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生まれ直す
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腹に、何か温かいものが入ってくる気配がした。
椅子に座っていた。頼まれていた繕い物をしているとき、足元に何か温かいものがすりよってくるのを感じた。まるで猫のような温かさと柔らかさだったが、この家では猫を飼っていない。
足元を見たが、何も見えなかった。
やがてそれが、太腿によじ登っていき、私の下腹部に頭をすりつけるような気配がして、それが、私の腹の中に入っていった。温かいものが私の中に溶け込み、じわじわと優しい熱が広がっていくような感触だった。一瞬、息苦しくなったが、すぐに何ともなくなった。
このことを夫に言うと、夫は常と変わらぬ静かな目で私の下腹部のあたりを見つめ、カッパ先生に診てもらおう、と言った。
カッパ先生とは、文字通りカッパである。私の母が子どもの頃には既に森の湖に暮らしていたが、母が言うには、その頃とちっとも容姿が変わらないらしい。名前は他にちゃんとあるかもしれないが、みんなカッパ先生と呼んでいる。そう呼ばないと、本人が怒る。
青緑色のぬめぬめとした肌で、正直仲良くなりたいとは思えない姿をしている。しかも、カッパ先生は何でも知っているのだといつも威張っているから、好んで仲良くしようと思う人は少ない。しかし、事実何でもと言いたくなるほど多くのことを知っているらしい、と夫は言う。カッパ先生は、自分のことをカッパ先生と呼んでいるのだ。
夫はよそから来た人だが、カッパ先生にも臆することなく接している。というよりも、夫は相手がどんなに意地悪だろうが優しかろうが、また、どんなに不幸だろうが、一貫して自分の態度を変えることはない。他人は他人で、自分は自分だという顔をしている。兄などは、夫のことを、呑気、などと言ったりする。
夫に連れられて、カッパ先生のところに向かった。私は夫のように、カッパ先生に臆することなく接することができない。大丈夫だから、そんなに悪いものじゃないと思うから、と何度も言って、遠慮した。
夫は私の話を聴いたうえで、こっくりと顎を引き、やはり、カッパ先生のところに行った方がいいと思う、と言った。
「君が思うほど、カッパ先生は難しい人じゃないよ」
夫はそう言って、微笑んだ。
私は時々、夫は人の心が読めるんじゃないかと思い、ぎくりとすることがある。
以前、夫と共に旅先で拾った貝殻を手土産にカッパ先生のところに向かった。カッパ先生はいつも通り、威張った様子で貝殻を受け取り、ありがとうとも言わずに、懐にしまった。あとで夫に聞いたところによると、相当喜んでくれたらしかった。
夫に手を引かれながら、カッパ先生の元に向かった。カッパ先生は湖に浮かびながら、果物の皮を剥いていた。夫はカッパ先生に、これこれこういうわけで、と仔細を話した。私は、硬い石の上に座っているかのような居心地の悪さを感じていた。カッパ先生は、聞いているのかいないのか分からない様子で、艶々したお腹をぽっかり浮かせながら果物を食べていたが、やがて、ふん、と穴だけの鼻を鳴らして、よく見せてみるのである、と言った。
夫に促されてカッパ先生の前に立つと、カッパ先生は私の下腹部の辺りを見ながら、手を当てて軽く押したりした。服越しに、水かきのついた濡れた手の感触を感じ、びっくりした。カッパ先生のような人にお腹を触れさせるのが嫌でもあったが、夫もカッパ先生も、真面目な様子だった。
「悪くはないものである」
カッパ先生は、素っ気なく言った。
「かつてこの世に生まれることができなかった魂である。無害である」
「生まれることができなかった魂とは、なんですか」
恐ろしい響きのような気がして、思わず訊ねた。
じろり、とカッパ先生は私を見た。白目の部分が澱んでいた。ずっと湖の中で暮らしていると、カッパ先生のような目になるのかもしれない。
「恐ろしいものではないのである」
