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不垢不浄
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…何も綺麗ではなくて、何も汚れてなどいない──不垢不浄。
わかっている、誰が悪い良い、という概念を浄化するのが経の教えだ。
特別何かを信仰しているわけじゃない、ただ、勝手に自分がさ迷っているだけ。それを押さえつけるように手を、合わせるのみ。
こんなものを声の振動で喚き散らしても、けして有り難くはないのだろうと頭の隅っこで考えている自分。
トントンと肩を叩かれ振り向くと、然して感情を顔に出すわけではない翡翠がいた。
それでやっと朱鷺貴の思念が途切れ、無になれた。
遺体が乗せられていた藁から、血が地面に染み込んでいたのだと今、知る。
「待たせましたなぁ、終わりました…けど、誰も、言うてくれんかったん?汗が冷えていますよ、トキさん」
「…そうだったのか」
「お役所さんには人手がありましたから、案外あっさりと。とは言うても、行き先は全て壬生寺です。今日は帰りますが、わては数日手当てと、通うことになりそうです」
…何回読んだのだろう、四半刻すらない、この短い経を。
「…そうか」
朱鷺貴は翡翠に諭され、重々立ち上がった。
祭りの前夜にしては、辺りはあまりにもシンとしていた。
ぼんやり数歩歩くと、痺れが解けるように足元から漸く頭に血が巡ってきた、「数日通うって…?」と。
「あぁ…」
伏し目がちに翡翠は「お話もそうなのですが」と続ける。
「大方話なんて、終わったんやけどね。
一応、明日の祗園と数日は壬生浪が寺に…所謂見張りですよ、警護と言うても。わては…話に行くと言う体やけど……何より、沖田さんがね。
丁度ええです。寺には武田さんがいらっしゃるみたいやけど、トキさん、沖田さんのことは武田さんにも言わんといてくださいね」
「…え、つまり、なんだ、それは…」
「まだわかりませんよ?丁度祗園ですから、幕府抱えのお医者様も来るんやろうけど…あの人、労咳かもしれません」
「…は…?」
頭が、まわらないような…。
「…藤嶋さんもなんとも言いませ……トキさん?」
仕方がないのかもしれないが、朱鷺貴の顔色も良くなかった。
「あ、あぁ。今更気付いた、暑かっ…いやそう、汗が寒い…かも」
「うわぁ、あれ、水筒用意してきましたっけ」
「わからんけど取り敢えず沖田くんは具合が悪いから警護が」
「ああ!わかた!店寄りましょ、壬生寺でもええですが」
「ヤダ」
「はい、畏まりました。はい、くるっと後ろ向いて」
朱鷺貴も翡翠も進行方向を変え、島原へ向かうことになった。
「あぁ、そう、冷えたから思い出した?あのさ」
「無理に喋らんでもええよトキさん…」
「悠禅は」
「ああ、明日の朝、それとなく壬生寺に一緒に帰します。迷いましたが、却って変に疑われあの子が拷問されてしまってもと…」
「拷問……」
「はい、はいはいもう目の前やから、裏口はこっちです」
誰が作ったのかはわからない、昔からある隙間。翡翠には慣れたことだが朱鷺貴はぼんやりしつつ「なんか悪いことしてる気分だな…」とついつい口走る。
少し歩くと、ぼんやりしていたせいか、案外質素に見えるせいかはわからないがまるで急に目の前に現れた、かのように店があり、「あれ?ここだっけ」と朱鷺貴は我に返った。
風呂場の薪がパチパチと音を立てている。
現実味が心に沸いてきても、場所に日常感が欠けていた。
所謂、店の裏口だろう。
倉庫あたりの木箱にずっしり座り、煙管を吹かすおっさんがいた。
どう見ても客取りではないおっさんに翡翠が「料理長!」と声を掛けると、おっさんは「はわっ、」と驚いたようだった。
ぐんぐん近付く翡翠、朱鷺貴にも見えて来た。
