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マンションの自室に着いて、ドアノブに手をかける。
ノブを押し下げながら軽く引っ張ると、予想通り鍵はかかっていなかった。
細く開かれたドアの隙間から、俺のものではない男物の靴が覗き見える。
部屋は静かで、その静けさが俺を緊張させた。
ゴクリとひとつ息を飲むと、思いきってドアを開く。
玄関をあがって部屋のドアを開けると、ローテーブルに向かい合って座りながらお茶を飲んでいた親父と朔が同時に振り向いた。
俺の顔を見た瞬間、無表情で顔を上げた朔の肩から力が抜ける。
「おかえり」
「おかえり」
安堵したような朔の声に、いつもと変わらない様子の親父の声が重なる。
「ただいま」
ぼそりと答えて、何となく俺もローテーブルの前に座る。
「これ、食ってみろ。最近うちの近くにケーキ屋ができたんだが、ここのラスクが美味いんだ」
正座して両膝に手のひらを置いて身構えた俺に、親父がテーブルの上の英字でロゴが入った紙袋を差し出してきた。
「美味いだろ」
勧められるままにラスクを食べると、自分が作ったわけでもないのに親父が自慢気にそう言った。
「うん、まぁ」
俺が頷くと、ラスクの紙袋を持ったまま親父が黙り込む。
妙な雰囲気の沈黙の中、ラスクを囓る音がやけに響くから、俺は囓りかけのそれをテーブルの上に置いた。
「お兄ちゃんにもお茶淹れてきてあげるね」
俺が親父に視線を向けると、朔がわざとらしい声でそう言って立ち上がる。
朔がキッチンの方へと歩いていくと、親父がようやく覚悟を決めたように息を吐いた。
「いろいろ聞きたいことはあると思うが、まず俺から話していいか?」
俺が小さく頷くと、親父がひとつひとつ慎重に言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。
「お母さんに……由希子に再会したのは、3年ほど前のことだ。場所は奇遇にも、由希子が今入院している病院のロビーだった。3年くらい前に俺が会社の健診で引っかかって、病院に再検査に行ったことがあるのを覚えてるか?」
そういえばそんなこともあったな。
胸部レントゲンで肺に影が写ってるって医者に言われて、親父が珍しく気落ちしてたっけ。
再検査を受けに行ったら、結局健診の医者の見間違えだったみたいで何ともなかったんだよな。
そんなことを思い出して頷く。
「そのときに、由希子が朔を連れて病院に来てたんだ。3歳の朔の高熱が3日続いて下がらなくて、大きな病院を受診しに来たんだと言っていた」
ちらりとキッチンにいる朔に視線を流す。
朔は聞こえないふりでもしているのか、俺たちのほうを見ようともしなかった。
「検査の結果によっては入院なるかもしれないとかで、由希子はかなり動揺していた。あんまり動揺しているから、父親に電話して来てもらったほうがいいんじゃないかと勧めたんだ」
「父親……?」
親父が初めて俺のところに朔を連れて来たとき「父親は自分だ」って言ってなかったか……?
親父はいつ、母から朔との関係を知らされたんだろう。
話の矛盾点に眉を顰める俺を見て、親父が苦笑いした。
「話をややこしくして悪かった。朔は俺の子じゃない。俺と別れたあとに由希子が一緒に生活してた男が、朔の本当の父親だ。その父親は、朔が2歳になる前に交通事故で亡くなったらしい」
「え……?」
胸に大きな衝撃が走る。
表情を失う俺の前に、いつの間にか戻ってきていた朔が、お茶を置いてくれた。
「どうぞ。おじさんも」
親父の前にもお茶を置くと、朔が姿勢を正してローテーブルの前に座る。
両膝に手を置いた朔は、無表情でどこか遠くをじっと見ていた。
「結局その日、朔は入院にはならなかったんだが、ぐったりしたまま苦しそうで。そんな朔を憔悴しきった目で見つめる由希子のことも気になった。それで、由希子に連絡先だけ聞いたんだ。もし夜中に何かあったときは、遠慮せずに頼ってくれって」
「それから連絡を取り合うようになったってこと?」
「取り合うといっても、ごくたまにだよ。由希子は陽央のことも気にかけていて、ときどきお前の報告もしてた。大学に合格したときは喜んでたよ」
「勝手にそんな報告するなよ。出て行った時点で、俺や親父への興味なんて失せてたんだろ。そんな人と、どうして連絡なんて取り合ってたんだよ。お母さんはそのこと知ってんの?」
親父の言葉に、なんだか複雑な気持ちになった。
俺たちを置いていったくせに、あまりに身勝手すぎる。
俺の言ってるお母さんは、出て行ったあの人じゃない。親父と再婚してできた、今のお母さんだ。
怒りにも似た感情を隠しきれない。そんな俺を、親父が困ったように見つめた。
「お母さんは……でもその前に、もう少し話さないといけないな」
親父は頭を振りながら小さくつぶやくと、しばらく考え込んでからまた話し始めた。
「俺と由希子は、大学のとき入ってたテニスサークルの仲間だったんだ。俺は大学時代から由希子のことが気になってたけど、由希子が好きだったのは一緒にテニスサークルに入っていた俺の友人だった」
急に昔話を始めた親父を怪訝に見つめる。
「大学を卒業する少し前、由希子とその友人は正式に付き合いだした。そいつが亡くなった朔の父親だよ」
親父の話に、俺は一層怪訝に眉を顰めた。
俺の母と付き合ってたのが、親父じゃなくて朔の父親……?