厳粛な教師が生徒を叱るような口調で、カッパ先生は言った。
「生まれることができなかった魂とは、母の腹の中に宿りながら、命の形になる前に母から遠のいてしまった、哀れな魂である。そういう魂は、魂としても不安定であるから、子どもを生んだことのない女の腹に入り、まずちゃんとした魂として生まれるのである」
カッパ先生の説明を聴いても、まだ恐ろしいような気がした。魂を生まなければならないなんて、考えることもできない。
夫の顔を見ると、夫はやはり静かな顔をしていた。
「悪いものではないのですね」
「悪いものではないのである」
「彼女の体に、何か影響はありますか」
「少し、気分が悪くなったり、熱を出したりするかもしれぬが」
大丈夫である、とカッパ先生は胸を張った。
「具合が悪くなったら、薬を飲ませてもいいですか」
「できれば、遠慮してほしいのである。魂に影響が出るのかもしれぬ」
「僕たちが生まれるときと、あまり変わりないのですね」
変わらないのである、とカッパ先生は威張り、湖に潜った。
それでも、怖い気がするわ、と家に帰ったあと夫に言った。夫は目を細め、大丈夫だよ、と言った。何故、と言うと、カッパ先生がそう言うからさ、と答える。
人を安心させようとするとき、夫は目を細める癖がある。そうすると、少しきつい印象の夫の目元は柔らかくなるが、その分寂し気に見える。
それから数か月経っても、私の腹が膨れたりすることはなかった。妊娠しているときに起きるような、悪阻もなかった。しかし、以前よりも食欲が増し、それなのに体が重く、熱っぽくなり、酷い眠気にも襲われた。夫は私を咎めるようなことは何も言わなかったが、食欲が増して、家事をしていてもいつのまにか眠ってしまうようになった自分が恥ずかしかった。
カッパ先生が言うには、魂が生まれるまで人の子と同じ時間かかるらしい。そのときカッパ先生は、以前渡した貝殻をネックレスにして、首から下げていたのを、自慢げにチャラチャラと鳴らしていた。魂を生んで元に戻ることが出来るのなら早くそうしたかったが、魂を生む、ということも、恐ろしかった。
腹に兆しはなかったが、時々腹の中で、何かが動いている気配がした。動いている、というか泳いでいた。私の腹の中を、金色に光る魂が、ゆらゆら泳いでいるのを私は想像した。それを感じる度、私は下腹部に手を当てて、数秒、じっと目を閉じた。魂とは鰭の長い、魚のような形をしているのかもしれない、と思われた。
そのことを夫に言ったら、魂としても曖昧な状態なのだから、そこまではっきりとした形はとらないんじゃないか、と言われた。
「そうかしら」
「そうだと思うよ。いや、勿論魂の形なんて人それぞれなんだと思うし、僕だって見たことがあるわけじゃないから、なんとも言えないけれど」
そういえば、と夫が語ってくれたところによると、夫の古い友人は魂を見たことがあるらしい。その魂とは、その友人の妹のものだったらしい。夫の友人の妹は、幼い頃、生まれつきの病で死んだのだ。
「その人は、どうしたの」
「妹と仲がよかったらしいからね、勿論、追いかけたというよ」
魂は、空色の蝶の姿をしていたのだという。
「けれど、触れた、と思った瞬間、何も見えなくなってしまったんだって。妹の魂も、空も木も、太陽も」
今は吟遊詩人をしているというよ、と夫は言った。
切ない話ね、と私は言った。
「せっかく、追いついたと思ったのにね」
「僕もそう思ったよ。友人も、後悔していた」
「目が見えなくなってしまったから……?」
違うよ、と夫は言った。
「目が見えなくなった時、その友人はとても痛かったんだって。ほら、人を殴ると、殴られた方だけじゃなく、殴った方も、痛いっていうじゃない?だから、妹の魂もすごく痛い思いをしたんじゃないかと思うと」
切ないと言うよ、と夫は言った。
けれど、夫の友人は妹を殴ったわけではなく、妹の魂に触れただけだ。仲が良かった、妹の魂に。
誰かに触れる、ということは、その人に痛みを与える、ということか。
夢を見たのはその日の晩のことだった。
