水面の蜻蛉

二色燕𠀋

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羽根

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『男なんて穢らわしいのよ、なゆちゃん』

 ヒステリックのような、優しさのような、愛情満ちたその手で頬を撫でる母親、濡れた目に、なぜるようにすかれた髪は、その頃も肩くらいだったかもしれない。

 降りる手はゆるゆると喉から、鎖骨へ。ただ、それから。

『どうしてあんた、こんなに綺麗なのに男なのよっ、』

 胸あたりを拳でぶっ叩かれ、髪を鷲掴まれては投げられ、組敷かれて首を絞められる。
 母親は一気に鬼のような形相で。

「ごめんなさい、ごめんなさい、」
「あんたなんて、あんたなんて、」

 そればかりの押し問答。
 わかっている。恐らく中2くらいから、小柄な母親に対抗出来た。だが母親は言うのだ。

「あんたあの、クソ野郎と同じ仕組みで出来てんのよっ、」

 それだけで思考を奪われた。
 会ったこともない男を思い浮かべてただ、苦しさに耐えることしか出来ないでいた。

「ごめんなさい、ごめんなさい…」

 それで気が休まるなら。
 母親がどうにか傷心から回復してこの暴挙がなくなるのならそれでよかったのに。

 気が付いたら母親は狂っていた。
 狂ったように暴挙は快楽へ向かう。それはそう、その時に知った。

 蜻蛉トンボは不完全変態の昆虫である。
 幼虫のヤゴは淡水でエラ呼吸をしてそのまま、サナギになることなく成虫となり水辺から飛び立つ。

 まさしく俺はそうなんだ。
 突然種別を、越えてしまった。

『女の子』

 として育ってきた俺はある時変わってしまった。声が少し低くなった頃に暴力が始まり、やがて。

「那由多、貴方、私を裏切った罰は重い」

 セミの脱皮を思い出す。
 母と姉と、初めて見た日を。幼かった日を。確か姉が、「気持ち悪い」と、そう言って。

「あっ…ぅぁ」

 景色が変わる。
 目の前に跨がるのは裸の、快楽に歪んだ苦悶の表情で上下する姉で。

「なゆちゃん、かぁいい、」

 やめてくれ。

「姉さん、…ダメだよ、」
「お母さんとも、してるじゃない」

 驚愕した。

「違う、」
「違わない」
「あれは、」
「あんなアバズレと」
「姉さん、」
「那由多、」

 髪を鷲掴んで近付く顔は、確かに、血縁ながら美人だが。
 左目の泣き黒子の位置、母さんが言った首元にもある黒子もそう。
 ただ、違うんだ。

「私も、そうだから」
「姉さん、やめてっ、」
「おかしいじゃない。
 女同士でしようなんて。私お母さんじゃ」

 なぞられた指先、ヘソあたり。
 どうしたって、違う。

「満足ならない。返して」
『那由多。満足か、なぁ、』

 ここは。
 固いシート。狭まった視界から見える真上の窓枠からは、夕方から夜にかけての、薄暗い灰色になりかけた日差しで。

「っ、」

 どうしたって映り込む、景色と同じ灰色のネクタイを緩めた、いつもは白いチョークを握る指。

「声も出ないか、」
「あのっ、」

 何をされるのかは重々わかっている。
 俺が悪い。

「お前が悪いんだ」

 素肌に触れた手が、指先が。
 稲妻のような、衝撃で。

「お前が、赤が見えないだなんて言うから。字が見えないだなんて、そんな。
 誰に言わされたんだよ、えぇ?」

 眼鏡を外した黒髪の先生は、
 どうやら俺が思っていたよりも地味ではない顔だった。

「ごめ、なさ、」
加藤かとうか」
「違います、」
「お前、加藤にやられてんの助けてやったよな俺。アレ何されてたんだ?なぁ、男子便所で髪掴まれて。でもお前案外さ」
「すみません、先生、ぅ、ごめんなさい、」
「俺、お前の顔、案外好みなんだよ。俺、実はそっちなんだよ、」

 当てがわれた熱に自然と力を抜いてしまうのは。最早自然の摂理、荒治療、加藤に俺がさっきまで。

「あっ、」
「…案外、イケる口じゃん、風折那由多」

 蠢く先生は大人だった。
 大人の快楽を俺にくれて。

「女みたいだな、お前」

 大人の悦びを俺にくれた気がしたから。
 首に右腕と、腰に左腕を伸ばして抱きつくように。

 快楽へ近付いた気がした。
 それが悪かった。全て。
 翅をむしり取られるくらいに快楽的だった、のかもしれない。

「…た、那由多、大丈夫か、おい!」

 先生によく似た焦燥ばかりの声に目が醒めた。

 目を開けてすぐ、焦りで汗を滲ませ心配そうに覗き込んだ、先生よりも柔らかいだろう髪の色をした癖っ毛の雨祢がいて。

 雨祢だとわかっていたはずなのに。

 湿った、しかし空を裂く音と右手の痛み、勢いに、流れるように顔を背けるかたちになった雨祢を見て。

「あっ、」

 頬を押さえて俺を見る雨祢の瞳は、何を考えているのか、髪とは違う、真っ黒で。

「雨祢っ、」
「那由多、」

 酷く穏やかな気がして。

「いっ…」
「那由多、大丈…」

 雨祢は驚いた表情で。
 しかしすぐ、手が伸びてきた。恐ろしくなってキツく目を閉じれば、目元に湿った温かさがあって、涙が拭われたのがわかった。恐る恐る目を開ければ、ポンポンと、左手で優しく撫でられ、「こんなときの、薬かな?」と柔らかく微笑む。

「えっ、」
「どこにあるの?それとも副作用?」
「雨祢…」

 どうやら悪いことをした。ボケた頭でそう思う。

 雨祢の腕をやんわり退かしてぶった頬に触れてみる。人肌だった。

「ごめん」
「…嫌な夢観たの?」

 頷けないで、俺の震える手を眺めて雨祢は言った。

 どうしたって、俺はくだらない。
 ただ、だからこそ雨祢の話は受け入れたいとふと思ったから。

 抱きつくように、首に腕を回せば、「参ったな」と言う雨祢の声。覚束無く頭を撫でられ、背中を擦られた。

「あまね」
「…なにさ」
「ちょっと嫌な夢観たんだよ」
「…そう、」
「…たまにそれで、寝れなくなる」
「知ってるよ。昔からじゃん」
「だから隣で寝ていいよ」
「…素直じゃないなぁ、お前って。可愛くねぇやつ」

 そう言いつつ離れてみてみれば、笑っていた。

「まったく、大人になれないんだから」

 そんなこと言いながら。
 人のことを壁際に押しやって背を向ける広い背中は。

 まぁ確かに。
 昔から大人だ。
 ただ、他の人とは違うかもしれない。
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