考えを巡らせている間にも、親父が話を進めていく。
「朔の父親は絵を描いてて、大学卒業後にイラスト関係の仕事に就くことを決めていた。由希子も就職が決まっていて、ふたりの付き合いや卒業後の生活は順調そうだった。卒業して2年後に同窓会で由希子に再会したとき、もしかしたら結婚話でも聞かされるかなと思ったんだ。だけどそこに、朔の父親の姿はなかった」
親父が一旦言葉を切って、お茶を飲む。
黙って待っていると、親父がまた口を開いた。
「俺は知らなかったんだが、朔の父親の実家は老舗の呉服屋らしい。『イラストの仕事に就きたいから家は継がない。将来的に結婚を考えている人がいる』と話したら、両親揃って大反対だったそうだ。そのあと、どうやって調べたのか、朔の父親の母が由希子に会いに来たらしい」
親父はまたお茶をひとくち飲むと、ほんの少しだけ苦しげに表情を歪めた。
「由希子のところにやって来た母親は、頭を下げて泣いて頼んできたそうだ。息子と別れてくれって。さらには由希子の前に金を積んで、息子の代わりの男を紹介するとか、そんな感じのことを言われたらしい。由希子が別れると言うまでしつこく泣かれて、嫌だとは言えなかったと悲しそうに笑ってたよ。それを聞いた俺は、由希子にアプローチした。弱ってるところに漬け込むみたいで罪悪感はあったけど、時間をかけて口説き続けて結婚したんだ。だけど……」
親父が俺を見て苦く笑う。
「俺は由希子にとっての運命の相手じゃなかったんだろうな。由希子は朔の父親と再会した。好き合ってたのに無理やり引き離されたからか、再会したときに相手に感じた想いが強かったらしい。朔の父親は実家とは縁を切って自分の夢を追いかけようとしていて、由希子はそれを支えたいと思ったんだそうだ。由希子は陽央のことを最後まで気にかけてたよ。連れて行きたがってたけど俺が許さなかった。由希子が新しく始めようとする生活を、陽央が受け入れないんじゃないかと思ったから……」
言葉を切って、親父がジッと俺を見つめる。
「お母さんに、着いて行きたかったか?」
苦しそうに絞り出された親父の声に、胸が詰まった。
今まで確かめられたことはないけど、親父の中ではずっと引っかかっていたのだと思う。
母がいなくなった当初は、一緒に着いて行けてたら……と思う気持ちが全くなかったわけじゃない。
そんな俺の気持ちに、親父もどこかで気付いていたんだろう。
だけど俺は、今のお母さんと再婚するまでの数年間、親父が仕事をしながらひとりで頑張ってた姿を知っている。だから、大きく横に頭を振った。
「俺は今も昔も、あのひとに着いていきたいと思ったことはないよ」
断言すると、親父は複雑そうに表情を歪めて、それから少しほっとしたように笑った。
「今のお母さんは、大学のサークルの2つ下の後輩なんだよ。由希子と別れた経緯も知ってるし、3年前に偶然再会したことも知ってる。ただ……」
親父が言いにくそうに朔に視線を向ける。
「今由希子が入院していて、陽央の家で朔を預かっていることは言えてない」
そうだろうなとは思ってたけど、今となってはもうどうだって良かった。
いくら事情を知っていたとしても、今のお母さんだって、旦那が別れた嫁と連絡取り合ってることにあまりいい気はしないだろう。
ましてや、その娘を預かるなんて。もし快く受け入れられるとしたら、かなり心が広いと思う。
「お母さんには言えなくて、朔をお前のところでみてもらえるように『俺の子だ』と嘘をついた。悪い……」
眉を垂れた親父が、情けない表情を浮かべる。
俺は苦笑いを返すと、小さく首を横に振った。
「朔のことはお母さんに言わなくていいよ。このままここにいればいい」
だって朔は俺の……
それから少し話したあと、親父は帰って行った。
朔とふたりだけになると、また部屋に静寂が訪れる。
俺も朔も、何をするわけでもなく、ただ黙って座っていた。
そのうち外が暗くなり始め、カーテンを閉めるために立ち上がる。
窓の向こうの空には、新月に変わる前の細い三日月が見えていた。
カーテンを引く手を止めてぼんやりとそれを見つめていると、朔がつぶやく。
「お兄ちゃんに初めて会ったときね、ちょっとだけ似てるなぁって思ったんだ」
振り返ると、暗がりの中で朔が微笑んでいた。
似てるって、誰に……?