暗く、温かい場所で、ぷかぷか浮かびながら、私は何かを聴いていた。
それは、子守歌のようだった。
生まれておいで、と願ってくれているようで、だから、生まれたいと、思っていた。
その日はいつもより体調が良かった。
久しぶりに編み物をしていると、急に頭の血が下がって、耳鳴りがして、体が冷たくなって、それから、強烈な下腹部の痛みに、吐きそうになった。
編みかけのセーターを放り出し、床に倒れ伏した。仕事でいない夫の名前を、必死に呼んだ。死ぬのかもしれない、と思いながら、床の上を這って、自分を救ってくれる誰か、或いは何かに向かって、手を伸ばした。ギュウ、と体が締め付けられるような感覚に、意識が遠くなった。
ぼんやりと、意識が浮上して目を開けると、影が見えた。その影の向こう側に、家の壁が透けているのが見えた。影は自分の体を丁寧に見つめていたが、私には、影がどんな輪郭を帯びているのか、分からなかった。ハッキリと見つめようとすると、頭が痛くなって、意識が遠のきそうだった。
影は、目とは見えない目で私を見つめ、耳とは見えない耳で何かを聞き、口とは見えない口で何かを呟くと、手とは見えない手で私を撫でて、足とは見えない足で立ち上がった。
ああ、あなたが私の中にいたのね。
そして、またこの世に生まれ直すのね。
そう思って、また気を失った。
ひたひたと頬を打たれる感覚がした。影かもしれないと思っていたが、優しく頰を摘まれる感覚に目を開けると、夫だった。
「死んでいるかと思った」
肝が冷えるようなことを、涼しい顔で言った。
「どうしたの」
生まれたみたいよ、とやっとの思いで言った。そうか、と夫は単純に答えた。
「すぐに去ってしまったわ」
十月十日もお腹にいたのに、と言った。言った瞬間、涙が零れた。
夫は私の体を抱き起し、ぽんぽん、と背中を叩いた。
「きっと、どこかでちゃんと生まれ直しているさ」
そうなの。
そうさ。
いつか会えるかもしれない?
或いは、そうかもしれないね。
それでも。
寂しいのよ、と私はまた泣いた。
夫は私の肩を抱き寄せて、何かを囁いた。
それは、夢の中で私が聞いた、子守唄のようだった。
椅子に座っていた。頼まれていた繕い物をしているとき、足元に何か温かいものがすりよってくるのを感じた。まるで猫のような温かさと柔らかさだったが、この家では猫を飼っていない。
足元を見たが、何も見えなかった。
やがてそれが、太腿によじ登っていき、私の下腹部に頭をすりつけるような気配がして、それが、私の腹の中に入っていった。温かいものが私の中に溶け込み、じわじわと優しい熱が広がっていくような感触だった。一瞬、息苦しくなったが、すぐに何ともなくなった。
このことを夫に言うと、夫は常と変わらぬ静かな目で私の下腹部のあたりを見つめ、カッパ先生に診てもらおう、と言った。
カッパ先生とは、文字通りカッパである。私の母が子どもの頃には既に森の湖に暮らしていたが、母が言うには、その頃とちっとも容姿が変わらないらしい。名前は他にちゃんとあるかもしれないが、みんなカッパ先生と呼んでいる。そう呼ばないと、本人が怒る。
青緑色のぬめぬめとした肌で、正直仲良くなりたいとは思えない姿をしている。しかも、カッパ先生は何でも知っているのだといつも威張っているから、好んで仲良くしようと思う人は少ない。しかし、事実何でもと言いたくなるほど多くのことを知っているらしい、と夫は言う。カッパ先生は、自分のことをカッパ先生と呼んでいるのだ。
夫はよそから来た人だが、カッパ先生にも臆することなく接している。というよりも、夫は相手がどんなに意地悪だろうが優しかろうが、また、どんなに不幸だろうが、一貫して自分の態度を変えることはない。他人は他人で、自分は自分だという顔をしている。兄などは、夫のことを、呑気、などと言ったりする。
夫に連れられて、カッパ先生のところに向かった。私は夫のように、カッパ先生に臆することなく接することができない。大丈夫だから、そんなに悪いものじゃないと思うから、と何度も言って、遠慮した。
