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領都教会での一年間
第零日目
しおりを挟むリッチェル侯爵領 領都アルタマイト。
カラカラと軽快な音を立てて、夜の街を走る馬車。
馬車の窓から見える街並みを、ぼんやりと見ていると、思い出される侯爵家の日々。 自分の境遇を受け入れた今、心は月夜の湖面の様に凪いでいた。 ただ、とても忙しかった日々を思い出し、その記憶を掌に載せて、眺めているかのような気分になっていたの。
――――― ☆ ―――――
領都アルタマイトは、王都から馬車で二週間程の距離にある、大きな街なの。 私はずっと此処で暮らしてきた。 だから、街の様子はよく知っているの。 リッチェル侯爵家の娘として、侯爵夫人の意地の薫陶は、領都での侯爵令嬢が可能な社交も含まれていたわ。
淑女教育の先生達は、リッチェル侯爵家連枝の高学歴の御婦人たちだった。 つまり、リッチェル侯爵領周辺の上級伯爵家、伯爵家などの夫人達。 だから、様々なお茶会に招待され、貴族的な話し方や考え方を、社交を通じて叩き込まれたの。
決して失敗できない、大人になった後の社交と違うけれども、『薫陶』と云う名の『実践』は、大人のそれに近い、ヒリヒリした会話を交わす事…… だったわ。
十分な時間を掛けて、『薫陶』は私に染み込み、周辺の貴族家と友好的な関係性を築き上げる事が出来たのは、まさしく淑女教育の先生方の御力なのは間違いない。
でも……
それも、今日までの事。
取り替え子であることが、『妖精様』により明らかに成り、私は侯爵家の娘から、元男爵家の遺児である孤児となった。 リッチェル侯爵家で受けた『薫陶』は全て反故となった。 あの家で『教え』を受けた事で、これからの生活に必要な事は、乳母のマーサから叩き込まれた、『庶民』としての知恵と考え方の方だった。
大変だったけれども、とても有難い事ね。
もし、マーサが普通の貴族の娘が習う筈の無い、『庶民』の常識を私に教え込まなければ、今頃…… 途方に暮れていたわ。 ええ、本当に。 侯爵家の家紋付きの馬車は、願い出た通りに領都アルタマイトの中央教会併設の孤児院に滑り込んだ。
自分の持ち物はほぼ何もない。 着の身着のまま。 多少の物は、小さな革の鞄に入れて足元に置いてある。 それが全て。 今の私の全てなのよ。 着ている服は、かつて、お忍びでの視察用に乳母のマーサが用意してくれた、かなり粗悪な下町娘の装束。 何故、そんな物を持っていたのか。
それは、マーサの『指導』に依る物だった。
――――――
豊かとはいえ、このリッチェル侯爵領にも、『影』と成る部分が存在する。 アルタマイトの街の中にも。 そう、身体を壊したり、争いで心身を損なった者、身寄り無く身分保障が受けられず正業に就く事の出来ぬ者達。 そんな社会の最底辺の者達が肩を寄せ合い暮らす場所が有るの。
”領主の親族たる者、強者に阿り、弱者を虐げる様なモノに成ることは許されない。 自分の眼で、最下層に居る者達の苦しみと哀しみを肌で感じる事が何よりも重要である ”
と、云う事らしいわ。 僅か八歳の女の子に云う事では無いけれど、みすぼらしい小さい女の子ならば、荒くれ者達も、多少は目こぼしするし、屈強な公爵家の護衛も色々と化けて付くから、万全とはいえないまでも、相当安全は保障されてはいた。 諸注意を受け、出来るだけ目立たない様に『視察』を重ねたわ。
知らない事ばかりだった。 社会の最底辺の者達の苦しみや哀しみは、小さな女の子の精神に深く深く刻み込まれる。 為政者が愚かであればある程、この様な人々は増えるばかり。 表層の煌びやかな街は、その実、こんな人々を内包していたとは、知らなかった。
27回の輪環の中で、実体験として見聞したのは、その時が初めてだったのよ。
百聞は一見に如かず。 まさしくその言葉通り、私の心の中に深く刻み込まれた情景は、彼の者達を如何に掬い上げるかを考える様に成ったわ。 毎月の自由市場に無料の炊き出しを領の予算で行ったり、僅かばかりの私の予算の中で許す限りの金額を、領都中央教会に喜捨し続け、さらに予定を組んで慰問にも訪れていた。
理由は、領都中央教会に孤児院と貧窮院が併設されていたから。
偽善だとは判っていた。 私がそんな事をしても、根本的には何も変わらない。 でも、言うだけの『抜本的改革』よりも、今日の鉄貨一枚の方が、彼等が本当に必要としているのだもの。
僅かな…… 本当に、僅かな積み上げが、
―――― 今の私を救っているの。 ――――
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