「ちょっとだけ似てる。ママとお兄ちゃん」
朔が俺の心を読み取ったみたいにそう答える。
朔の言葉に、どんな反応を返せばいいかわからない。
似てる、のか。俺はあのひとに。
複雑な思いに支配され、胸の中に苦い感情が広がる。
「ほんと言うとね、お兄ちゃんのこと、最初はちょっと怖かった。だけど、これもらってね……」
朔がそろそろと動いて、家の鍵をつけて渡したウサギのキーホルダーを俺に見せてくる。
「それから、ママの病院に行くのに迷った朔を迎えに来てくれて。病院にも連れて行ってくれて。だんだん、優しい顔したときのお兄ちゃんの顔がもっとママに似てるなぁって思うようになって。お兄ちゃんがほんとのお兄ちゃんだったらいいなぁって思うようになって」
窓から差し込む細い三日月の仄かな光に照らされて、キーホルダーのウサギがゆらりと揺れる。
「だから朔は嬉しいよ。お兄ちゃんがほんとの家族で」
俺を見上げて、朔がにこりと笑う。
朔の言葉に、胸の奥が熱くなった。
朔を見つめ返しながら思う。
朔も。朔のほうこそ、あのひとによく似ている。
だって朔は俺の、血の繋がった妹だから。
「ありがとう」
そう答えるのが精一杯で、低くつぶやく声が震えた。
ノブを押し下げながら軽く引っ張ると、予想通り鍵はかかっていなかった。
細く開かれたドアの隙間から、俺のものではない男物の靴が覗き見える。
部屋は静かで、その静けさが俺を緊張させた。
ゴクリとひとつ息を飲むと、思いきってドアを開く。
玄関をあがって部屋のドアを開けると、ローテーブルに向かい合って座りながらお茶を飲んでいた親父と朔が同時に振り向いた。
俺の顔を見た瞬間、無表情で顔を上げた朔の肩から力が抜ける。
「おかえり」
「おかえり」
安堵したような朔の声に、いつもと変わらない様子の親父の声が重なる。
「ただいま」
ぼそりと答えて、何となく俺もローテーブルの前に座る。
「これ、食ってみろ。最近うちの近くにケーキ屋ができたんだが、ここのラスクが美味いんだ」
正座して両膝に手のひらを置いて身構えた俺に、親父がテーブルの上の英字でロゴが入った紙袋を差し出してきた。
「美味いだろ」
勧められるままにラスクを食べると、自分が作ったわけでもないのに親父が自慢気にそう言った。
「うん、まぁ」
俺が頷くと、ラスクの紙袋を持ったまま親父が黙り込む。
妙な雰囲気の沈黙の中、ラスクを囓る音がやけに響くから、俺は囓りかけのそれをテーブルの上に置いた。
「お兄ちゃんにもお茶淹れてきてあげるね」
俺が親父に視線を向けると、朔がわざとらしい声でそう言って立ち上がる。
朔がキッチンの方へと歩いていくと、親父がようやく覚悟を決めたように息を吐いた。
「いろいろ聞きたいことはあると思うが、まず俺から話していいか?」
俺が小さく頷くと、親父がひとつひとつ慎重に言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。
「お母さんに……由希子に再会したのは、3年ほど前のことだ。場所は奇遇にも、由希子が今入院している病院のロビーだった。3年くらい前に俺が会社の健診で引っかかって、病院に再検査に行ったことがあるのを覚えてるか?」
そういえばそんなこともあったな。
胸部レントゲンで肺に影が写ってるって医者に言われて、親父が珍しく気落ちしてたっけ。
再検査を受けに行ったら、結局健診の医者の見間違えだったみたいで何ともなかったんだよな。
そんなことを思い出して頷く。
「そのときに、由希子が朔を連れて病院に来てたんだ。3歳の朔の高熱が3日続いて下がらなくて、大きな病院を受診しに来たんだと言っていた」
ちらりとキッチンにいる朔に視線を流す。
朔は聞こえないふりでもしているのか、俺たちのほうを見ようともしなかった。
「検査の結果によっては入院なるかもしれないとかで、由希子はかなり動揺していた。あんまり動揺しているから、父親に電話して来てもらったほうがいいんじゃないかと勧めたんだ」
「父親……?」
親父が初めて俺のところに朔を連れて来たとき「父親は自分だ」って言ってなかったか……?