夫は私の話を聴いたうえで、こっくりと顎を引き、やはり、カッパ先生のところに行った方がいいと思う、と言った。
「君が思うほど、カッパ先生は難しい人じゃないよ」
夫はそう言って、微笑んだ。
私は時々、夫は人の心が読めるんじゃないかと思い、ぎくりとすることがある。
以前、夫と共に旅先で拾った貝殻を手土産にカッパ先生のところに向かった。カッパ先生はいつも通り、威張った様子で貝殻を受け取り、ありがとうとも言わずに、懐にしまった。あとで夫に聞いたところによると、相当喜んでくれたらしかった。
夫に手を引かれながら、カッパ先生の元に向かった。カッパ先生は湖に浮かびながら、果物の皮を剥いていた。夫はカッパ先生に、これこれこういうわけで、と仔細を話した。私は、硬い石の上に座っているかのような居心地の悪さを感じていた。カッパ先生は、聞いているのかいないのか分からない様子で、艶々したお腹をぽっかり浮かせながら果物を食べていたが、やがて、ふん、と穴だけの鼻を鳴らして、よく見せてみるのである、と言った。
夫に促されてカッパ先生の前に立つと、カッパ先生は私の下腹部の辺りを見ながら、手を当てて軽く押したりした。服越しに、水かきのついた濡れた手の感触を感じ、びっくりした。カッパ先生のような人にお腹を触れさせるのが嫌でもあったが、夫もカッパ先生も、真面目な様子だった。
「悪くはないものである」
カッパ先生は、素っ気なく言った。
「かつてこの世に生まれることができなかった魂である。無害である」
「生まれることができなかった魂とは、なんですか」
恐ろしい響きのような気がして、思わず訊ねた。
じろり、とカッパ先生は私を見た。白目の部分が澱んでいた。ずっと湖の中で暮らしていると、カッパ先生のような目になるのかもしれない。
「恐ろしいものではないのである」
厳粛な教師が生徒を叱るような口調で、カッパ先生は言った。
「生まれることができなかった魂とは、母の腹の中に宿りながら、命の形になる前に母から遠のいてしまった、哀れな魂である。そういう魂は、魂としても不安定であるから、子どもを生んだことのない女の腹に入り、まずちゃんとした魂として生まれるのである」
カッパ先生の説明を聴いても、まだ恐ろしいような気がした。魂を生まなければならないなんて、考えることもできない。
夫の顔を見ると、夫はやはり静かな顔をしていた。
「悪いものではないのですね」
「悪いものではないのである」
「彼女の体に、何か影響はありますか」
「少し、気分が悪くなったり、熱を出したりするかもしれぬが」
大丈夫である、とカッパ先生は胸を張った。
「具合が悪くなったら、薬を飲ませてもいいですか」
「できれば、遠慮してほしいのである。魂に影響が出るのかもしれぬ」
「僕たちが生まれるときと、あまり変わりないのですね」
変わらないのである、とカッパ先生は威張り、湖に潜った。
それでも、怖い気がするわ、と家に帰ったあと夫に言った。夫は目を細め、大丈夫だよ、と言った。何故、と言うと、カッパ先生がそう言うからさ、と答える。
人を安心させようとするとき、夫は目を細める癖がある。そうすると、少しきつい印象の夫の目元は柔らかくなるが、その分寂し気に見える。
それから数か月経っても、私の腹が膨れたりすることはなかった。妊娠しているときに起きるような、悪阻もなかった。しかし、以前よりも食欲が増し、それなのに体が重く、熱っぽくなり、酷い眠気にも襲われた。夫は私を咎めるようなことは何も言わなかったが、食欲が増して、家事をしていてもいつのまにか眠ってしまうようになった自分が恥ずかしかった。
カッパ先生が言うには、魂が生まれるまで人の子と同じ時間かかるらしい。そのときカッパ先生は、以前渡した貝殻をネックレスにして、首から下げていたのを、自慢げにチャラチャラと鳴らしていた。魂を生んで元に戻ることが出来るのなら早くそうしたかったが、魂を生む、ということも、恐ろしかった。