多分、彼は近眼なのだろう。眉をしかめ、こちらがわかると間を置き「翡翠!?」と、認識に至ったようだ。
状況がわかれば奇妙らしい、朱鷺貴を眺めた料理長たるおっさんは怪訝そうだが、「顔色悪そうだな」と察してくれた。
「あい。流石ですなぁ。少し遠いのでお茶と…わらび餅を頂きに参りました」
「相変わらずだな…てぇか、おめぇが裏口にいると驚くんだよ、」
くしゃくしゃと翡翠の頭を撫で豪快に笑った料理長は「夜食でも食うか?」と入って行く。
朱鷺貴はまず料理長に、「そこなら風あっからまず座れ」と戸の側の酒樽を促され従った。
どうやら、江戸訛り。
勝手知ったように茶を沸かす翡翠は手で顔を仰ぎ「死んでしまう~」と暑そうだ。
風があると言っても確かに、戸口からすでに熱気は感じていた。
食材を漁る料理長は「あー、わらび餅っつーかぼたもち食うか?」と言ってきた。
「わ、出た!料理長のぼたもち!」
「お前好きじゃねぇか」
「はい。
トキさん、この人のぼたもち、胡麻なんやで、甘いんよ」
「…胡麻…?」
「あーまぁ茶ぁ飲んだらまず風呂入んな、冷めねぇうちに。そういやぁ翡翠は猫舌だが」
「あ、この人は気にしまへんね、元忘八と違うて」
「っはは!そんじゃぁあいつは今は徳があるってぇんか?」
「ええ、お偉いさんやったんやで、朝廷の。内緒やけど」
「またまた~。ほれ、沸けたぞ翡翠」
「ホンマやて」
翡翠が淹れた茶を飲むと…不思議だ、少しして、唇か何かの震えまで取れていくのを感じた。
「…生き返った…」
茶の一杯で、驚くほど身体が楽になった。
「まぁさっと湯でも被ってこい。軽装だし、翡翠、なんか、着物貸してやれ。あと青坊にも」
「はぁい。案内しますねトキさん」
風呂まで行く中、勘定をしていた番頭が「なんや!?」と言うのにも翡翠は事情を軽く説明し、ちゃっちゃと切り盛りして行く。
「あー丁度わてらが、てとこやったし、よかったなぁ。太夫がおったら大変や」
「さっとがええね、さっとが」と、翡翠と共に風呂に入った。
わかっている、誰が悪い良い、という概念を浄化するのが経の教えだ。
特別何かを信仰しているわけじゃない、ただ、勝手に自分がさ迷っているだけ。それを押さえつけるように手を、合わせるのみ。
こんなものを声の振動で喚き散らしても、けして有り難くはないのだろうと頭の隅っこで考えている自分。
トントンと肩を叩かれ振り向くと、然して感情を顔に出すわけではない翡翠がいた。
それでやっと朱鷺貴の思念が途切れ、無になれた。
遺体が乗せられていた藁から、血が地面に染み込んでいたのだと今、知る。
「待たせましたなぁ、終わりました…けど、誰も、言うてくれんかったん?汗が冷えていますよ、トキさん」
「…そうだったのか」
「お役所さんには人手がありましたから、案外あっさりと。とは言うても、行き先は全て壬生寺です。今日は帰りますが、わては数日手当てと、通うことになりそうです」
…何回読んだのだろう、四半刻すらない、この短い経を。
「…そうか」
朱鷺貴は翡翠に諭され、重々立ち上がった。
祭りの前夜にしては、辺りはあまりにもシンとしていた。
ぼんやり数歩歩くと、痺れが解けるように足元から漸く頭に血が巡ってきた、「数日通うって…?」と。
「あぁ…」
伏し目がちに翡翠は「お話もそうなのですが」と続ける。
「大方話なんて、終わったんやけどね。
一応、明日の祗園と数日は壬生浪が寺に…所謂見張りですよ、警護と言うても。わては…話に行くと言う体やけど……何より、沖田さんがね。
丁度ええです。寺には武田さんがいらっしゃるみたいやけど、トキさん、沖田さんのことは武田さんにも言わんといてくださいね」
「…え、つまり、なんだ、それは…」
「まだわかりませんよ?丁度祗園ですから、幕府抱えのお医者様も来るんやろうけど…あの人、労咳かもしれません」