親父はいつ、母から朔との関係を知らされたんだろう。
話の矛盾点に眉を顰める俺を見て、親父が苦笑いした。
「話をややこしくして悪かった。朔は俺の子じゃない。俺と別れたあとに由希子が一緒に生活してた男が、朔の本当の父親だ。その父親は、朔が2歳になる前に交通事故で亡くなったらしい」
「え……?」
胸に大きな衝撃が走る。
表情を失う俺の前に、いつの間にか戻ってきていた朔が、お茶を置いてくれた。
「どうぞ。おじさんも」
親父の前にもお茶を置くと、朔が姿勢を正してローテーブルの前に座る。
両膝に手を置いた朔は、無表情でどこか遠くをじっと見ていた。
「結局その日、朔は入院にはならなかったんだが、ぐったりしたまま苦しそうで。そんな朔を憔悴しきった目で見つめる由希子のことも気になった。それで、由希子に連絡先だけ聞いたんだ。もし夜中に何かあったときは、遠慮せずに頼ってくれって」
「それから連絡を取り合うようになったってこと?」
「取り合うといっても、ごくたまにだよ。由希子は陽央のことも気にかけていて、ときどきお前の報告もしてた。大学に合格したときは喜んでたよ」
「勝手にそんな報告するなよ。出て行った時点で、俺や親父への興味なんて失せてたんだろ。そんな人と、どうして連絡なんて取り合ってたんだよ。お母さんはそのこと知ってんの?」
親父の言葉に、なんだか複雑な気持ちになった。
俺たちを置いていったくせに、あまりに身勝手すぎる。
俺の言ってるお母さんは、出て行ったあの人じゃない。親父と再婚してできた、今のお母さんだ。
怒りにも似た感情を隠しきれない。そんな俺を、親父が困ったように見つめた。
「お母さんは……でもその前に、もう少し話さないといけないな」
親父は頭を振りながら小さくつぶやくと、しばらく考え込んでからまた話し始めた。
「俺と由希子は、大学のとき入ってたテニスサークルの仲間だったんだ。俺は大学時代から由希子のことが気になってたけど、由希子が好きだったのは一緒にテニスサークルに入っていた俺の友人だった」
急に昔話を始めた親父を怪訝に見つめる。
「大学を卒業する少し前、由希子とその友人は正式に付き合いだした。そいつが亡くなった朔の父親だよ」
親父の話に、俺は一層怪訝に眉を顰めた。
俺の母と付き合ってたのが、親父じゃなくて朔の父親……?
