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黒の帳 『一つ目の帳』

+ 天野視点『体力テストなんてどうでもいい』

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裏番と片桐はいなくなった。周りのクソ雑魚も喚かなくなった。鈴を悩ますものは何も無い。

「天野君、上体起こしからしよっか」
「上体…何?」
「仰向けに寝転んで起き上がる運動で…」
「あ、腹筋か」
「皆腹筋って言うよね」

何気ない会話を交わし、俺たちは敷かれているマットの方に向かった。ここで寝転んでやるんだな。

俺が先にやることになり、鈴が足を押さえようと俺の前に回った。コイツ足押さえられるのかよ。力弱いだろ。


俺は色々と考えていたが、鈴の次の行動に全部ぶっ飛んだ。

鈴は、股を開いて俺の足の上にちょこんと座った。足を俺の膝下に滑り込ませ、俺の足をきゅっと挟んだ。

なんだ、なんだよこの体勢。

鈴の足は、程よい肉付きで、むにむにと俺の足に密着している。貧相でガリガリで骨が当たるとかだったら良かったのに、コイツは無駄なところに肉がついているようだ。
ジャージからちょこんと出た小さな手が俺の膝をきゅっと持っている。

あまり、よくない。これは、よくない。
俺だって健康な思春期真っ最中の男子なんだぞ。

意識すればするほど、鈴の足が気になって仕方ない。あまり運動をする人間じゃないのか、筋肉はそこまでついていない。だからこんなにもちもちしてんのか。長ズボンのせいで触り心地が分からないのが残念…じゃねぇよ!?別にそんなこと、……ああクソ、やばい、この体勢マジで無理だ、別に、ほら、童貞じゃないけど、ほら、これはよくないっていうか、その、


「天野君、どうしたの。顔赤くない?」


テメェのせいだぞ!!!


全身全霊でそう叫びそうになったが、すんでのところで飲み込み、俺はどうにか言い訳を口にすることが出来た。

「この部屋暑いんだよ」
「そう?今日寒い方だと思うけど…、もしかして熱ある?」
「どうでもいいから早く始めろ!!」

コイツなんで掘り下げてくるんだ、ふざけんなよ。確かに言い訳はガバガバだったけど、それは、お前が悪いんだ。つーか腹筋って普通に足押さえたらいいだろ。それなのに何なんだよこの体勢。密着する必要あんのかよ。なんで普通にやらねぇんだ。

早く、終わらせないと。
俺の色々なものが持たない。

「よし、始めるね!」
「早くしろ…」

だが、俺は腹筋を始めて、あることに気づいた。

体を起こした時、鈴とめちゃめちゃ顔が近くなることに。

ダメだ、本当にダメだ。ただでさえ足で気が散るのに、顔まで近づくとマジでどうしようもなくなる。

迷った俺は、体を起こすときに顔を別の方向に向けることで回避することにした。

途中鈴に、何故顔を背けるのか聞かれたので、黙れと一喝した。

お前には分かんねぇだろうな。
もっちもちむっちむちの足で挟まれて、体を起こす度に顔が近くなって、それでどう感じるかなんて、お前には分かんねぇだろうな。

「28回だよ、お疲れ様」
「おう…」

上体起こしはさほどいい記録ではなかった。中学の時より少し回数が落ちている気がする。…まあ、鈴が押さえたからだな。

首を変に捻ったらしく、じくじくと痛む。まああんな体勢で顔を背けたらこうなるよな。どうにか紛らわせないかと首を回していると、雑魚がワラワラ集まってくるのが見えた。

「さきちゃんっ、俺は32回だよ!」
「俺29回!」
「失せろお前ら!!」

勢いよく起き上がり、雑魚共を怒鳴りつけて追い払う。俺より回数が多いから嬉々として言いに来たようだ。体力テストごときでマウントをとろうなんて馬鹿らしいが、奴らに馬鹿にされるのはムカつく。

どうせ真面目に授業を受けるんだ。成績はなるべく高い方を目指そうじゃないか。


俺がやったから、次は鈴の番だ。俺は手だけで鈴の足を押さえた。俺がタイマーを持ち、鈴が腹筋を始める。

「…んっ、ん、……ふっ、ぅ」
「3、4……、鈴」
「ん、うっ、何」
「…何でもねぇ」

気になるところが、二箇所ある。

一つは、喘いでんのかと思うくらいの、このいかがわしい声。
もう一つは、このあまりにも遅すぎる鈴の動き。

「んう"ーーーっ……」

ぷるぷると震え、顔を赤くして必死に体を起こす鈴。
あまりにも、遅い。
声が色々…アレなのに、遅すぎて耳に入ってこない。
遠くの雑魚が鈴の声を聞いて真っ赤になっているが、知ったことか。鈴に「お前エロい声止めろ」なんて言えるわけないだろ。

