水面の蜻蛉

二色燕𠀋

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讃美歌

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 カットのお会計をしようとしたとき、夫が現れ「百合枝、」と私を呼び止めて。
 夫は少し俯いていましたが次第にはぎこちなく笑い、「あのさぁ、」と言いました。

「…この後、暇かい?」
「え、えぇ、まぁ…」
「じゃぁさ、」

 歩み寄って来て、夫は何か。
 私にチケットの様なものを渡してきました。そして嬉しそうに、「練習、見てい行かない?」と提案したのです。

「台本…那由多が書いたんだ。君に観て欲しい。
 そのチケットは、あの人と、二人分。よかったら」
「え、でも…」

 公演日を確認してみました。
 まだ、一ヶ月近くは先で。

「練習、さぁ…。
 俺、手直しをして良いのか、わからなくて。だからぜひ、来て欲しい」

 真っ直ぐな夫の要望に私が答えられずに俯いていると、「じゃ、俺もー」と、軽井沢さんが言いました。

「高崎は?愛しの恋人候補、観に行こうぜ」
「あ、あの、ししょー…」
「あー行くう!行っちゃうう!」
「高崎さん、殴りますよマジで」

 それに思わず私は笑ってしまいました。

「行きます、私も」

 それを聞いたお二人は、「ふふっ、」と笑って。
 しかし夫だけはなにやら複雑な表情でした。

「自分で誘っといて浮かないなぁ、お前」
「いや、だって」
「度胸がないねぇ。まったく」
「はぁ…」

 何か事情がありそうですが。

「じゃ、俺ら先行ってるわ。じゃぁな、御波」
「え、え」
「御波ちゃーん、後片付けよろしくね?」
「え、それはやってってよ」

 しかし二人は、「ほとんどないから」だの、「早くね~」だの、楽しそうに裏口へ消えてしまいました。

 私は夫と、久しぶりに二人になりました。

 互いに何を話したら良いかわからず立ち尽くしてしまいましたが、夫が「まぁ、すぐ終わらせるから」と、椅子を促してくれて、私は彼が作業に戻るの眺めていました。

 夫は床にモップを掛けながら言いました。

「どう?それから」

 と。

 いたたまれない思いが込み上げ、私はふと、「ごめんなさい」と口走ってしまった。夫はそれに閉口。何か話題を探そうと考えて。

「…那由多くんは、どう?」
「あぁ…うん。まぁ、元気」
「そう。よかった」

 那由多くんとは、夫が昔連れてきた、夫の再従兄弟らしい。私は夫とは、大学生のころに知り合いました。

 夫は昔、一族を災害で一気に亡くしてしまった人でした。山火事のようなものだったらしいです。今はもう、誰も住んでいないような、東京の離れの村での出来事だったようです。

 私もそれは、記憶の片隅にあるかないかのニュースでした。

 当時、高校生だった夫は途方に暮れるしかなくて、それからも苦労をして今に至る訳ですが、その時の事をほとんど語ることはありません。ただ、ふとした時に、言ったことがあります。

「全部亡くしてみると、どれだけそう願っていても、あとはただ漠然とする以外にないもんだな」と。

 那由多くんは、村から離れて暮らしていた遠い親戚なのだそうです。あまり裕福には育っておらず、大学生を卒業し私と結婚してから知った遠い親戚で、どんな事情か、まだ未成年だった那由多くんも、途方に暮れてしまいそうな事情があった、だから引き取ったそうなのですが。

 少しの矛盾を感じますが、那由多くんは確かに、過去に少し苛まれているように見えました。

 夫も知らないところで、まだ私たちが3人で暮らしていたころ、私は那由多くんに聞いたことがありました。雑談程度だったのですが、「雨祢は何故自分を引き取ったのだろう」と。

 私が少しだけ知っているそれらの話をすれば、やはり那由多くんは知らない事実だったようで、「ありがとう」これだけ私に言って、暫くは一緒に暮らしていましたが、すぐに出て行ってしまいました。

 本当は大学くらいまでの那由多くんの面倒を見ようと考えていた夫には、衝撃だったようで。

 深く聞くことを私は特にしませんでした。それが私が夫を愛してゆける条件で、夫も私を愛せる条件だったように思えるからです。

 夫は言いました。

「過去の清算はあっさり出来るものだ。俺はあの家が、村が、忌々しかったのかもしれない」と。

 彼にとっては触れてはならない記憶なのだと思います。

 今回のことで、那由多くんと共に生きると決めた夫の心境はわかりません。なんとなく、他者が見ればそれは共依存のようなものでしかないような気がしてしまうのです。

 私には追い求めることが出来ない何かをそこに見る気がして、怖じ気づいてしまったのもあります。

わかっています。
夫は多分どこか狂っています。
しかしそれを諭すことなど出来ましょうか。

どこかでは、わかってあげたい。しかしふとした凶器に触れたとき、共には行けないと感じたのです。

 では私は今何をしているのか。
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