「…は…?」
頭が、まわらないような…。
「…藤嶋さんもなんとも言いませ……トキさん?」
仕方がないのかもしれないが、朱鷺貴の顔色も良くなかった。
「あ、あぁ。今更気付いた、暑かっ…いやそう、汗が寒い…かも」
「うわぁ、あれ、水筒用意してきましたっけ」
「わからんけど取り敢えず沖田くんは具合が悪いから警護が」
「ああ!わかた!店寄りましょ、壬生寺でもええですが」
「ヤダ」
「はい、畏まりました。はい、くるっと後ろ向いて」
朱鷺貴も翡翠も進行方向を変え、島原へ向かうことになった。
「あぁ、そう、冷えたから思い出した?あのさ」
「無理に喋らんでもええよトキさん…」
「悠禅は」
「ああ、明日の朝、それとなく壬生寺に一緒に帰します。迷いましたが、却って変に疑われあの子が拷問されてしまってもと…」
「拷問……」
「はい、はいはいもう目の前やから、裏口はこっちです」
誰が作ったのかはわからない、昔からある隙間。翡翠には慣れたことだが朱鷺貴はぼんやりしつつ「なんか悪いことしてる気分だな…」とついつい口走る。
少し歩くと、ぼんやりしていたせいか、案外質素に見えるせいかはわからないがまるで急に目の前に現れた、かのように店があり、「あれ?ここだっけ」と朱鷺貴は我に返った。
風呂場の薪がパチパチと音を立てている。
現実味が心に沸いてきても、場所に日常感が欠けていた。
所謂、店の裏口だろう。
倉庫あたりの木箱にずっしり座り、煙管を吹かすおっさんがいた。
どう見ても客取りではないおっさんに翡翠が「料理長!」と声を掛けると、おっさんは「はわっ、」と驚いたようだった。
ぐんぐん近付く翡翠、朱鷺貴にも見えて来た。
多分、彼は近眼なのだろう。眉をしかめ、こちらがわかると間を置き「翡翠!?」と、認識に至ったようだ。
状況がわかれば奇妙らしい、朱鷺貴を眺めた料理長たるおっさんは怪訝そうだが、「顔色悪そうだな」と察してくれた。
「あい。流石ですなぁ。少し遠いのでお茶と…わらび餅を頂きに参りました」
「相変わらずだな…てぇか、おめぇが裏口にいると驚くんだよ、」
くしゃくしゃと翡翠の頭を撫で豪快に笑った料理長は「夜食でも食うか?」と入って行く。
朱鷺貴はまず料理長に、「そこなら風あっからまず座れ」と戸の側の酒樽を促され従った。
どうやら、江戸訛り。
勝手知ったように茶を沸かす翡翠は手で顔を仰ぎ「死んでしまう~」と暑そうだ。
風があると言っても確かに、戸口からすでに熱気は感じていた。
食材を漁る料理長は「あー、わらび餅っつーかぼたもち食うか?」と言ってきた。
「わ、出た!料理長のぼたもち!」
「お前好きじゃねぇか」
「はい。
トキさん、この人のぼたもち、胡麻なんやで、甘いんよ」
「…胡麻…?」
「あーまぁ茶ぁ飲んだらまず風呂入んな、冷めねぇうちに。そういやぁ翡翠は猫舌だが」
「あ、この人は気にしまへんね、元忘八と違うて」
「っはは!そんじゃぁあいつは今は徳があるってぇんか?」
「ええ、お偉いさんやったんやで、朝廷の。内緒やけど」
「またまた~。ほれ、沸けたぞ翡翠」
「ホンマやて」
翡翠が淹れた茶を飲むと…不思議だ、少しして、唇か何かの震えまで取れていくのを感じた。
「…生き返った…」
茶の一杯で、驚くほど身体が楽になった。
「まぁさっと湯でも被ってこい。軽装だし、翡翠、なんか、着物貸してやれ。あと青坊にも」
「はぁい。案内しますねトキさん」
風呂まで行く中、勘定をしていた番頭が「なんや!?」と言うのにも翡翠は事情を軽く説明し、ちゃっちゃと切り盛りして行く。
「あー丁度わてらが、てとこやったし、よかったなぁ。太夫がおったら大変や」
「さっとがええね、さっとが」と、翡翠と共に風呂に入った。
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