故郷へ

くるっ🐤ぽ

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故郷へ

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 姉の話を聞いて欲しいんだ―
 バスの中で、楓はそう言った。雪は、楓に姉があったことを知らなかった。

 楓とは、大学で知り合った。文芸サークルの新人歓迎会では、先輩や同級生がお菓子やジュースを持ち寄って、楽しいけれど後に残らない話をして、どっと笑ったりする中で、一人だけ静かな様子だった。けれど、退屈している様子でもなく、気楽そうな微笑みを浮かべていた。話しかけられれば親しみやすい愛嬌を持って答えていた。雪は楓が、自分より一年上であることを知った。
 部室には部長曰く、先輩達から代々受け継がれてきたソファがあった。元は鮮やかな空色だったのが、年月を経るに従って段々くすんできて、味のある色になったのだと言う。楓はよく、そのソファの上に柔らかそうに横たわって、本を読んでいた。何を読んでいるんですか、と訊くと微笑んで、本の表紙を見せてきたが、どのような内容なのかは、詳しく教えるつもりはないようだった。いかにも難しそうな分厚い単行本を読んでいるときもあれば、子どもが好きそうな可愛いイラストの描かれた絵本を読んでいることもあった。楓は謎の男なんだと、副部長は秘密めいたような声で雪に教えてくれた。確かにどこか、謎めいていると思った。
 サークルではそれぞれお薦めの小説や絵本を紹介し合ったり、ボランティアで読み聞かせを行ったりした。小説や短歌、詩を書く人もいた。文芸のジャンルには、それぞれ好みはあってもこだわりはないようだった。雪も短い小説をいくつか書いた。大学を卒業してからサークルで書いたものを読み直してみたが、読んでいるうちに顔が火照ってきた。拙いものを傑作だと吹聴して、得意になっていたと思った。雪は原稿用紙を破いて、ゴミ箱に捨てた。
 楓と暮らすようになってから、楓が、大学の文化祭で作った文集を大切に持っていることを知った。楓の持ってきた段ボールの奥にあった「希望」と題された文集を見て、雪は赤くなりながら、どうしてこんなものを持っているの、と楓に言った。楓は、雪の顔の赤くなっているのを何故だか懐かし気に見ながら、思い出だから、と言った。サークルのメンバーの中で、文筆家の道を進んだのは楓だけだった。
「私、捨てちゃったわよ」
 雪が言うと、楓は、どうして?と言った。雪のことを、どこか責めるような目だった。そのような目で見られるとは思っていなかった雪は、少し狼狽えた。
「だって、恥ずかしいわ」
「原稿も捨てちゃったの?」
「捨てたわよ」
「勿体ない」
「勿体なくないわ。恥ずかしい」
「僕は好きだよ」
 楓は干したばかりの洗濯物のように柔らかい声で言った。その声が、雪をまた恥じらわせた。雪には出せない声を素直に出す楓が、愛しいようにも、憎らしいようにも思えた。
 雪が働くギャラリーの絵を買ったのが楓だった。古びたような建物と風船の描かれた絵だった。こういう色が欲しかったんだ、と楓は言った。連絡先を交換して、ちょくちょく会うようになった。楓が、住んでいたアパートを引き払って雪の家で同居するようになったのが一年前のことになる。母が亡くなって以来、母の気配のする家で一人暮らしをしていた雪だった。
 綺麗な家だね、と楓は言った。嫌なのよ、と雪は答えた。
「あちこちに、母の気配がするようで、気味が悪くて」
「雪ちゃんは、お母さんと仲が良くなかったの?」
「そういうことはないわ」
 雪は子どもを亡くした母を慰める為に、父が施設から引き取った子どもだった。
 死んだ父も母も、優しい人だった。特に母は、雪のやることなすことに一々手を貸さずにはいられないようだった。小学校でGPS付きの携帯電話を持たされたのは雪だけだった。友達は羨ましがったが、雪には血の繋がらない母の優しさが、ほんの少しだけ窮屈だった。進学先や最初の就職先を決めるときも、自宅から通える距離を条件に選ばされた。
 母の愛を疑っていたわけではない。父が事故死したときも、多感な娘を抱えて生きていかなければならなかった母の苦労を分かっているつもりだった。ただ、母の骨を拾ったとき、何か硬く強張ったものが、肩から滑るように体から抜け落ちていくのを感じた。その後、雪は職場を辞めた。数年間勤めた場所だったが、辞めるときは特に引き留められることもなかった。それから伯父の紹介で、今のギャラリーで働き出した。
 母が死んだとき、家を売っても良かった気がする。けれど、それを口にすることもなかった。そうして、母のいなくなった家で暮らして、そこに楓と暮らすようになって、今、楓の故郷に向かいながら、彼の姉の話を聞こうとしている。

