていてもいい。だけど、陽央くんに会うことで気持ちが揺れるなら車にいなさい、と。そう伝えたら、朔が車に残ると決めました」
「それは、指図したのと同じことなんじゃないですか?」
「陽央、落ち着け」
「そうですよ。落ち着いてください、陽央くん」
親父が俺を制したことで気を良くしたのか、加賀美が余裕気に微笑む。
「陽央くん。君がそうやって騒ぎ立てるのがわかるから、朔は付いてこなかったんだよ。朔はうちに来たほうが幸せになれる。あの子はちゃんと賢い判断をしたんだ」
加賀美は靴を脱ぐと、俺の肩を押しのけるようにして部屋に上がり込んできた。
「朔の荷物は纏めておいてくれているのかな。そんなにないとは聞いているけど」
加賀美が持ってきてた大きなボストンバッグを床に置く。
朔が一緒に部屋に来ると思っていたから荷物なんて纏めてない。だけど、加賀美の言うように朔の私物は少なかった。
着替えと学校の教科書類、文房具、その他細々したものが少しと母親の遺品。
それだけ詰め込んでも、加賀美の持ってきたボストンバッグはまだ余裕があるくらいだ。
加賀美が荷物を詰めている間に、朔が部屋にあがってこないだろうか。
そんな期待をして、何度も玄関に視線をやったけれど、朔が部屋にやってくることはなかった。
「本当に少ないですね」
ボストンバッグを抱えて玄関に戻った加賀美が苦笑いを浮かべる。
「うちに来たら、あの子のためにもっと色々と用意するので安心してください。それでは」
「あの……」
加賀美が頭をさげて出て行こうとしたとき、ずっと黙って様子を見ていた親父が加賀美を呼び止めた。
「何か?」
「あの、少しだけでも息子と朔に話をさせてやることはできないですか?」
親父が気遣うように俺を見る。
少し遅れて俺に視線を投げた加賀美は、苦々しげに口元を歪めた。
「何の話をするんですか? この2日間、朔はここへ帰ろうとしなかった。今だって、部屋に上がってこない。それがあの子の意志でしょう。あの子のほうに話すつもりがない。陽央くん、君が兄として本当に朔のことを思うなら、その気持ちを汲み取ってやってはどうかな?」
朔と居た時間は俺のほうがずっと長いのに、加賀美が知ったような口を利く。
俺が朔と過ごしてきた時間が、加賀美の言葉で全て否定されたような気がして悔しかった。
加賀美が、太腿の横できつく掌を握りしめる俺を一瞥して鼻で笑う。
「それでは、お世話になりました」
全く気持ちのこもっていない声でそう言って、加賀美が部屋を出て行こうとする。
そのとき、ほとんど衝動的に身体が動いた。
加賀美を押しのけるようにして外に出ると、階段に向かって走る。
「陽央くん!?」
加賀美は俺の咄嗟の行動に呆気に取られたのか、すぐには追いかけて来なかった。
階段を駆け降りてマンションの外に出ると、朔が乗っている加賀美の車を探す。
けれど、マンションの前の道路に車は止まっていなかった。
マンションの横に車が数台停められる駐車場があるから、そっちかもしれない。
俺はエントランスの横を抜けると駐車場へと走った。
予想通り、駐車場には見慣れない車が一台停まっていて、後部座席に小さな人影が見える。
俺は大きく深呼吸すると、朔の乗っている車に向かってゆっくりと歩み寄っていった。
俺に会わずに加賀美の家に行くことが朔の意志?
兄として朔を思うなら、気持ちを汲み取ってやれ?