30秒計り終わり、鈴がふうと息をついた。その姿は首まで赤い。ジャージを脱げばいいのだろうが、周りの視線を気にして脱げないんだろうな。

…それにしても、だ。


「…嘘だろ」
「………」
「鈴、お前本気でやったか?」
「…やった」
「いや、それにしても15回は少な過」
「次は長座体前屈!!はーい行こう行こう」

俺の言葉を遮り、鈴がわあわあと声を上げる。
コイツ、運動音痴すぎないか。

「…へいへい」

鈴は急ぎ足で次の場所に向かっている。絶対に運動神経について触れさせまいとする鈴に苦笑いし、俺はその後を追った。


その後のテストで分かったことはこうだ。鈴は体が固く、跳躍力も無ければ俊敏さも無い。
立ち幅跳びでは尻もちをついたし、反復横跳びなんか途中で転けやがった。何でだよ、マジで意味分かんねぇ。

鈴がドジをやらかす度に、あちこちからクソ雑魚の「鈴ちゃん可愛い…」だの「紫川マジ天使」だとかなんだか聞こえたが、俺が睨みつけるとピタリと止んだ。

優しくて、ちょっと抜けている可愛らしさがあって、料理が得意で、頭は良いけど運動は苦手。
…いや、女子かよ。女子より女子じゃねぇか。

とんでもない奴がとんでもない男子校に入っちまったんだなあと、俺は改めてそう思った。


俺たちは四つの項目を終わらせ、最後に握力を計ることになった。

鈴と一緒に歩いていると、遠くに片桐が見えた。クソ雑魚三人組と一緒にコソコソと内緒話をしている。話し終わったかと思えば、周りをキョロキョロと見回した後に、体育館から出て行った。
体力テスト終わってなかったら呼び出されるんじゃなかったか?絶対面倒だろ。

アイツら馬鹿だなあと思っていると、がやがやと歓声が聞こえた。誰かがとんでもない記録を出したのだろうか。

何となくそちらを見やると、人だかりが見えた。

「うわあああ零王やべぇ!!」
「零王くんすっご~い♡」
「いや、去年と変わってねぇから」

そこから上がる歓声で色々と察した。裏番なら化け物じみた記録を出しそうだ。だが俺達には何の関係も無い。

鈴も気づいたのか、立ち止まってその人だかりの方に顔を向けた。

まずい、コイツなら行くって言い出すぞ。

「…あっ」
「行くぞ、鈴。アイツらが終わりそうだから、そっちに握力け」
「クロちゃん!ちょっと見て欲しいもんあるんだよね、ちょっとでいいから。こっちおいで~!」

最悪だ、捕まってしまった。
だがまだ無視出来るんじゃないか。

裏番はにっこりと笑みを貼り付けてこちらに手を振っている。お得意の薄っぺらい笑顔だ。

俺は奴の方を見ながら鈴の手を引いた。アイツの相手をしてやる必要は無い。鈴が裏番に背を向け、俺に着いてこようと、足を踏み出した。



その時、尋常ではない恐怖を感じた。

裏番が突然無表情になったかと思うと、手をゆっくり上げた。その手には、握力計が握られている。


…まさか、アレ、投げるつもりじゃねぇよな?


裏番は振りかぶり、踏み込む準備なのか片足を引き、俺の方を無表情で見据えている。
本能的な恐怖を感じ、俺は鈴を引く腕も踏み出した足も止めた。


鈴は俺の行動を不思議に思ったのか、くるりと振り向いた。

すると、裏番はすぐさま手を下ろし、先程の笑顔をまた貼り付けた。鈴には今のやりとりは一切見えていないだろう。

クソ、演技は完璧って訳かよ。
俺が何を言っても鈴は信じないだろうな。


俺たちに向かって振りかぶったのは、俺に対しての脅しだろう。鈴が隣にいるのに、俺に投げるわけが無い。そんなことをしたら鈴に当たるかもしれない。

…本当に投げられるのは勘弁願いたい。

俺は諦めて裏番の方に自分から歩き出した。どうせ奴とは何度も対峙することになる。
それに、隣のコイツは裏番に惚れてんだからな。

「…天野君?」
「お前は行きたいだろ」

人だかりに避けてもらい、一番前まで俺たちは進んだ。裏番は俺たちを見てにっこり微笑むと、握力計を軽く振って見せた。

「さて、二人にクイズだ。俺の握力、何キロだと思う?」
「は?」
「え?」


握力という単語は、最近聞いたことがある。


『これは人から聞いた話だがな、握力が80kgある奴が人の骨にヒビを入れたことがあるらしい。他にも、握力が90kgある奴が骨を折ったとかな。まあそいつの場合、相手の骨が元々脆かったらしい。折れるのも当然だな』

『さて、俺が握ったら、どうなると思う?天野、答えろ』

保健室で問いかけられた質問。俺の手首を捻りあげ、ギチギチと握りしめながら、裏番はそう尋ねた。リンさんの前でみっともない姿を見せたことも含めて、あの事は俺の中で最悪の出来事として残っている。