考えを巡らせている間にも、親父が話を進めていく。
「朔の父親は絵を描いてて、大学卒業後にイラスト関係の仕事に就くことを決めていた。由希子も就職が決まっていて、ふたりの付き合いや卒業後の生活は順調そうだった。卒業して2年後に同窓会で由希子に再会したとき、もしかしたら結婚話でも聞かされるかなと思ったんだ。だけどそこに、朔の父親の姿はなかった」
親父が一旦言葉を切って、お茶を飲む。
黙って待っていると、親父がまた口を開いた。
「俺は知らなかったんだが、朔の父親の実家は老舗の呉服屋らしい。『イラストの仕事に就きたいから家は継がない。将来的に結婚を考えている人がいる』と話したら、両親揃って大反対だったそうだ。そのあと、どうやって調べたのか、朔の父親の母が由希子に会いに来たらしい」
親父はまたお茶をひとくち飲むと、ほんの少しだけ苦しげに表情を歪めた。
「由希子のところにやって来た母親は、頭を下げて泣いて頼んできたそうだ。息子と別れてくれって。さらには由希子の前に金を積んで、息子の代わりの男を紹介するとか、そんな感じのことを言われたらしい。由希子が別れると言うまでしつこく泣かれて、嫌だとは言えなかったと悲しそうに笑ってたよ。それを聞いた俺は、由希子にアプローチした。弱ってるところに漬け込むみたいで罪悪感はあったけど、時間をかけて口説き続けて結婚したんだ。だけど……」
親父が俺を見て苦く笑う。
「俺は由希子にとっての運命の相手じゃなかったんだろうな。由希子は朔の父親と再会した。好き合ってたのに無理やり引き離されたからか、再会したときに相手に感じた想いが強かったらしい。朔の父親は実家とは縁を切って自分の夢を追いかけようとしていて、由希子はそれを支えたいと思ったんだそうだ。由希子は陽央のことを最後まで気にかけてたよ。連れて行きたがってたけど俺が許さなかった。由希子が新しく始めようとする生活を、陽央が受け入れないんじゃないかと思ったから……」
言葉を切って、親父がジッと俺を見つめる。
「お母さんに、着いて行きたかったか?」
苦しそうに絞り出された親父の声に、胸が詰まった。
今まで確かめられたことはないけど、親父の中ではずっと引っかかっていたのだと思う。
母がいなくなった当初は、一緒に着いて行けてたら……と思う気持ちが全くなかったわけじゃない。
そんな俺の気持ちに、親父もどこかで気付いていたんだろう。
だけど俺は、今のお母さんと再婚するまでの数年間、親父が仕事をしながらひとりで頑張ってた姿を知っている。だから、大きく横に頭を振った。
「俺は今も昔も、あのひとに着いていきたいと思ったことはないよ」
断言すると、親父は複雑そうに表情を歪めて、それから少しほっとしたように笑った。
「今のお母さんは、大学のサークルの2つ下の後輩なんだよ。由希子と別れた経緯も知ってるし、3年前に偶然再会したことも知ってる。ただ……」
親父が言いにくそうに朔に視線を向ける。
「今由希子が入院していて、陽央の家で朔を預かっていることは言えてない」
そうだろうなとは思ってたけど、今となってはもうどうだって良かった。
いくら事情を知っていたとしても、今のお母さんだって、旦那が別れた嫁と連絡取り合ってることにあまりいい気はしないだろう。
ましてや、その娘を預かるなんて。もし快く受け入れられるとしたら、かなり心が広いと思う。
「お母さんには言えなくて、朔をお前のところでみてもらえるように『俺の子だ』と嘘をついた。悪い……」
眉を垂れた親父が、情けない表情を浮かべる。
俺は苦笑いを返すと、小さく首を横に振った。
「朔のことはお母さんに言わなくていいよ。このままここにいればいい」
だって朔は俺の……
それから少し話したあと、親父は帰って行った。
朔とふたりだけになると、また部屋に静寂が訪れる。
俺も朔も、何をするわけでもなく、ただ黙って座っていた。
そのうち外が暗くなり始め、カーテンを閉めるために立ち上がる。
窓の向こうの空には、新月に変わる前の細い三日月が見えていた。
カーテンを引く手を止めてぼんやりとそれを見つめていると、朔がつぶやく。
「お兄ちゃんに初めて会ったときね、ちょっとだけ似てるなぁって思ったんだ」
振り返ると、暗がりの中で朔が微笑んでいた。
似てるって、誰に……?
「ちょっとだけ似てる。ママとお兄ちゃん」
朔が俺の心を読み取ったみたいにそう答える。
朔の言葉に、どんな反応を返せばいいかわからない。
似てる、のか。俺はあのひとに。
複雑な思いに支配され、胸の中に苦い感情が広がる。
「ほんと言うとね、お兄ちゃんのこと、最初はちょっと怖かった。だけど、これもらってね……」
朔がそろそろと動いて、家の鍵をつけて渡したウサギのキーホルダーを俺に見せてくる。
「それから、ママの病院に行くのに迷った朔を迎えに来てくれて。病院にも連れて行ってくれて。だんだん、優しい顔したときのお兄ちゃんの顔がもっとママに似てるなぁって思うようになって。お兄ちゃんがほんとのお兄ちゃんだったらいいなぁって思うようになって」
窓から差し込む細い三日月の仄かな光に照らされて、キーホルダーのウサギがゆらりと揺れる。
「だから朔は嬉しいよ。お兄ちゃんがほんとの家族で」
俺を見上げて、朔がにこりと笑う。
朔の言葉に、胸の奥が熱くなった。
朔を見つめ返しながら思う。
朔も。朔のほうこそ、あのひとによく似ている。
だって朔は俺の、血の繋がった妹だから。
「ありがとう」
そう答えるのが精一杯で、低くつぶやく声が震えた。
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