「お姉さんがいたの?」
「いたよ」
 雪の言葉に、楓は特にこだわりもない様子で答えた。
「姉は僕より三歳年上だった。僕が中学に入学するとき、姉は高校に入学したんだ」
 楓は細面で、目の形は切れ長だった。まつ毛が長いためか、横から見ると女性的な印象だった。雪は楓の横顔から、彼の姉を想像しようとした。
「姉は絵の上手な人だった。二十歳で結婚したけれど、相手の人に、他に好きな人があったのが分かって、別れた。僕は何も知らされなかった。大学に入学したばかりだったから、刺激しない方がいいと両親が思ったのかもしれない。夏休みに帰って、姉のことを知らされて、びっくりした」
 楓は淡々と言った。
「姉は少し病んでいた。きっと、打ち明けられない心の苦しみがたくさんあったんだと思う。僕が、姉さん、と呼んでもぼんやりしていた。母は姉の為にたくさん悲しんでいて、疲れているみたいだった。父は、姉にどう接すればいいのか分からないみたいだった。僕は何とかして、姉の助けになれたらと思った」
 ちらり、と楓の目の中で何か光ったようだった。それは、バースデーケーキの上で輝く蝋燭の灯りに似ているようだった。
「僕は姉を散歩に誘った。今はもう死んでしまったけれど、家には大きな犬がいたんだ。稲穂みたいな毛並みの、温かい犬で、ユキって名前だった。雪ちゃんと同じだね」
「だから私と付き合ったの?」
 雪が少しショックを受けて言うと、楓は、そんなことないよ、と言って笑った。
「ユキは老犬だったけれど、リードを引く力はいつまでも強かった。僕は姉と肩を触れ合わせるようにしながら、隣り合って歩いた。心配だったんだ。姉は……なんていうか風船みたいに頼りなかった。気を抜くと、道路に飛び出してしまいそうだった」
 楓はそこまで言って、ふと力が抜けたように座席に深くもたれて、目を閉じた。綺麗な曲線を描いたまつ毛だった。雪は夢の中にいるように、楓の横顔に見惚れた。楓は目を開けて、話を続けた。
「夏休みの間、僕はずっと姉の傍にいた。こう言うとおかしいかもしれないけれど、僕にとって姉は妹のような存在だった。守らなければならないと思ったし、姉を傷つけた人が許せないと思った」
 バスはカーブに沿って曲がった。
「姉は少しずつ元気になっていくように見えた。短い言葉だったけれど、姉の方から話しかけてきてくれることもあった。僕は嬉しかった。でも、勘違いだったんだ」
 バスが最初の停留所に停まった。何人か、バスから降りていく人があった。
「姉にとって、僕は弟ではなかった。酷い裏切りを受けたのに、姉はまだ、別れた旦那さんのことが好きだったんだ」