これまで散々人の家に居座って、俺の中に存在感を植え付けておいて。それで、黙ってさよならしていこうとするやつの気持ちなんて、汲み取れるわけないだろ。
加賀美の車のそばに立つと、朔が座っている方の後部座席の窓を軽くノックする。
俯いて座っていた朔は、俺に気付くと驚いたように目を瞠った。
「お兄ちゃん……」
声は聞こえなかったけど、朔がそうつぶやいたのが窓越しにわかる。
「降りてこいよ」
車の中まで聞こえるように大声を出すと、朔が下を向いて首を横に振った。
俯く朔の肩が小さく震えている。表情は見えないけれど、朔が泣いてないことだけはわかってた。
「朔、降りてこい」
「陽央くん、やめなさい」
もう一度窓を叩いたとき、後ろから足音が聞こえた。
加賀美だった。その後ろから、親父も走って追いかけてくる。
もう時間がない。
「朔、早く降りてこい!」
きつい口調で怒鳴ると、窓の向こうで朔が怯えたように肩を揺らした。
「朔!」
祈りを込めて、名前を呼びながら窓を叩く。
「陽央くん、やめなさい」
けれど、朔から何の反応も得られないまま、俺は加賀美に取り押さえられた。
「あまりしつこいようだと、こちらにも考えがある」
加賀美が俺の背後で低い声を出す。
それでも念を送るように窓の向こうをじっと見つめ続けたけれど、朔が俺の思いに応えてくれることはなかった。
「陽央……」
親父が歩み寄ってきて、俺の肩に手をかける。
納得のいかない思いを抱えたまま、俺は黙って加賀美の車から離れた。
「それでは、今度こそ失礼します」
加賀美は親父に向かって冷たく言い放つと、運転席に座った。
加賀美はもちろん、朔も、一度も俺たちのほうを見ることはなく、マンションの駐車場から車が出て行く。
その場に残された俺の心には、言葉にできない悔しさと虚しさが残った。
加賀美の車が去ったあとも動けずにいると、親父が俺の肩を慰めるようにぽんと叩いた。
「悪かったな。最初にお前を巻き込んだのは俺だ」
「今さらだな」
低い声でつぶやく親父に苦笑する。
親父が朔を俺の元に連れてきたりしなければ。別れた母親に変な同情なんてしなければ、こんな思いせずに済んだんだろう。
だけど……
「親父に謝られる覚えはねーよ」
「そうか」
結果はどうであれ、朔と出会わなければよかったとは思わない。
マンションの駐車場で、俺たち親子は加賀美の車が去って行ったほうを見つめながら無言で立っていた。
「戻るか」
しばらくして、親父が声をかけてくる。
部屋に戻ったら、一人暮らしだった半年ほど前に戻るのか。何か変な感じだ。
「お兄ちゃん!」
部屋に戻りかけたとき、背後から子どもの叫び声がした。
振り向いた親父の目が驚いたように見開かれるのを見て、俺も後ろを振り返った。
「お兄ちゃん!」
こっちへ向かって駆けながら、大きな声をあげていたのは朔だった。
朔が大声で叫ぶのをほとんど聞いたことがないから、顔を見るまでそれが朔だと気づかなかった。
どうして……?
俺がどれだけ呼びかけても答えなかった朔が、こちらに向かって駆けてくる。
状況をいまいちよく理解できずにいると、朔が俺の目の前で急ブレーキでもかけるみたいにぴたりと止まった。
「お、兄ちゃん……」
俺を見上げながら、朔が呼吸を整える。
それが落ち着くと、朔がスカートのポケットから何か取り出して俺に差し出してきた。
「これ……」
朔が持っていたのは俺の部屋の鍵だった。
そこには、いつか俺が渡したピンクの鈴が付いたウサギのキーホルダーがくっついている。
「これ、持ったままだったから」
部屋の鍵を差し出しながら、俺を見上げる朔。微笑んでいるつもりなのか、口元を無理やり引きつらせている。
だけど、俺を見つめる朔の目は少しも笑っていなかった。
「わざわざいいのに」
「でも、もし朔が失くしたり落としたりしたら、お兄ちゃん困るでしょ?」
その言葉を聞いて、あぁ、やっぱり行ってしまうんだなとぼんやりと思った。
鍵を受け取ろうと、朔に向かって手を開く。
だけど朔はそれを俺には返さずに、躊躇うように腕を下げた。
「あの、ね……」
言葉を詰まらせた朔の大きな瞳が揺れている。
朔が小さな頭で懸命に考えて、何かを必死に伝えようとしてくれているのがわかったから、俺は静かに頷いた。
「あの、ね……」
その言葉を何度も繰り返してから、朔がようやく俺に伝えたい何かを話し始めた。
「あの、ね……朔、お兄ちゃんに会えて嬉しかった。お兄ちゃんが本当のお兄ちゃんで嬉しかった」
「うん」
「ママと一緒にいられないときもお兄ちゃんがいたから、普通にできたし、笑えたよ」
「うん」
「たくさんたくさん、ありがとうって思ってるよ」
「うん」
「それなのに、ちゃんとありがとうを言わずにいなくなろうとしてごめんね。さっきも、お兄ちゃんの声無視してごめんね」
朔が今にも泣きそうな目で俺を見上げる。
でもどれだけ泣きそうでも絶対泣いたりしない。
俺は朔の目を見つめ返しながら、静かに首を横に振った。
「いいから。気にすんな」
俺が答えると、朔がほっとしたように頬を緩める。
「朔ね、お兄ちゃんのこと大好きだよ。お兄ちゃんが家族でよかった。朔と一緒にいてくれてありがとう」
はにかんだように笑う朔の顔を見つめながら、胸が締め付けられるみたいに苦しくなった。
「俺も、朔が家族でよかったよ」
本当はもう少し一緒にいたかったけど。その思いは俺の胸の中にだけ留めておく。