そのことを思い出した俺は、ほぼ反射で握力の予想を口にした。

「90キロ」
「えっ、天野君?それは言い過ぎじゃないかな…」
「うるせぇ、俺は心当たりがあんだよ」
「うーん、70キロ…とか?」
「りょーかい。さてさて何キロでしょうか~」

紅陵が握力計を握りだし、俺たちは遠くからそれを見つめた。どうして急に謎のクイズに巻き込まれなきゃならねぇんだ。
不満だが、暴力の権化とも言える存在に襲いかかられては堪らない。この場から立ち去りたい気持ちを、俺はどうにか押さえつけた。

「ばーか、70なわけあるか」
「90は言い過ぎだってば」

鈴はそう言うと、愉快そうにくすくすと笑った。俺の予想が馬鹿らしいと思っているのだろう。今に見てろ、ぜってぇ90いくからな、アイツ。


そう思って、俺は裏番の方を見た。

奴は、ぞっとするような表情で…、無表情で俺たちを、いや、正確には俺を見ていた。
口端を引き攣らせ、奴は腕に筋が浮くほどの力を込め始めた。

「わあっ、零王くん!?握りすぎだよっ、そんなに握っちゃ…あっ!!」
「テメェ俺に文句あんのか……」

裏番は、先程の取り巻きにまで冷たい態度をとっている。


俺の何が気に入らなかったのだろう。

今俺がしたことと言えば、鈴とコソコソ話して笑ったくらいで…。


……まさか、まさかとは思うが、嫉妬か?


いや、違うだろう。アイツは鈴を弄んでるんだ。玩具としてしか見ていないのに、嫉妬なんてするはずがない。


裏番はひたすら俺を見つめていたが、何かに気づいたかのように目を見開くと、すぐさま手元の握力計を確認しだした。よくよく握力計を見た後、奴はしまったという顔をした。

何故そんな顔をしたのか。その理由が俺には見えた。

握力計の持ち手に、ヒビが入っていた。

ああなるほど、学校の器具を壊したから焦っているのか。

……いや、嘘だろ?
あれって握力で壊れるのか?

「あ!?やっべ、やべやべやっちまった、俺早退したって言っといて、そんじゃ!!」

裏番は握力計をそこらに放り、逃げ出していった。

恐らく、あの体育教師と鉢合わせる前に逃げようという寸法だろう。学校の器具を壊したとなったら、あの教師は黙っていなさそうだからな。


床に放られた握力計の表記は、84.3キロ。
持ち手にヒビが入る握力が、そんな数値のわけがない。ぶっ壊れやがったな。

「天野君、90はやっぱり言い過ぎだったんだよ」

鈴にも数値が見えたようだが、俺とは違う意見だ。持ち手がどうなってるか分かってないんだな。

「馬鹿野郎、よく見ろ。握る部分だ」

そう言葉をかけて指をさしたが、鈴はピンときていないようで、まだキョトンとしている。

「…?」
「零王くん、またやっちゃったなあ…」
「握力計の一つや二つ、別にいいだろ。零王に破壊されたとなっちゃ、握力計も本望だ!」
「えっ、破壊…これってまさか」

周りの二年生の会話を聞き、鈴は漸く気づいたようだ。鈍すぎるだろ。

豪快な笑い声を上げながら、ガタイのいい二年生が鈴の肩を抱いた。何やら大声でべらべらとさえずっている。鈴はこくこくと頷き、律儀に話をしてやっているが、相手の勢いにたじたじとしているように見える。

鈴が困っているから、引き剥がそう。
別に俺がこの光景に何か思ったとかそういうわけじゃない。


俺に引き剥がされて不満げな二年を睨みつけていたら、体育教師が来た。
握力計が壊れていることを確認すると、やれやれといった様子でため息をついている。大した怒りが見えないのは、何となく理解出来る。

中学の時もあんな教師がいた。不良であろうと、スポーツ万能な生徒には、体育教師としてその才能に期待をしていたな。

学校の備品を壊されたというのに、どこか嬉しそうな体育教師を見て、そんなことを思い出した。



俺たちは握力計を使い、最後の項目に取りかかった。俺は43キロとまあまあ良い記録が出た。流石に俺より上の記録の奴はいなかったらしく、先程のように雑魚は寄ってこなかった。

そして、鈴の記録はまたしても悲惨なものだった。なんだよ23キロって。女子か、女子なのか。ぷるぷる震えながら握りしめてたってのに、たったの23キロか。

「…鈴」
「うるさい」

ぶっきらぼうに話すその声は、鈴らしくない。俺の事を突き放すような態度は中々に冷たいものだが、俺はショックも何も受けなかった。

寧ろ、何だか得をした気分になった。あの雑魚共も、片桐も、裏番も、こんな鈴の態度を知らないんだ。

スポーツで他の奴らをボッコボコに負かしてやれなかったのは残念だが、こういうのも悪くないかもしれない。
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