 楓がそのことに気づいたのは、夏祭りだった。
 祭りが終われば、楓はアパートに帰るつもりだった。姉ももう大丈夫と思えるくらいに元気になったと思った。楓は大振りの花柄の浴衣を着た姉の手を引きながら、幼い頃の懐かしさを込めて、姉さんと言った。姉は頷いて、微かに笑った。
 金魚すくいもヨーヨー釣りも射的も、姉は見るだけで楽しいようだった。楓は綿菓子を二つ買って、一つを姉に渡した。姉は、にっこりと笑って、ありがとうと言った。妹のように思っていた姉の為に行ってきた全てのことが、報われたようで、楓も嬉しかった。花火を観る為に、川原にシートを敷いて並んで座ったときも、まだ幸せだった。
「花火が上がったとき、姉さんが僕にしがみついてきた。大きな音と光に、驚いたんだと思った。大丈夫だよと言って姉の顔を覗き込むと、姉も僕を見上げながら名前を呼んだ。僕の名前じゃなかった。前の旦那さんの名前だった」
 楓は笑っていた。もう何でもないことなのだというように笑っていた。
「怖かったし、悲しかったし、傷ついた。僕はそのまま姉を残して家を出た。姉がお風呂で睡眠薬をたくさん飲んで自殺しようとしたのは、僕が家を出たすぐ後のことだった。その後、姉は姉のような人たちが過ごす施設に行って、そこで亡くなった」
 雪の頭の中で、施設、という言葉がこだまするようだった。
「僕は今、姉のような人たち、という言葉を使った。母が言った言葉だ。でも僕は、その言い方がすごく嫌だった。僕が故郷に帰るのは、姉のお葬式の時以来だよ」
「お姉さんは、いつ亡くなったの?」
「僕が大学の、三年の時だよ」
 楓の目が、バスの中の灯りに照らされて、濡れているようだった。

 バスを降りて、坂を登ったところに家があるのだと、楓は言った。街灯は少なかった。針で突いたような星々が、夜空にキラキラと輝いていた。
 家に着くまで、手を握っていて欲しいと言ったのは、楓だった。楓の手を握ると、久しぶりに手を繋いだかのような柔らかさだった。
 楓は、普段から頻繁に雪の手を握ったり、抱き着いたりしたが、今日の、手を握っていて欲しいという言葉は、切実な願いのように聞こえた。
「姉とのことを、悲しい思い出にしたくないんだ」
 楓は言った。
「時間はかかったけれど、漸く姉のことを懐かしく想えるようになった気がする。雪ちゃんに、姉のことを話して、乱れていた心が整理できたような気もする」
「乱れていたの?」
「故郷に帰ると決めたときも、バスに乗ったときも、実はまだ、迷いがあったんだ」
 楓は雪の手の形を確かめることで自分の心の形を確かめるように、雪の手を握り直した。雪は楓に返事をするように、楓の手を握り直した。楓が、自身の心を乱れていたと言ったことが、意外でもあった。楓は雨の日も晴れの日も、変わらず落ち着いて微笑んでいるように思えた。
 楓から、彼の姉の話を聞いて、雪は彼の傷を知った。
「お父さんとお母さんには、お姉さんのお葬式以来会っていないの?」
「うん」
「一度も?」
「母とは、何回か電話やメールでやり取りしたけれど、父とは全然」
「そう」
「母は心配性だから」
 雪の中で、雪の母の面影がひらりと過った。
 雪は、両親と血の繋がっていないことを、既に楓に打ち明けていた。しかし、母に対しての感情はまだ打ち明けていない。母とのことを語るには、雪には勇気が足りなかった。また、そのような勇気は楓に対しても、母に対しても残酷なように感じた。
 楓の長い背中が、暗いシルエットとなって、雪の目の前でゆらゆら揺れている。繋いだ手はしっとりと雪の掌に馴染むようだった。
「……」
 雪は、楓の長い背中に負ぶさって、目を閉じたいような気がした。
 楓の家の灯りは、温かい黄色だった。
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みんなの感想(1件)

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このストーリーに対して、こういう言い方は失礼かもしれませんが、俺は本当に素晴らしい作品だと思いました。びっくりしました。

解除

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