笑いかけてやると、朔もそれに答えるようにはにかんだ。
「加賀美の家に行ったら、子どもらしくわがまま言えよ」
新しい場所で、朔がちゃんと笑えたらいい。そして、できれば思いきり泣けたらいい。
俺の願いをどこまで感じ取ってくれたかはわからないけど、朔は困った顔で中途半端に頷いた。
でも頷こうとしたってことは、加賀美の家で新しくやっていこうっていう朔の意志は固いんだと思う。
どんな気持ちで朔が加賀美の家に行こうと決めたのかはわからないけど。
朔が選んだのなら、俺は朔の幸せな未来を願うだけだ。
話ができないままに加賀美の車が走り去ったときは虚無感しかなかったけれど、こうして話ができた今は、俺の気持ちも落ち着いていた。
朔が決意したんだから、ずっと年上な俺も兄貴としてちゃんと覚悟を決めなきゃいけない。
俺はまだ朔の手の中にある部屋の鍵に視線を遣ると、改めて彼女の前に手のひらを差し出した。
「それ、もらうな」
「うん」
朔が小さく頷いて、鍵を持つ手をあげる。
けれどそれが俺の手のひらに落ちる寸前で、朔が鍵ごとウサギのキーホルダーを握りしめた。
「あの、ね……」
「どうした?」
「このウサギはもらっていい?」
朔が握りしめた手をひっくり返して開くと、キーホルダーに付いたピンクの鈴がチリンと鳴って小さなウサギと目があった。
黒目がちの大きな瞳。これを買ったとき、その目が朔によく似ていると思ったんだ。
あのときは鬱陶しいチビだと思ってたのに、こんなキーホルダーに朔を重ねたなんて。
当時を思い出して、ふっと笑う。
「いいよ。ウサギは餞別に持ってけよ」
「うん」
俺がそう言うと、朔がキーホルダーから鍵を外し始めた。
丸い金属の輪に鍵の上部の穴を通して引っ掛けるタイプのキーホルダー。
大人の俺がつけるときは簡単だったけど、力の弱い朔が外すのは難しいらしい。
手間取っている様子だったから、代わりに外してやろうと思って手を出した。
「貸してみろ」
「待って。朔がやるから」
だけど、キーホルダーをつかもうとした俺の手は振り払われてしまう。
そのとき、キーホルダーが付いたままの鍵が朔の手から滑り落ちて地面に転がった。
「あーあ。だから外してやるって言ってんのに」
足元に落ちた鍵を拾おうと屈むと、朔が俺より素早い動きでそれを拾う。
見上げると、朔が唇を噛んで俯いていた。
きつく唇を噛み締めている朔の瞳が揺れている。
その瞳に薄っすらと涙の幕が張っているように見えたけど、朔が泣かないのはわかってる。
わかってる。それなのに……
「朔」
俺が名前を呼んだその瞬間、朔の目からぽとりと一粒雫が落ちて、それが、地面を濡らした。
「え……?」
地面に落ちた雫が何か。頭がそれを理解するまでにしばらく時間がかかる。
それが朔の涙だと気付いたときには、俺と朔の間の地面に小さな染みがたくさんできていた。
「朔?」
朔が、泣いてる……?
驚きながら立ち上がりかけたとき、朔が何かつぶやいた。
「……た、い」
「え、何?」
朔の声が小さすぎて聞き取れない。
眉を寄せながら朔な顔に耳を寄せたとき、朔がさっきよりも少し大きな声で言った。
「本当は、お兄ちゃんと一緒にいたい……」
その言葉を聞いた瞬間、何とも言えない感情に押しつぶされて胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
「だけど、朔がいたらお兄ちゃんに迷惑がかかる。朔がいなかったら、お兄ちゃんはママのことを知って悲しい気持ちにならなかったし。朔がいなかったら、加賀美のおじさんからいろいろ言われずに済んだし。朔がいなかったら、もっとたくさんお友達と遊んだりアルバイトしたりできたし」
俯いて涙を零しながら「朔がいなかったら」とそればかりを繰り返す。
「朔がいなかったら────」
それを聞いていると、俺まで苦しくて泣きそうになって。我慢できずに朔の身体を包み込むように抱きしめた。
俺に抱きすくめられた朔が、腕の中で身を固くする。
不安そうに震える朔に、俺は心からの言葉を囁いた。
「いなかったら、じゃねぇよ。『朔がいたから』俺はお前に会えたんだろ」
「お兄ちゃん……」
朔が涙声で俺を呼ぶ。
俺の家を出ていくのが朔の意志なら、加賀美に朔を任せようと思ってた。だけど、気が変わった。
「ガキのくせに、大人に変な気ぃ遣ってんじゃねーよ。泣き喚いても暴れてもいいから、本当に思ってることをちゃんと言え。わがまま言うなよ、クソガキって思うときもあるかもしれないけど、それでも俺がちゃんとお前の言い分にも耳傾けてやる。わがまま言ったって、嫌ったり見捨てたりしねーよ。迷惑かけられたとも思わない。だって、俺はお前の家族なんだろ」
静かに涙を零していた朔が、俺の腕の中で唸るみたいな掠れた声を漏らす。
頭をそっと撫でてやると、それまで震えながら必死に堪えていた朔の声が徐々に大きくなった。
「う、わぁぁぁっ……」
朔が泣くのを見るのはこれが2度目。
だけどその泣き方は、1度目のときよりもずっと年相応の子どもらしかった。
腕の中で泣きじゃくる朔を抱きしめて、その背をゆっくりと、とんとんと叩く。
朔が泣き止んで落ち着くまで、俺はそうして朔を抱きしめていた。
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