腹に兆しはなかったが、時々腹の中で、何かが動いている気配がした。動いている、というか泳いでいた。私の腹の中を、金色に光る魂が、ゆらゆら泳いでいるのを私は想像した。それを感じる度、私は下腹部に手を当てて、数秒、じっと目を閉じた。魂とは鰭の長い、魚のような形をしているのかもしれない、と思われた。
そのことを夫に言ったら、魂としても曖昧な状態なのだから、そこまではっきりとした形はとらないんじゃないか、と言われた。
「そうかしら」
「そうだと思うよ。いや、勿論魂の形なんて人それぞれなんだと思うし、僕だって見たことがあるわけじゃないから、なんとも言えないけれど」
そういえば、と夫が語ってくれたところによると、夫の古い友人は魂を見たことがあるらしい。その魂とは、その友人の妹のものだったらしい。夫の友人の妹は、幼い頃、生まれつきの病で死んだのだ。
「その人は、どうしたの」
「妹と仲がよかったらしいからね、勿論、追いかけたというよ」
魂は、空色の蝶の姿をしていたのだという。
「けれど、触れた、と思った瞬間、何も見えなくなってしまったんだって。妹の魂も、空も木も、太陽も」
今は吟遊詩人をしているというよ、と夫は言った。
切ない話ね、と私は言った。
「せっかく、追いついたと思ったのにね」
「僕もそう思ったよ。友人も、後悔していた」
「目が見えなくなってしまったから……?」
違うよ、と夫は言った。
「目が見えなくなった時、その友人はとても痛かったんだって。ほら、人を殴ると、殴られた方だけじゃなく、殴った方も、痛いっていうじゃない?だから、妹の魂もすごく痛い思いをしたんじゃないかと思うと」
切ないと言うよ、と夫は言った。
けれど、夫の友人は妹を殴ったわけではなく、妹の魂に触れただけだ。仲が良かった、妹の魂に。
誰かに触れる、ということは、その人に痛みを与える、ということか。
夢を見たのはその日の晩のことだった。
暗く、温かい場所で、ぷかぷか浮かびながら、私は何かを聴いていた。
それは、子守歌のようだった。
生まれておいで、と願ってくれているようで、だから、生まれたいと、思っていた。
その日はいつもより体調が良かった。
久しぶりに編み物をしていると、急に頭の血が下がって、耳鳴りがして、体が冷たくなって、それから、強烈な下腹部の痛みに、吐きそうになった。
編みかけのセーターを放り出し、床に倒れ伏した。仕事でいない夫の名前を、必死に呼んだ。死ぬのかもしれない、と思いながら、床の上を這って、自分を救ってくれる誰か、或いは何かに向かって、手を伸ばした。ギュウ、と体が締め付けられるような感覚に、意識が遠くなった。
ぼんやりと、意識が浮上して目を開けると、影が見えた。その影の向こう側に、家の壁が透けているのが見えた。影は自分の体を丁寧に見つめていたが、私には、影がどんな輪郭を帯びているのか、分からなかった。ハッキリと見つめようとすると、頭が痛くなって、意識が遠のきそうだった。
影は、目とは見えない目で私を見つめ、耳とは見えない耳で何かを聞き、口とは見えない口で何かを呟くと、手とは見えない手で私を撫でて、足とは見えない足で立ち上がった。
ああ、あなたが私の中にいたのね。
そして、またこの世に生まれ直すのね。
そう思って、また気を失った。
ひたひたと頬を打たれる感覚がした。影かもしれないと思っていたが、優しく頰を摘まれる感覚に目を開けると、夫だった。
「死んでいるかと思った」
肝が冷えるようなことを、涼しい顔で言った。
「どうしたの」
生まれたみたいよ、とやっとの思いで言った。そうか、と夫は単純に答えた。
「すぐに去ってしまったわ」
十月十日もお腹にいたのに、と言った。言った瞬間、涙が零れた。
夫は私の体を抱き起し、ぽんぽん、と背中を叩いた。
「きっと、どこかでちゃんと生まれ直しているさ」
そうなの。
そうさ。
いつか会えるかもしれない?
或いは、そうかもしれないね。
それでも。
寂しいのよ、と私はまた泣いた。
夫は私の肩を抱き寄せて、何かを囁いた。
それは、夢の中で私が聞いた、子守唄のようだった。
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